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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「TAR/ター」
べルリンフィルの地元であるドイツ人であり、コンサートマスターのシャロンを「妻」とすれば、マエストロとしての地位は堅く、同様の事がシャロンにも言えます。しかし、トラブルが起こらなくても二人の関係は自我のぶつかり合いで危うく、鎹としてのペトラが必要だったんだなと思いました。容赦なくリディアを切り捨てるシャロン。「あなたが利害関係なく愛している人が、隣の部屋で寝ている」とは、ペトラの事でしょう。ペトラを思えば、あの女この女に手を出す事は慎んだはずで、この辺も好色おじさんなんだよなぁ。

チェロの若い子、その家、東南アジアの日々は、もしかしてリディアの幻想かもしれません。回収は全然ないのですが、彼女の焦燥感とプレッシャーとして、ケイトの圧巻の演技と、フィールズの幻惑的な演出で堪能したので、あまり文句はないです。デヴィッド・リンチ風味かな?

ラストの落ちぶれ果てた場所で、タクトを一生懸命、誠実にふるリディアの姿も、例え人格が破綻しても、音楽への強盛な情熱の表しでしょう。。損得で生きてきた彼女の、偽りのない愛情は音楽のみなのです。人格と才能は別物だと感じます。バッハの件は、これに繋がるのでしょう。しかし天才は何をしても許されるという時代は終わり、今は私生活も簡単に暴露されます。築いてきたものが、一夜にして失墜してしまう世の中。権力者や実力者は、人格者とまでは行かずとも、広く世の中を見つめる目が必要なんだと、感じました。

仕事部屋としているアパートの隣の住人から、作曲のためのピアノの音を騒音と言われ、プライドを傷つけられ、発狂したように笑い転げるリディア。彼女にとっての芸術は、隣人に取っては騒音なわけ。これには深く感じ入りました。

ずっと以前に生息していた映画の掲示板で、密かに憧れていた人が、「芸術とは、人を感動させるもの」と、ズバッと端的に書いていらして、凄く心に響いたものです。芸術というと高尚な物、素地素養のない者には敷居が高いのです。でも「感動」なら、理解は出来なくても、人生の経験値で味わう事が出来るはず。芸術という言葉が、ぐっと身近になった気がしたものです。

頂点に立った人が奏でる音でも、関係ない人には騒音なのです。耳障りがいいなぁ、また聞きたいわと、ならなかった隣人。あそこでリディアが、怒りで発狂せずに、良し、次は良い音色を出して、クラシックに興味を持って貰おうと奮起したなら、この物語の結末は、違ったものになったろうと思います。実るほど、頭を垂れる稲穂かな、は、天才でも凡人でも権力者でも、万人が備わるべきスキルのようです。

05月19日(金)
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