ID:10442
ケイケイの映画日記
by ケイケイ
[927373hit]

■「ラブレス」
組織化され、系統立てて指令が下され、老若の市井の人々が、凍える寒さも厭わず、アレクセイを懸命に探します。この作品で始めて観た「愛」でした。しかし肝心のボリスとジェーニャは、いつ息子が帰って来るかもしれないのに、お互い愛人宅に入り浸る。本当にどうしようもない親です。

しかし、国家が個人の善意に頼って、危険を省みず、何の権限も持たせず、事件に近い事柄に踏み込ませて良いのだろうか?それはこの夫婦と同じくらい、情けない事ではないのかしら?ボランティアの頑張りを観るほど、私の疑念は広がります。

そして数日経ち、少年の遺体を確認するボリスとジェーニャ。二人とも否定するも、激しく慟哭する姿は、きっとアレクセイなのでしょう。そしてまた夫を罵る妻。どこまで行っても、変わらない夫婦。微かな救いは、二人からアレクセイへの愛が見えた事です。

それから数年後、不倫相手と結婚している二人。しかしそこに幸福感はなく、ボリスの家庭は、妻の母が入り浸り、可愛い盛りの息子を相手するでもなく、ぞんざいに扱うボリス。ジェーナは夫と二人並んでテレビを見ているのに、会話するでもなく、相変わらずスマホを弄っています。そしてテレビから流れる、ウクライナの内戦の様子。家族を思い、現状の悲惨さを必死で訴えるウクライナの女性と、溢れかえる豊かさの中、退廃的なジェーニャとは対照的です。そして、唐突に屋外のルームランナーを使用するジェーニャの羽織ったパーカの胸には、「RUSSIA」の文字がくっきり。

あー、そうなのか。ボリスとジェーニャに、今のロシアと言う国を投影していたのですね。急激に経済的には好転するも、家庭(国家)の中身はスカスカで、成熟には程遠い。身近な家族や隣人(ウクライナ)への愛は見出せず、愛はあっても自己愛だけ。ボランティアをクローズアップさせたのは、やはり社会の成り立ちの歪さを、映していたのだと思います。

しかしこのお話、ロシアだけなのでしょうか?日本でも、終末期の高齢者は、お金のかかる医療や福祉ではなく、隣近所のボランティアで面倒をみようとする案が、実際出ているのです。富める者は自己愛に走り、市井の人は善意のボランティアへと、政治が案内する。これでは国家崩壊へ、舵を切っているようなもんです。

一番肯定されやすい、子供への愛情すら示さない夫婦を通して、国の在り方を問うた作品ではないかと、感じました。ロシアのお話が、遠くの日本でも地続きで繋がっているかのようでした。

04月15日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る