かっしーのつぶやき
DiaryINDEXpastwill


2007年10月15日(月) やさしいはなまめ、うすむらさきよ

花豆のやさしい紫色を見るたび、母方の祖母を思い出す。


その祖母が晩年、病を得て入院していた時、私は家で「花豆の煮たの」を作って持っていった(家では花豆の「きんとき」でも「蜜煮」でもなく「煮たの」としか呼ばなかった)。
とは言えそれはわざわざ買ってきて作ったわけではなくその時たまたま家に花豆があって、「そういえばおばあちゃんは花豆が好きだから」という母の言葉に従ってなんとなく煮てみたに過ぎなかった。

けれど、ベッドの上でそれを見たとき祖母が上げたあの歓声が今も忘れられない。
「あら、花豆!」
それは病室には不似合いなほど可愛らしい、明るい声だった。

祖母がそんなにも花豆が好きだなんて、私はそれまで知らなかったのだ。実家の食卓の上には、それほど特別な時でなくてもいつでも「花豆の煮たの」がなんとなく載っていた。どうということのない中ぶりの普段使いのお鉢にいつでも「花豆の煮たの」は盛られていて、家族の誰もがそれに対してたくあんをつまむ位の気持ちでしか箸を伸ばさなかった。花豆なんてそういうものだとしか思っていなかった私は、毎日何の気なしに箸休めに花豆をつまんで食べてそれに何のありがたみも感じていなかった。考えてもよかったのに。共働きの母に代わってほぼ毎日の孫たちの食事を作ってくれていた祖母が、孫たちの誰かがもりもり食べるわけでもない「花豆の煮たの」をいつでも食卓に載せておきたかったのはなぜなのか。少しは考えてもよかったのに、私はただ何も感じず考えず暢気に箸を動かすばかりの子供だったのだ。

祖母の病名がわかってからしばらくして、私は祖母から彼女流の煮豆の作り方を教わった。私が自分から申し出たのだ。それまでたくあんと同列の扱いしかしてこなかったくせに、その時になって初めてこの花豆の味がもう食べられなくなるのは嫌だと思った。それにしたところで、なぜ実家の毎日の食卓に花豆の煮たのがいつでも存在していたのかという理由に思いをいたしたわけではなく、ただ自分の味覚をこれからも満足させつづけたいためばかりだったと思う。ひどい話だ。それまで料理のことなど何一つ教わろうとしたことのない孫娘が突然そんなことを言い出して、そのとき祖母がどう思ったかは今はもうわからない。

ただ、祖母が教えてくれたとおりに私が煮ていった花豆を、病室の彼女はとても喜んで食べてくれた。


旅行先で地域特産のみやげ物として花豆が麗々しく売られているのを見るたび、小奇麗なお鉢に盛られて金箔なぞあしらわれている花豆の甘露煮を見るたび、私はかなしいほどに考えなしだった自分の稚い頃のことと、それでも優しかった祖母のことを思い出す。


2007年10月07日(日) 暮らしの中に歴史あり

兄宅に遊びに行く。
というか明らかに子供さんがたにこっちが遊んでもらった一日。
詳しくはtimutaんの日記をご参照のほどを。 

実はtimutaんが帰った後、兄宅に今度は母方の叔父&叔母&その息子夫婦とその嫡男3歳児、という最強な人たちが入れ替わりで訪れたのだった。
まあ、それからがまた、輪をかけて賑やかだったのなんの…

甥っ子1号(男子9歳)とそのはとこ(男子3歳)が、おもちゃの取りあいっこやら追いかけっこやらお馬のけいこやらでもう遊ぶ遊ぶ遊ぶ。そしてそれにスキあらば赤ちゃん(男子1歳半)も参入しようとする。君らは何がそんなに楽しいんだ、一体何が君らをそんなに笑わせるんだと真顔で訊ねたくなるようなはしゃぎぶりの男の子たちなのだった。今からこんなでは、あと2〜3年も経ったらいったいどんなことになるのやら、と大人たちはみんな顔を見合わせて笑っていたけれど、笑いながら私は心の中で(ああだけどその頃にはもう甥っ子1号なんかは中学生とかになるわけで、そうすると子供同士のじゃれあいの風向きもまたいろいろ変わってくるわけで、そのうち盆だの正月だので親戚が集合した時はムズカシイ年頃の青少年男子諸君が居並ぶことになるのだな、うわあ)などとひそかに萌え…もとい考えていたりもしたのだった。
叔母バカですらなくて単なるバカなオバだ、これじゃ。

ところでだ。

あんたたちが子供の頃もこんなもんだったわよなどと言って笑っている叔母から昔話をいろいろと聞いているうちに、現在カビとの闘いの舞台となっているかの実家の押し入れの場所は、その昔、井戸(!)だったことが判明して軽くショックを受けた私だった。

もちろん今では井戸は埋めてあって床下の地面になっているわけだけど、けどでも、

…井戸か!

ハハハそりゃどんなに私が除湿剤の鬼になっても端から湿気ていくわけだよなハハハハハ(棒読み)


2007年10月06日(土) どこまでつづくぬかるみぞ

本日、快晴。おお、なんて嬉しい青空よ。もしもこの連休中の天気が悪かった場合、この勝負はかなり分が悪くなるのだ。頼むぞお天道様。
というわけで、この秋もかびるんるんとの戦いの日がやってきた…

今年の夏は例年に比べ湿気が多かった、のかどうかは知らないがとにかく9月半ばに実家の例の押入れ本棚をチェックしてみたら、例によって例の如く合板の裏という裏がこれすべて白カビ緑カビ達の楽しい集会所と化していたのだった。
かくてはならじ。というわけでこの3連休はこれすべて湿気との戦いに当てるつもりで帰省。

押し入れから本棚を引き出して覗けば、奥の壁に10枚ほど貼り付けてある湿気取りシートには私が書いた今年の5月の日付が入っていて、すべて完全にゼリー化していた。梅雨と夏場の湿気を吸うという使命を果たし終えた彼らの姿はなにやらもの悲しくも健気であった。5月の同じ時に押し入れ内にこれでもかと投入したその他の湿気取りグッズも、総員液状化した屍を晒している。

思い返せばカビとの戦いが膠着状態に陥って数年、払拭に使用するハイターの調合濃度は濃くなる一方である。果たしてカビの胞子を吸入するのとハイターの塩素を吸入するのとどちらが身体に悪影響を及ぼすのだろうか。嗚呼。

…。

ええええい、怯むな俺、臆するな俺、この俺がカビるんるんなどに負けるものかよ!<発作的にイデオン口調


2007年10月05日(金) 気分は平隊士

timutaんの日記を読んでふと思う。

私は今現在とりあえず表向き「土方さん」て書いてるだけで実は決まった呼び方とか全然してないんだった。
「土方さんてやっぱりカッコイイ…(はぁと)」
「歳さんはあれで結構照れ屋なとこあるかならあ」
「まあね、いいんだよヒジカタはそれで本望だったんじゃねーの」
「トシちゃん可愛いよトシちゃん」
どれも私的にはアリでその時々の文脈で適当に使い分ける感じ。

でも本当のこと言うと

「副長〜!」

てのが自分的にいちばんしっくりくるのかもしれない。

やっぱりどうしたって私の、土方歳三に対するスタンスは「平隊士その1」。できることなら箱館までしぶとく生き残ってついていって、いつまでも副長副長って呼んでは「俺ァもう副長じゃねえ」って怒られて、そんでもやっぱり事あるごとに副長って呼んじゃってはひえーって思ってる元・平隊士その1を土方さんは呆れたように苦笑いして放っておいてくれる、というようなそんな平隊士どりー夢みたいなのを心ひそかに温めていたりするのだった。


2007年10月04日(木) ユメノヒジカタサン 2

『銀魂』のコミックス20巻、真選組動乱編・最終話を読んで泣く。

「てめーら全員
 士道不覚悟で

 切腹だあアアアアアアア!」

って土方さんがバズーカ持って戻ってくるあのページ見た時はもう嬉しくて泣けて仕方ありませんでした。
あの瞬間、私の心は完全に「平隊士その一」になっちゃってましたから。
うわー!やったァァァ!!副長が戻ってきたぞォォォーーー!!(泣きながら駆け寄る)。

これでオールオッケーなんだと思います、少なくともいち土方ファンの私としては。
多分これ以上望むことは何も無くて、これからも副長は副長のまま近藤さんの傍にいて、総ちゃんに笑われて、平隊士たちに恐れられながらも愛されて。ああ。


-----

その昔幕末史に耽溺していた頃の私というのは即ち、己の歪んだ自我を妄想の空に広げるだけ広げて勝手にいい気になっていた激痛バルンガ時代とも呼ぶべき自分でありましたので、その頃の記憶というものはほぼすべて自らの心の中の海深く投棄済み、今更引き上げたところでそれには恥という硬いフジツボが一面に付着していてもはや修復は不可能と思っていたわけですが、なぜか今この『銀魂』を読んでいるとそんな完全石化し果てたはずの記憶からフジツボがところどころはがれ落ちて、その下にかろうじて残っていた心の柔らかいところがつかのま潤いやがて海中に溶け去っていくような、そんな言わば浄化作用(カタルシス)のようなものを感じます。

『銀魂』は、いいマンガだと思います。


2007年09月23日(日) がんばれ常磐ハワイアンセンター

懐かしの常磐ハワイアンセンター、改めスパリゾートハワイアンズに実に四半世紀ぶりくらいに行きました。
最寄のインターを通った時点で既に係員のおじさま達がみんなアロハを着ているのを見て、胸が温まりました。ああ、この手作り感はまさに懐かしの常磐ハワイアンセンター…<ハワイアンズって言ってあげなさいよ

ここは、子供の頃には水泳少年団の遠足で毎年行ってたところです。所属していたのは水泳少年団、とはいえ私が小学校の頃に近在に温水プールなんてありませんでしたから、冬場は筋トレとなぜか剣道とバスケットという変則活動を余儀なくされており、年に一度の常磐ハワイアンセンターといえばそれは即ち「冬なのに泳げるとっても貴重な機会」であったのでした。みんななんだかんだ言って水泳好きの子たちだったので、団体様用の貸切お座敷(今はありません)みたいなところで男の子も女の子もいっしょくたに着替えた後は、それこそ身体で水をむさぼるようにプールで泳ぎ倒した感覚をぼんやり覚えています。

大きなプールと流れるプール、そしてハワイアンダンスショーの舞台という基本的な構造はあの頃からほとんど変わっていなくて、入場して思わず言ってしまった最初の言葉は「うわー、変わってないー」。もちろんそれなりにいろんなところが現代風にリニューアルされてて、滑り台の形は直滑降(!)じゃなくて曲線になってるし、舞台でドサ回りの演歌歌手(!)も歌ってたりしないけど、それでも、えーとその、いろんな意味で昭和的つーか田舎的つーか、とにかくこう全体的になんともいえず垢抜けない感じが漂ってるあたりはわりとそのままでありまして、嗚呼、ここはやっぱり、紛うかたなくあの「常磐ハワイアンセンター」なのだと思い知らされた私なのでしたよ。

しかし、21世紀の私的にはナニでアレな部分はあっても、それでも現在でも思ったよりずっとたくさんの人が来ていて、プールも水着で入れる温泉も水という水はこれすべて家族連れでいっぱいで、比喩でなく文字通り芋洗い状態でした。
「フラガール」が話題になって人気が急に出ちゃったためなのかどうか、ともあれ来場者数の多さに対して設備が追いついていない感じがあちこちでありましたですね。繁盛するのは結構だけど、こうなるといよいよ「時代に合わせた大改修」が必要になるのかもしれないなー、などと我がことのように心配してみたり。だって、ここは私にとってやっぱり、子供の頃の楽しい思い出の地なのですもん。田舎っぽいよなー、ショボいよなーと言いつつその一方で、やっぱりここはいついつまでも多くの人に愛される楽しき夢の場所であってほしいと、けっこう真面目に思い願ってもいるわけなんですよ。

がんばれ常磐ハワイアンセンター、あの宝塚歌劇団だって元はと言えば温泉プールの付属合唱団なんだ、フラガールの流れを汲むダンス文化が常磐線伝いに茨城北部に流入して来ていなかったらもしかしたらあの七帆ひかる様だって生まれなかったのかもしれないんだ<注:地元民に流布している牽強付会ミラクル伝説(笑)

そんなわけで、限りなく常磐ジモティーな私としてはたいへん複雑な感慨に溢れた一日でございました。
でも、思い返せば回りの家族連れの子供達は何がそんなに楽しいのかと傍目に不思議になるほどみんな笑顔全開ではしゃいでいたし、今回初めて行ったという同行の皆さんも最終的には「楽しかった」と言ってくれたことだし、なんというかそういう人の心の純真さみたいなものに救われた思いがいたしましたことでした。

いろいろあると思うけど、これからもがんばれ、常磐ハワイアンセンター。<どうしてもそう呼びたいらしい


2007年09月21日(金) 駆けつけ3杯・有楽町22時

「女で最初の一杯にギネス飲む人、初めて見ましたよ」

って10歳年下男子に真顔で言われましてん。
今まであんたの周りにいた女ってどんな妖精ちゃん達じゃー、と毒づきたくなるのを押さえて「いやー、喉渇いてたんでさあー」とニッコリ笑って、ってよく考えたら何の説明にもなってないなそれ。

ギネスから松露の水割り経由で伊佐美のロック、の頃には彼の目が素で怯えていたよーな気がするがまあどうでもいい。
初対面の10歳年上女に向かって俺の元カノが今度結婚するんですよ話とか俺長男なんスけど実家の親と親戚の折り合い悪くて話とか語るからにはそれ相応の覚悟ができてるんだろうなと勝手に解釈して、こっちもなんか思いつくままに罵倒もとい語り倒して終わったような気がする。

月曜日に彼が会社に来なかったらそれは多分私のせいだろう、すまんtimutaん、と後からちょっとだけ思った。


かっしー |MAILHomePage