日々の泡

2003年01月30日(木) 藤沢周平「たそがれ清兵衛」読了

読了といっても短編集の中の一編を読んだだけであるが。
実は本一冊まるまるの長編だと思って気合を入れて読み出したので、いきなり終わってしまったときは驚いたが、最後の場面、療養所に尋ねていくとずっと動くこともできずに介護を受けていた妻が 表で立って出迎えているシーンで思わず胸が熱くなった。
献身的に妻の介護をする清兵衛はさりげない中に愛情をみせていてそれもいい。
ずっと村上春樹ばかり読んでいたので 冒頭の数行を読んだときは「藤沢周平だ〜〜」と妙な感動を覚えた。この作家にはまりこんでいたのはいったいいつごろだったのだろう。 10年くらい前になるかもしれない。

他の短編も面白そうだ。



2003年01月29日(水) 村上春樹「スプートニクの恋人」読了

途中まで読みかけて ついつい「ねじまき鳥クロニクル」3巻を読んでしまった。 
で、昨日から再び読み出す。 あいかわらずどこまで読んだか忘れていたがすんなりと入ることができた。

解説にもあったが 不思議な恋愛小説だった。 しかもなかなかのハッピーエンド。

すみれという女性にはあまり共感を覚えなかったが、最後の最後に彼女の帰還を主人公のために喜ぶ自分に気づきうれしかった。

みんな幸せになれるといい。



2003年01月27日(月) 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」3巻「鳥刺し男編」読了

笠原メイの救済、妻クミコの破滅と復活、かつてワタヤノボルという名前だった猫「サワラ」の帰還。 そしてあの戦時中に殺された動物の話。
いったいなにがなんだかわからないままに、小説を読み終えた。

あふれんばかりの日常的なあれこれに圧倒されつつも やはりこれは一つの物語だった。

複雑なものから 単純なものへ。 物事は絡み合いながら終局に向かい、新たなものとして生まれ変わる。

この困難な日々。 村上春樹を読み続けたこと。 ほとんど排他的に読み続けたこと。 村上春樹は優しい。 断定しない。 断罪しない。



2003年01月21日(火) 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第2部 予言する鳥編」読了

なんと、一ヶ月以上たってしまった。おまけに年は越しているし。 
相変わらず村上春樹です。 
通勤の行きのバス停からバスに乗りつつ読み、国分寺駅で日経を買い、死亡欄と人事異動をチェック、その他めぼしい記事のみ読み(この間まで私の履歴書は山本富士子だったがすぐに終わり今はソニーの大賀典雄)その後また読書再開。 こんな感じなので あまり読んでいる時間はないがそれでもなんとか2巻まで読了。 以前単行本で2間までは買って読んだ記憶がある。 明日から3巻に突入。 結構楽しみだ。



2002年12月15日(日) 村上春樹「回転木馬のデッドヒート」

短編集である。
なぜ小説を書くのか 前書きにしては長い「はじめに」の中で興味深い一説があった。 長くなるが引用する。
「自己表現が精神の開放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神主開放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それはやめたほうがいい。 自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。 もし何かに到達したような気分になったとすればそれは錯覚である。 人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用はないし、それに付随する救いもない。」

まさにそのとおりであろう。

「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」を読む。
レーダーホーゼン いわゆる半ズボンをドイツ土産に夫からたのまれた妻の話。 夫に対するいきなりの嫌悪感に私は非常に共感を覚えた。 文中にあるように女性だから私はわかるのだろうと思ったが、考えてみたら村上春樹氏は男性である。 これこそ小説と言うものだろう。

昨日、一冊ずつ買い揃えていた「ねじまき鳥クロニクル」の第一巻を買う。2巻まで単行本で読んだのだが、すでに数年が過ぎていて第3巻から入るのは無理がある。 先日書庫を探し回ったが2冊とも出てこない。 しかたなく文庫本で再読することにする。



2002年11月27日(水) 村上春樹「風の歌を聴け」読了

読了といってもほんの154ページ。それでも昨日、今日と二日かかってなんとなく読み終えた。 1979年の作品。 多分デビュー作。
いまから何年前の作品化と考えると少々めまいがする。

友人の「鼠」とジェイズバーがでてきた。
「羊をめぐる冒険」に出てきたのをなつかしく思い出す。まだ読んで一ヶ月もたっていない筈だがずいぶんたったような気がする。

内の中に星のある羊を取り込んでしまったがために自殺に至るしかなかった「鼠」。 



2002年11月22日(金) 村上春樹「蛍・納屋を焼く・その他の短編」

昭和59年の作品。 短編集。「踊る小人」という短編が一番印象的だった。 と、書いておいてもすぐに忘れてしまいそうな一冊。

ようやく今日の帰りに「ねじまき鳥のクロニクル」3巻目を読み出す。 1,2巻を読んだのははるか昔。 それでも私は 上下巻の小説を下巻から読める特技をもつ。 ということで、今度も3巻から読み出す。 たしかこの主人公の男性は妻に去られたのではなかっただろうか。



2002年11月19日(火) 「国境の南、太陽の西」読了

本当の生き方というのはなんなのだろう。 これは自分ではない、本当の自分ではないと思いながら人間は死んでいくのだろう。



2002年11月14日(木) 村上春樹「国境の南、太陽の西」

ダンスダンスダンス」1巻は昨日読了し、朝から「国境の南、太陽の西」を読み始めた。 1992年発刊とのことで10年前の作品。 暗い。 これまで読んできた小説と少々異なり、主人公に軽妙さがない。 と、思ったら他の作品の主人公は30歳半ば。この小説は小学生のころから始まる。なるほど、こんな学生時代、20台を過ごして現在のあのなじみのあるタイプに成長?するのだろうか、と古いアルバムをのぞいたような気がした。 
まだ半分なのでなんともいえない。 この主人公が今後どう変身するかはわからないが、今のところ女の子二人の父親として妻ともうまくいっているし、ジャズバーを3店も経営している。 やや過去の出来事が影を射してきたが。

小学校のときに別れた女友達との再会をきっかけにこの小説がどんな方向に進んでいくのかが楽しみだ。そして最後に私はなじみのある少し人生に諦めを感じつつも日常生活を楽しんでいる男に会えるのだろうか。



2002年11月11日(月) ダンスダンスダンス(上巻)途中

朝7:14国分寺発の特別快速の中央線
月曜日は特に満員。 そのぎゅうぎゅう詰めの列車の中、ダンスダンスダンスの上巻を読む。 滂沱の涙。 どこを読んでもわが身のことのように思われて泣けてくる。

下巻を先に読んでしまっただけに、筋を追うことなく内容を味わうゆとりがあるからかもしれない。

設備の整った現代的なドルフィンホテルから、ふとした拍子に「いるかホテル」に移動し、主人公は あの「羊男」に再会する。
その羊男の台詞を長いが引用する。

「あんたはこれまでにいろんな物を失ってきた。 いろんな大事なものを失ってきた。それが誰のせいかというのは問題じゃない。問題はあんたがそれにくっつけたものにある。 あんたは何かを失うたびにそれに別の何かをくっつけて置いてきてしまったんだ。まるでしるしみたいにね。 あんたはそんなことをするべきじゃなかったんだ。 あんんたは自分のためにとっておくべきものまでそこにおいてきてしまったんだな。 そうすることによってあんた自身も少しずつ磨り減ってきたんだ」

ここの箇所を読んで私は、今までに失ってきたものを思い出した。そして私がそれにくっつけてなくしてしまったものを想った。

愛情や希望や信頼という大事なものを。

例えば、今年になって逝ってしまった14年間一緒に暮らした2匹の猫。
私がなくしてしまったのは、猫という存在だけではない。 小さな生き物を大切にしたい、守りたい、幸せにしたい、慈しみたい、そして懐かれることによって得られていた信頼されるという心地よさと責任感。
そんな面倒な言葉でなくたっていい。 生き物を可愛がるという気持ち。
そしてそんな小さな存在から大きな慰めをもらっていた。
そんなものを根こそぎ奪われてしまった。
私は今、失うことへの恐怖から、もう生き物を飼うことができない。
硬直している私を日々感じる。

もう一度幸せになりたかったら勇気を出して、また猫を飼うしかないのだろうけれど、いまはその勇気がでない。

そんな個人的な事情は別として、村上春樹は、不思議にどの小説においても私のウィークポイントを的確についてくる。 それは、加藤諦三のように、これでもかというように私の弱さをひきずりだしていくとのは違い、硬直してしまったものを、あたかも「みんなそうなんだよ」と優しく解きほぐしてくれるような感じだ。 私は暖かい涙を流し続ける。

この涙 一滴一滴が、いつか私のこわばりを溶かしてくれるだろうか。



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