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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「せかいのおきく」

あー、タイトルの意味、こういう事だったんですね。この作品は、脚本も兼ねる阪本順治監督が、江戸時代の末期を背景に、今を生きる私たちに向けた、「君たちはどう生きるか?」と、問いかけた作品だと感じました。美して愛らしく、そして心の強い作品です。
武家育ちのおきく(黒木華)は、寺子屋で読み書きを教えています。色々あって、今はおとっさま(お父様)の源兵衛(佐藤浩市)と、貧乏長屋で二人暮らし。最近、下肥買いの矢亮(池松壮亮)の相棒となった中次(寛一郎)の事を、憎からず思っています。そんな折、ある不幸な出来事が起こり、喉を切られたおきくは、声を失ってしまいます。
今は糞尿の処理にはお金を取られますが、昔は買い取っていたんですね。そしてそのブツを農家に売る。うん、正しくエコ(笑)。今の感覚じゃ、タダで持っていって貰っても有難いのに。でも長屋の住人たちの、矢亮たちへの対等な態度は、売買が成立していたからかも知れないな。
お役目の正義を貫いたため、源兵衛は藩からお役御免に。「武家育ちの身の上なのに、クソとか屁を垂れるとか、わたくしがこんな言葉を使うようになったのは、全部おとっさまのせいです!」と、目を吊り上げて父を罵るおきくですが、父上ではなく、おとっさまと呼ぶのは、自分の今の境涯を受け止め、馴染もうとしているからです。声を失い、ふさぎ込むおきくを、長屋の住人たちが心配する様子は、「身分違い」を鼻にかけず、長屋に溶け込んでいた父と娘であるのでしょう。二人の人柄を表しています。
中次を待たせながら、厠で用を足す源兵衛が、問わず語りに話した内容が、この作品の肝だったんじゃないかなぁ。「世界の果てなんて、ないんだよ」。勉学の機会を与えられず、文盲の中次です。「世の中」の概念はあっても、「せかい」は知らない。果てしないなら、荒野にするか夢にするかは、自分次第です。人生についての重要な会話を、本当の父子である佐藤浩市と寛一郎に振り当てるのは、心憎い演出です。
「お前、添う人はいるか?」いないと返事する中次。添う人は、男女とは限らない。矢亮の真摯な仕事ぶりに、思わず「兄ぃ」と呼んでしまう中次。慕う気持ちと敬意です。無口な中次の、精いっぱいの表現に、思わず私の胸がいっぱいになる。
矢亮は真摯ではあるけど、今の仕事に屈託も恥ずかしさも感じています。それを誤魔化すかのように、饒舌で朗らかに人と接しています。屈辱的な行為を、笑ってやり過ごそうとしますが、中次に素直に腹を立てろと怒られます。その後の、あの反乱は良かったなぁ。一人で仕事をしていたら、袋小路に入ったままだったでしょう。今は「おひとり様」が注目されていますが、私もぼっちが好きなので、そこは有難いです。でもソロ活動=孤独、ではないのだな、うん。インスタで盛んにソロ活動を発信している人も、フォロワーと繋がっているから、決して孤独ではありません。そういう事よね。
矢亮が武家屋敷に肥を買い取りに行くと、顔馴染みの奴は?と問うと、「犬死したぜ」と言われる。そして、「お前たちは俺たちよりずっといいぜ」と言われます。奴とは、武家の下僕で奴隷扱い。お前たちには、自由があると、その奴は言いたいのでしょう。矢亮と中次は、多分当時の最下層。でも奴の人生は、良い物を食べ、博打に興じても、自由がなく殺伐としているのでしょう。果てしない夢は、見る事が出来ない。
そして源兵衛とお菊の身の上に起こった事も、下々の者から見たら、羨ましいような身分の武士とて、因業多く不自由な身の上なのだと感じます。
「俺たちは身寄りがない」の矢亮の言葉の後は、「だから助け合おう」と続くと思ったら、「文句言う奴がいないから、何でも出来るんだ。二人で盗人でもするか!」と言うので、笑いました。勿論ジョークですが、「俺は盗人はしない」と、ぼそっと言う中次。おきくが愛したのは、この愚直さなんでしょうね。当時だって、やくざや男が身を売る仕事はあったはず。この二人はそれを選ばず、下肥買いを飯の種に選んでいるのです。
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05月02日(火)
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