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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「シークレット・サンシャイン」
ふらふらと導かれる様に教会の会合に足を運ぶシネ。心配で着いて行くジョンチャン。そこで彼女は体中の涙が出ているのかと思うほど、慟哭します。やっと泣けたのです。神の愛に包まれたからだと、シネが思い込むのも無理からぬこと、彼女は以降信仰の道をひた走ります。

決してカルト風ではなく、きちんと信仰している様子を映していても、この急速な変化は危ないなぁと思って観ていました。しかしそれで彼女が幸せならば、救われるのならばいいじゃないかと思っていた私は、シネが町の中年婦人たちに布教している時に、意外な言葉を聞くのです。

一人が「私も義母が死ねば信仰するわ」と言うと「祭祀(チェサ)しなくてもいいからでしょう?」と、別の一人が囃し立てます。あぁ!と私は虚を突かれました。キリスト教に入信すれば、信仰上の理由からチェサをしなくても良いとされているようです。これが全てではないでしょうが、キリスト教が急速に信者を増やしている一端ではなかろうか?と、監督に問われている気がしました。

チェサは日本でいう法事に当たりますが、一周忌・三回忌・七回忌という日本式とは異なり、毎年命日に行われます。正式には取り仕切るのは代々本家の長男で、祀るのはさかのぼること五代前まで。それぞれ夫婦なので、10人です。それプラス盆と正月もやります。それ以外にも結婚しなかった先祖筋も人数に入るところもあり、私の知る限り一番たくさんチェサをしていた家は年16回でした。用意がこれまた大変で、一族郎党集まるのでその妻たちで作ります。お皿が見えないようにごちそうを盛りつけなければいけないので、チヂミやナムルなど死ぬほど作らなきゃいけません。盆と正月以外の命日のチェサは、夜中12時から始まり、それが終わってからは供養と称してお供えもののごちそうを食べ(残すといけない)宴会のようなものが始まるわけです。

日本のように前倒しで休日やその前夜にするというわけにはいかず、必ず当日です。お金も膨大にいるし、次の日は寝不足で仕事をするわけです。ソウルなど都市部ではだいぶ簡略化されているようですが、ここ密陽は田舎です。どの国でもそうでしょうが、田舎はまだまだ古いしきたりを捨てられないものです。なので先ほどの「義母が死んだら」と語った女性も、「子供のためよ」と言います。親の世代にはチェサをしないなんてとんでもないはずで、子供のために自分の代で切りたいということでしょう。このシーンは、韓国では話題を呼んだのではないかと、思います。

シネはというと、純粋に魂の救済を願い信仰の道に入った人です。しかしここから映画は急展開。やはりぬぐい切れない哀しさからかでしょう、自分の信仰心を試す為に、シネは犯人に面会に行くと言い出します。相手を許せれば、本当に自分は救われるのだと思ったのでしょう。しかし神は彼女に試練を与えます。何と犯人は獄中キリスト教に触れ、入信していました。そして自分は神によって赦されたと語るのです。

何故私が許す前に神が許すのか?疑問を通り越して憤懣やるかたないシネ。当然のことです。ここからのシネの壊れっぷりが凄まじい。急速な変化は、やはり反動を起こすのですね。万引きしたり投石したり、集会で意味深な音楽テープを流したり、果ては自分を信仰の道に導いてくれた人の夫まで誘惑する始末。そして自殺未遂。その時々に陽光降り注ぐ空に向かい、不敵な眼差しを向けるシネ。光の中の神に、自分の悪態の限りを見せつけて、挑戦しているのです。

そしてまた泣けなくなったシネ。何かする度、過呼吸状態になったり、嘔吐してしまいます。それが涙の代わりなのですね。観ていて非情に辛いです。しかしここで先のシーンが頭を過る私。監督はシネの試練を通じて、信仰の厳しさを表現し、もし仮に、チェサ一つのことで信仰の道に入るとしたら、それは間違いだと言っているように感じるのです。何も悪い事をしていないシネに下る試練の厳しさは、安易な考え方をする人たちには、警鐘となるのかも知れません。


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07月10日(木)
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