かっしーのつぶやき
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4月1日付けで職場に新人さんが配属されてきました。 右も左もわからず頼りなげにオフィスに来て挨拶した新人さんを、とりあえず当面使えるようにせねばならんわけですがその担当が何故か私に振られてしまいました。
他にもっと気の合いそうな若いもんがいるのに何で私なのよー、とかちょっと思いながら、それでも指導開始。
新人さんが基本的におどおどした気配でいっぱいなので、教える私もなんとなくおどおどしてしまいます。 当然業務の歯車はかみ合わず、弱いなー、肝据わってないなー私、と自己嫌悪に陥ることしきり。
それで思い出したのは、去年TVで見た吉原知子選手。
弱冠中学三年生の狩野舞子が全日本女子バレーの合宿に途中合流した時、「よろしくおねがいしまーす」と挨拶したカノマイに対して、「いらっしゃい!」と、ハスキーな通る声で答えていた彼女の姿。
あの時は画面見ながら「さすがトモさん、平常心だよー、あたしだったら中学生がひょこんと入ってたらウロタエて声とか上ずっちゃうかもー」などと他人事のように思ってただけでしたが、こうして今、自分が若いもんを指導しながらあのシーンを思い返してみると、あの時吉原は本当はどんな気持ちだったんだろう、そしてあの時吉原の「いらっしゃい!」を狩野はどんな風に受け取ったんだろう、と改めて考えてしまいます。
例えば今の私などは、バッサリ任されてしまった新人を内心では「さて、どう扱ったもんか」とやや困惑しているけれど、かと言って自分からアタシ困惑してるのよーと誰彼かまわず訴えて歩けるわけでなし、結局いつもより寡黙になるのが関の山だったりするわけですが、その私の姿勢だって、無関係な他人の目には「度胸が据わってるベテラン社員」みたいに見えてるのかもしれないし、あるいは人によっては「何て無愛想なやつだ、若い子にはもっと優しくしてやればいいのに…」なんて不快に思ってたりするかもしれない。
結局のところ何事も自分流にこなしていくしかないし、会社というものが営利追求団体である以上決算の数字がすべてを証明することになるのだから、事業の途中で余計なことをあえて言い立てる必要もないわけで。
この頃、吉原選手に関しては、きゃートモさんカッコいいー、っていう感じだけではなくて(いやそういう感じの時も少なからずありますけど)、こういう時に吉原だったらどう考えるだろう、どう動くだろう、というように「組織の中で働く者の身の処し方」みたいな切り口から、彼女の存在に思いをいたすことが多いです。
たとえ彼女と同じようには出来なくても、今まで見聞きした彼女の言動の中に、組織人として私でも少しは見習えることがあるんじゃないかなあ、なんて思いながら、日々の仕事をこなしていたりします。
そう、せっかく吉原知子という人に惚れこんだんだから。 たとえ足軽雑兵といえども、心はサムライ、で、行きましょう。
吉原殿中の話、つづく。 週末実家方面に行く用があったので、またしても吉原殿中を買って帰ってきたお茶目さんは私です。 作ってるお店によってけっこう味が違うので、食べ比べ甲斐がありました。
さて、あさ川製菓のパッケージ文章もふるってましたが、井熊総本家のもなかなかでした。
「吉原殿中の由来
水戸藩九代藩主徳川斉昭(烈公)様のお側に吉原と申す御殿女中がおりました。 たいそう心懸けのよい婦人で、毎朝神前に捧げた御飯と、殿様が食前農人形に 備えた飯粒とを毎日丹念に糒(ほしい)として貯えて置きました。或る日殿様から この御飯の始末について御下問がありました時、吉原は糒を煎って黄粉(きなこ)を からみ茶菓として差上げましたところ、殿様の御気に召され且つその処置を 非常に褒められました。それから各家々にこの風が伝わり、其の後是れを漸次改良 工夫して菓子化したものが今日の吉原殿中で、古くより水戸に伝わった銘菓でございます。」 (井熊総本家 「吉原殿中」 パッケージより)
斉昭くんはお菓子好き殿様として有名で、自筆の「俺様お菓子デザイン帳」みたいなのが残ってたりもするんですが、その一方で「兵糧(今で言う戦闘糧食)」を熱心に研究してたりもしたんですね。「兵糧丸」という名前の、忍者の携帯食みたいなのを水戸藩で独自開発したりもしていたそうで。 そういう殿様なので、吉原さんのそのアイディアレシピにはかなりグッときちゃったんではないかと思います。
「あさ川 の 吉原殿中
名君烈公の頃、御殿女中・吉原が日頃の節米の心から 貯えておった干飯(ほしいい)を炒り、飴、貴奈粉でくるんで つくった菓子が元といわれておりますが、烈公の御意に 叶ったこの菓子に改良に改良を加えたものが、 その名も御殿女中・吉原の名をとって吉原殿中と申し、 軽妙風雅な味の銘菓として知られております。… 」 (あさ川製菓 「吉原殿中」 パッケージより)
こうして読むとなにやらハマりすぎててまるでネタのようですが本当に実在するお菓子です。
…って、サムライの次は御殿女中かい!!<すみません
この地元超メジャー菓子のあまりのネーミングの妙に今更気付きわざわざ田舎から買って帰ってくる私らも私らだが。 だって、“その名も御殿女中・吉原の名をとって吉原殿中”なんてもう、シビれるフレーズじゃないですか。
徳川御三家のひとつ水戸徳川家、中でも名君の呼び名も高い烈公・斉昭に仕えた御殿女中といったら今風に言えばスーパーキャリアウーマン、そのへんの木っ端侍なんぞ束になってもかなわない、知恵も度胸も超一流のサムライ奥女中ってなところ。
「よしはらさまー、よしはらさまー、 いちだいじでござりまするー、とか言ってお端下たちが助けを求めに行ったりするのよー」
とアホ話をtimutaんにフッたところ、
「さてはお家の一大事と、お掻取の裾をきりりとからげ、白い鉢巻を締め腕に覚えの薙刀構え、お局の出仕廊下を走る吉原様!」
と返す刀で袈裟懸けに斬られました(笑)
そうだった、彼女は、吉原知子は、サムライなのだ。
準優勝に終わった試合後の彼女の談話を読んで、それを思い出した。
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武士道の精髄を説いた名著『葉隠』は、あの有名な 「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」 という一文で始まる。 あんまりそこばかり有名なせいで、武士道とは、サムライとはすなわち散り際の美しさを以てその本分とするかのような考えが世間にはあるけれど、実はむしろ逆だと私は思う。
『葉隠』は説く。 「毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり。」
いざ事あらば華々しく散って見せようなんてのは所詮、一番カッコイイ散り時はいつだろうかと時分を窺う御為ごかしでしかない。 サムライに何か成すべき仕事があり、その使命の中にひととき己が身を置くと決めたのならば、いつでもその仕事に自分の全存在を賭して臨めるよう常に身近に死=「その使命を終了する時」のことを考えていて、考えて考え尽くしていつしか「いつ終わっても構わない」という域に至れば、かえって自分の使命が「終わる」ことを無駄に怯えることもなく、自他の存在に気負うことも萎縮することも超えて日々の武道芸道に自在に通じることができるようになるし、それが結局は己が成すべき仕事に対して生涯にわたって最善を尽くすことにつながっていく。
武士道とは、散華の美学を言うのでは決してなく、それは己が使命が終了するその最後の瞬間までを 「常に十全に生き尽くす」 ための、心構えのことを言うのだ。
この葉隠の一節に、私は彼女がいつかインタビューで語っていた言葉を思い出す。 インタビュアーが3年先のことを尋ねた時、彼女は笑って答えたのだ、
「だって生きてるかどうかだってわからないんだから」。
このとき彼女に関する知識が浅かった私は、吉原知子という人は大きな病気かケガでも身体に抱えているのだろうか、だからこんな何かを悟ったような発言をするのだろうかと思ったものだった。 だけど、違った。 彼女がその胸に抱えているのは、余人が考えるよりはるか深部まで透徹した、大きな覚悟だった。
葉隠に「常住死身」と語られていることと、 吉原が「常に一戦一戦が最後の試合と思ってプレーしている」と語ったこととは なんと似ていることだろう。 似ているどころの話じゃない。寸分も違わない。
山本常朝の武士道と吉原知子のバレースタイルは、つき詰めれば同じことを語っている。 今さら気がついた。 なんてことだろう。 なんて人だろう、吉原という選手は。
一瞬、魂を抜かれたように虚脱したあと、そして思った。
そうか、 それほどまでに吉原知子が自らのバレー人生においてサムライであるのなら、 そのサムライ・吉原に惚れ込んだ以上、たとえ私のような一ファンのごとき足軽雑兵といえども 心根は同じようにサムライでなくてはいけないってことなのだ。 そうでなければきっとあの侍大将に最後まで付き随っては走れないってことなのだ。
いつ何時刎ねられようと悔いのないように、 一日一日、一戦一戦、一打一打を今生最後と思い定めて。
そこまで思ったら、何だか雪の朝みたいな、厳しいけどあかるいような不思議な気分が、降ってきた。
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かくのごとく、同い年の赤の他人に『葉隠』なんてものを真剣に読む気にさせる。
そう、吉原知子とは、そういう人物なのだ。
| 2005年03月17日(木) |
心の師はモトコ様 4 |
匠ひびきと吉原知子を同じ心の抽斗に入れておく、という姿勢は世間一般常識的にはたぶんダメだと思うけれど、我が心の師・O林モトコ様ならば多分ダメとは言わないでいてくれるような気がする。
ふと思い立ちO林モトコ様のコラムをバックナンバーの最初から読み倒してみた。 その中の1999年2月3日付けのコラムでモトコ様が書いていることと、先日のお茶会で匠ひびきが言ってたこととが、とても似ている気がした。 舞台からエネルギーをもらう観客とそのパワーに励まされる役者、その関係性は、スポーツと同じなのではないか?とモトコ様は言う。 自分達も、心身ともにギリギリのところで、それでも夢という名のハンマーで限界という壁を叩き割ろうとしてきた、たくさんの人の励ましに支えられて、と。 お客さんからパワーをもらってまたがんばれる、と語る、そんなモトコ様が、匠とかぶった。
どうして私はスポーツを見るんだろう?舞台を観るんだろう? どうして私は生の人間の現在進行形のドラマを、その実在のスペクタクルを求めずにいられないんだろう?
それはきっと私が、 自分では届かないネットの上の何センチ、追いつけないボールまでの何センチか、 その距離を鮮やかに跳んでみせるアスリート達のその一瞬の姿に、自分では叶わなかった夢を重ね見るからだ、 自分では形にできない完成された身体のフォルム、響かせられない豊かな歌声、 研ぎ澄ませた美を虚空へ迸らせて顧みないアーティスト達のその潔さに、誰にも見せない心の内をを託すからだ、
“あの人たち”の、形にしては残せないただ一瞬にその全身全霊すべてを注ぎ込もうとする向こうみずさに、 私は、自分では届くこと叶わぬはるか高みの空の青さを雲間に瞬時垣間見る、 その晴れ間の明るさだけが、その疾風のはやさだけが、 私の肩に背に降り積もる日常の塵を払い、束の間私を私でないものに変え、知らないところへ連れて行くからだ。
舞台役者がそうであるように、自分もプレーを通じてお客さんを「素晴らしい場所へ連れて行く」ことができただろうかとモトコ様は語る。 その言葉は私の中で、いつかのトモさんの言葉と重なる。
以前インタビューで、「試合が終わった時に、会場に足を運んでくれた観客のみなさんが、それぞれの選手になったような気分で家路につけるような試合をしたい」と語ったトモさんのあの言葉、あれは、モトコ様と同じことを伝えようとしているのじゃないかと思う。
二人の言葉は、どこか遠い場所で響きあって、私に届く。 姉妹のように仲がいいというのはきっと伊達ではない、と思う。
大林素子という個性を持っている日本バレーボール界は、きっと幸せだ。 バレーボールがどれだけ人に悪し様に言われようと、つらいニュースばかりが心を苛もうと、 それでも彼女は愚直なまでに繰り返す、 これが、この場所この素晴らしさこそが、私の魂の生まれた場所、私の故郷だと。
またしても吉原知子選手を描いてみました。 ご用とお急ぎのないかたは、どうぞこちらからご覧下さい。
アテネ前の全日本の壮行試合か何かの時の、トモさんがチームを代表して花束を受け取ってる写真をどこかで見かけまして、花束をまるで壊れ物のように細い指でそっと抱えていたその印象が忘れられなくて描いたやつだと記憶してます。
実は長いことお蔵入りになってたのをtimutaんリクで再生。 けっこうなんちゃって全日本ジャージ描いてるので、日の丸は遠慮しておきました(苦笑)。
次リクは「イタリアの風に吹かれるトモさん」だそうです<他人事みたいに言うな
| 2005年03月11日(金) |
オリジナルのティラミス |
モトコ様の好きなメニューは
「オリジナルのティラミス」
としっかり書いてあるんですね、モトコ様オフィシャルサイトのトップページに。 今までコラム本文ばかり読んでいたので気づいてませんでしたすみませんモトコ様。
ふたり並んでティラミスを作るモトコ様とトモさんの図、ってなんだか可愛いカッコいいなあ…。
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