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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「ある結婚の風景」(レトロスペクティブ イングマール・ベルイマン)
夫に取りすがり、友人に電話をかけ、半狂乱になって出て行く夫を止める妻。こんなみっともなく情けないことは初めてでしょう。半年後一旦帰宅した夫。穏やかに話そうとしてはけんか腰になり、しかし離れることの出来ない二人。カウンセラーに勧められて自分の幼い頃からの心情を吐露するノートを一生懸命夫の読む妻。しかし夫は寝ています。落胆する妻。ここで涙する私。うちの夫というのは、私がどういう「人」であるかは気にならないのです。気になるのはどういう「妻」か「自分の子供の母親」かということ。私は夫の「人としての有り方」に始終気を配るのに、どうして私には「人」としての成長を求めないのか?私も何度自分の感情を訴えたかわかりません。
あきらめの境地に辿り着いた時、子供が自分の母親はどんな女なのだろうとか、どんな人なのだろうとかは、気にしないのではないかと、ふと考えたのです。娘なら母の背景に思いも馳せるでしょうか、息子ならまずないこと。夫というのも、そんなものではないかと思ったのです。自分にとって目の前の女は「自分の妻」以外の何者でもないのだから、「妻」としか見えないのは当たリ前なのです。妻として求め妻として愛してくれているならば、それでいいのではないかと理解すると、私の心は晴れました。それは結婚20年くらいのことです。
その後の長き別居の果て、結局離婚する二人。しかし署名する段まで来て、また壮絶な罵りあいがあり殴り合いがあり、すごいです。あんなに毛嫌いしながら、最後の一歩まで迷いセックスまでする。まだ夫婦なのです。別居の逢瀬の時にも必ずセックスがありました。罵りあい罵倒しあっても、セックスしてしまう、それが理屈抜きの夫婦なのですね。あぁ凄まじい・・・。夫婦のセックスは、長年暮らすとお互いが男と女だと確認する行為でもあるでしょうが、他人だと認識することでもあるなぁと感じました。
二年ののち、何と別々の配偶者がいるのに旅行に来ている二人。観劇で偶然ヨハンを見かけたマリアンヌが、彼のあまりの寂しげな様子に切なくなり声をかけたからです。このプロットに食い入るように画面を見つめる私。
あれは結婚15年くらいの、夫に不満がいっぱいあった時です。ある晩の私の夢は、夫とは離婚して今よりもっと経済的にも豊かに暮らせる男性と再婚し、彼は子供達にもとても良き人です。そんな再婚相手と町を歩いている私は夫と偶然再会します。結婚していた時よりやつれた夫は、私に「元気か?幸せそうで良かった」と微笑んでくれます。私は何故この人と別れたのか、心底後悔して号泣するのです。今思い出しても、あの夢の中の気持ちが蘇り涙が出るほど。この夢が忘れられない私に、マリアンヌはぴったり重なりました。奇しくも旅行に来た日は、ヨハンとマリアンヌの「結婚20年目の記念日」だったのです。
この作品のヨハンには、女優達と数々の浮名を流したベルイマン自身が投影されているとか。マリアンヌ役のウルマンも、長きに渡って公私のパートナーだったはず。愛人に妻役をやらせるとは、一見非情に見えますが、ウルマンに、自分の妻の気持ちを体感してもらい、それを妻に観てもらいたかったからでは?私にはそれがベルイマンの、妻への侘びに思えるのです。
しかし国は違えど、寸分違わず夫婦の事情はいっしょのようです。自分が夫婦ケンカしているかの如く疲れました。結婚10年の時、私はいっぱしのプロの妻だと不遜にも自認していましたが、当時の自分とかぶるマリアンヌの妻としての未熟さに、あの時の私は人の年齢で言うと、15歳くらいだったのだなと思いました。幼くはなくはないが、まだ世間を知っているようでわかっておらず、感情にムラがある思春期、そう感じました。
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01月19日(金)
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