脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 鈍雲

今や厚い雲に覆われ
鈍い太陽すら見えなくなってしまった
夕暮れ前の空のしじまよ

まばらに鳥が灰暗色の空をゆく
これから訃報を報せにゆく使いのように

太陽は何も云わず
雲は重たいまま動かず
全てが灰の中に沈む

濁った白以外色を知らぬような空よ
このままで
どうやって
今晩と明日の色をもってくるというのか

お前は何も動かない
周りも何も動けない



2002年05月01日(水)



 古代伝承

風に流された古の欠片は
誰の目にも触れることなく
砂漠の彼方に消えていった

妖精が落とした涙は
かの想い人に気づかれることもなく
黒森の地に染みていった

失われた帝国の王妃が零した溜息は
誰に拾われることもなく
ひそやかに
栄華の幕の向こうに消えていった

今は知られぬ古の物語
数え切れぬ栄華と
数え切れぬ悲劇と
数え切れぬ伝説と

今は知られぬ古の物語
今はもう人々の心の中で描かれるばかり
それもひそやかに 消えていく・・

古の欠片
妖精が落とした涙
王妃が零した溜息

それらも全て 記憶と歴史の彼方に・・


2002年05月02日(木)



 現代芭蕉

最低限の薬は詰めたし
温泉のセットもちゃんと用意した
真っ白なノートやエンピツも鞄に入れたし
靴のヒモだって新調したし
ある程度の食べ物だってある
もう明日にはここにはいない
行くぞ かの地がぼくを呼んでいる


2002年05月03日(金)



 四次元の行方

意識だけが現在を離れ
未来の映像を見る

四次元空間を見通す何か

―――ヨジゲンクウカン?

―――四次元空間。

二次元が三次元の断片のひとかけを映すのなら

三次元も四次元の断片のひとかけになっているのだろうか

四次元の断片って何だろう
時間軸っていうのは違うという人もいるけれど
時間軸じゃないモノも時間軸も
モトは同じなのかもしれないよ
私たちが捉え切れないだけなんだ
広すぎて

一次元にとって二次元はおそらく想像し得ないものであり
二次元にとって三次元は想像できないものだろう
ならば三次元を知る私たちが四次元をなかなか想像できなくても
不思議じゃない

言い換えれば

想像できないけれど存在し得る、という事だ。

さあどうだろう?
自分の想像できないものを否定できるんだろうかね?

2002年05月04日(土)



 ことば

ああ
人ひとりのことばは
こんなにも重く成り得るのか

ことばに込められた力は
確かな力をもって未来でその力を発揮する

「生き続けようって思うね」

「ともだちっていいよ」とか
「誰かの力になりたい」とか
私はまだ幼すぎて
その響きを美しく反響させることができなかった。

けれど

「生き続けようって思うね」

この言葉だけは。

その言葉を言った人は もうこの世から物理的には去ってしまったけど

その人以外の中では
確かに生きているのだもの

「心の中で生きてる気がする」
そう言った子供達の言葉は
紛れも無く真実で。

誰にもそれは否定できない。

本当に 生きているのだもの

ああ すごいな
って

言ったことが、本当になっていて。

それを真実にしたのは確かに彼であって。

ああ 本当だ
本当に 生きてるよ

言葉に偽りなんてなかったよ
不可抗力の偽りでさえも なかったよ


ことばでは云えない
おおきなもの

なんて重みのある言葉だったんだろう
なんて重みのある存在だったんだろう

彼が遺したものは測れない




****************
ご存知ですか?
アンビリバボーで紹介された、たかし君。

2002年05月05日(日)



 心の棚の奥の話 壱

―――――大きな史実を間のあたりにしたような気がした。


小さい頃うちには、何も無いと思っていた。
実際何も無かった。
父母は色々事情があって駆け落ちしてゼロからスタートした人達で、
私が生まれる前うちはひどく貧乏で、乗っていた車もすごくボロい軽自動車で「○○さん(←ウチ)のお宅とは付き合わないほうがいいですよ」なんてことも住んでた県営住宅のご近所さんたちに云われてたそうだ(おいおい)。
でも私が生まれる段階になって「いくらなんでもこのせまい県営住宅じゃいけない」と思った母はなんとか格安のマンションを捜してそれを購入する事を決めた。
でもその頃のうちでは頭金の50万すら用意するのは困難で、「こんなんじゃ一生一軒家なんてムリだなぁ・・」なんて、父がそのマンション横目に呟いたものだったという。
結局母(その頃たしかランジェリーのデザイナーだった)が頑張ってお金を貯めて貯めて、なんとか頭金の50万を用意して最後の一軒だった格安マンションを購入して、それからなんとかなんとか返していった。
私はそこでしばらく育った。
マンションのローンもようやく全て返せた頃、総合コンサルタントという会社で働いていた父の仕事ぶりを目の当たりにした当時は原子力研究所の所長さんだった方が、今父が働いてるところの仕事先を勧めた。
せっかくお金を全額支払終えたのに、仕事先が変わるに伴って転居しなければいけなくなった。
そのためにマンションも売らなくては、とてもじゃないがやっていけなかった。
母は泣く泣くマンションを手放し、今の地に移ることを決めた。
そこから家は、少しずつ、少しずつ、上向き始める。
貧乏ながらも父が一生懸命働いたおかげで、小さい頃私が起きてる時ほとんど父に会うことはなかったが、やっと一般庶民くらいにはなれた。
ゼロからスタートして、今は私立の高校にまで通わせて貰っている。

しかし今回三泊四日の旅行で得た真実は、そんなものじゃなかった。


2002年05月06日(月)



 心の棚の奥の話 弐

亡くなった父方の祖父母の親戚にあたる方々に会いにいく、という旅行。
私にとって思ったより意味ある旅行になった。

遺産相続の話でもめたのは聞いていたが。
だがそこらへんの話はドロドロしていて誰に聞かせたいとも思わないので、ここでは省いておく。どうせ私には有り難いことに関係のない話だ。
金の亡者の話など。

それよりも私が記したいのは、ある数奇な運命に彩られた二つの家の話だ。

家の父方の家と、その父方の家の友人の家。ここではS家(うち)とH家(友人の家)としておく。
S家の家筋は血筋はいいが貧乏な家系だった。
血筋がいいなどとあまりに漠然としていたので「どう血筋がいいのか」訊ねたところによると、祖父の祖父(?)は陸軍士官学校出か何かのエリート。さらに遡ったところの父だとか祖父だとかは達筆なのを買われて明治政府の書記官。さらに遡ると水野という苗字の大名の次男坊だったそうだ。そこの大名がつくった寺(長栄寺、と聞いた。漢字は聞いてないが。)に参勤交代の時に使われたのであろう籠が(人を乗せる籠)子供の時見に行ったら置いてあったと父は語る。
まるで他人事の話である。いや実際他人事だが。
その血筋のいいという祖父も、終戦後は文無しの裸状態になってしまった。
しかしそれなりの人だったので、一代で建築設計事務所を開くまでに至った。
要するにこちらはゼロからのスタートである。
それに対して、友人の家ことH家も、もとは大きな庄屋の息子で、それは金持ちだったそうだ。
立ーーっ派な大屋敷を構えたこちらは、終戦後も財力が随分残っていた。
プールやゴルフ場、マージャンの台なんかも広間に揃えた大豪邸。
スキー場にリゾートマンション、他にもマンションなんかを持っていたりして。
こちらでも建築設計事務所を開いていて、そこにも社員は沢山。
あんまり沢山いたからって、激安の値段で見習い社員を雇ったり。
ちょっとした(いや、随分な?)利益を奥さんが自分の懐にしまったりと、色々腹黒いこともやっていたらしく。
そうこうしている内に、世代交代の時期がやってくる。
両家の親が他界して、家の父の兄、そしてH家の長男に代が回ってきた。
ゼロからスタートした家と、有り余る富からスタートした家と。
両家にそれぞれ残されたものは、莫大な遺産と莫大な借金だった。
ゼロからスタートのS家には5億の財産。
富からスタートのH家には2億の借金。
H家は一気に文無しになってしまった。(保証人とかになっていたらしく、あとで整理したら銀行に二億の借金があったそうなのだ。)
金持ちだった頃周りにいた人間は、波のように音もなくさあーっといなくなってしまい、電話をしても「今忙しいから」。
これは父の時にもあった。
金持ちの祖父のもとに居た頃は親しくしていた人間も、駆け落ちして文無しになったとわかった途端見る目も変わり、付き合いがなくなっていった。
金が絡むとどうにもならないものも、あるらしい。
貧乏でよかった。
そして一気に文無しになってしまったH家。
大豪邸も家財道具もマンションも全て売っ払って、社員も養っていけないから解雇して、でも建築設計事務所の看板だけは下ろさなかった。
「本業をやめてしまったら元も子もないからねぇ・・」
これはH氏の言葉である。
今は市営住宅に住んで、妻や子は実家に帰り、そこから今は米を送ってもらってなんとか食いついないでいるという。
車も全て売ってしまったため、心ある人から安くぼろい軽を貸してもらっているらしい。(蛇足だが家の父が極貧のころ使っていた軽自動車は、雨が降ると動かなくなったそうだ・・どっちがよりボロいだろう・・)
吸っていたタバコも五年間やめて、最近やっと借金が2、3000万くらいになって一区切りついたからまた吸い始めたという。
二億あった借金を、ニ、三千万まで。
信じられるだろうか。
私だったら自殺しそうだ。
二億なんてとてもじゃないけど返せそうに無い。
それだけではない。
彼には子供がいた。
男の子だ。
その子は、染色体が一本少ないのだそうだ。
染色体が『一本多い』のはダウン症と言われる言わずもがな先天性の病気で、これは知ってる方も多いと思う。
だがその子は違って、染色体が『一本少ない』病気なのだ。
これはダウン症に比べ非常に稀な病気で、ほとんどの場合胚の段階で死んでしまうもの・・だったと記憶しているのだが。
前頭葉がほとんど無いのだそうだ。
知能の遅れがあると聞いた。
小さい頃から数え切れないくらい、病院や救急車の世話になったらしい。
世界でも症例の少ない病気で、10歳まで生きられないと言われたそうだ。
しかしその子は今19。
19までその病気で生きた人間は、世界でその子一例しか無いという。
10歳をすぎた時点で、とある大学の教授が、世界でもない例だし普通の家庭ではこれ以上育てるのは困難だといって引き取りたがったそうだが、彼はそれをよしとせず、自分で育てることにしたのだそうだ。
そのおかげか、その子は19まで生きてこられて、しかも段々身体もちゃんとしてきたという。知能もやっと3歳くらいにまでこぎつけたらしい。
どうしてそんなに長く生きてこられているのか、医者も首をひねった。
両親とものDNAを調べてみても、特に異常は見られない。
特筆すべきことがあったとするなら、それは両親ともに並みの人間より元気で健康だったという事くらいだろう。
そのおかげかもしれない、というのが医者の見解だ。
二億の借金もあって大変だっただろうに、難病を持つ子まで立派に育ててきた。
感服する。本当に。
それに対しS家の財産全てを相続したS家の長男(父の兄:ちなみに遺産相続の時もめて、家の父は遺産を放棄している。契約書にも書かれていたが、相続率は0%だ。)は学生の頃から家の金を湯水のように使い、いくつものマンションや外車、一軒家を買い与えられ、建築設計事務所の社長の座も与えられ、金遣いまくりの性質は今も変わっていないらしい。莫大な財産は湯水のように使われつつある。財産目録にあった宝石やら家財やら衣服やらも全て自分のものとして、写真一枚父の手元には残っていない。(でもこの前写真はちょっと持って帰って来てたけど・・)
更なる金を手にするため、設計事務所すらもたたんで、今はマンションの家賃収入とまだ残っている財産で左団扇の生活だ。
文無しから這い上がってきた二代目H家と、莫大な財産を砂山のように崩しつつある二代目S家。
父が極貧だった頃は大きな屋敷を持っていたH家。
そのH家が二億の借金を抱えていたという事実が発覚してからの極貧。
いまやボロい軽に乗り、妻の実家の仕送り米で食いつないでいる生活。
その極貧ぶりはそのまま当時の父と同じだ。
終戦後は富が有り余るほどあったH家と、
終戦後は何も無くなってしまったS家と、
二代目になってからは
二億の借金が残ったH家と、
五億の財産が残ったS家と。
なんとも対照的な両家ではあるまいか?
「僕はね、若い頃遊んでばっかりだったから、そのツケが回ってきてるんだよ」
と、H家の彼は話したという。
えらく大きなツケだ。
家の父も養われていた頃は、長男との扱いの対比が凄まじかった。
あまりに色んなエピソードがありすぎて、それとそれを書いたら会ったこともないが亡くなった祖母に祟られそうなので(結局は彼女のした人には云えないようなことをバラす結果になるわけだから)ここでは省いておく。


だが両者とも、そろそろ幸せを得てもいい頃だ。


それぞれに、それぞれの生きてきた道と境遇があって。
それぞれの事情と、他人には判り得ない経験と想いとがあって。

今回、色々なことを聞いた。
まだまだ、沢山ある。
それぞれの話には繋がりがあって、それがまとまってひとつの大きな史実のようだった。
自分に近い話だからだろうか。ドラマとか、そんな言葉じゃ安すぎる気がした。


ひと一人が一生のうち手に握れる財力というのは、限られているのかもしれない。
手に握ったって、死んじゃってそれ残してたら、ほんとに手に握ったとは云えない気がする。
祖母が二億で、祖父が三億残してたわけだけれども、家の実権を握っていたのは祖母らしく、一代で建築設計事務所を建てたという祖父の最期はそれはみすぼらしいものだったという。
なんてことない病室のベッドで。末期の癌と診断されて。そのままあの世に逝ってしまった。
父の兄は遺書に「○○(←父の名)には財産は与えない」というのを書かせて。
祖父もそれを書かないと家での居場所を完全に失ってしまうから、(もともと頭のいい人で、ボケたフリまでして家で身を守っていたとも聞く)と書いてしまったのでは、という事だ。
半分脅されて遺書を書いたのであろう祖父。
祖母にせき立てられて働きに働いて、好きでもない設計の仕事をした男のなれの果てがこれか。
「親父、ほんとは飛行機乗りになりたかったんちゃうん?」と、病室で聞いた父に祖父は「おお」と微かに頷いたという。

財産三億残した祖父も、実際手に握れていたのは幾らのほどなのか。

父は家を出る時、祖母に「これを書いていけ」と言われ「私、○○は家を出て勘当され云々」という書を書かされ、拇印を押したという。
その書を祖母は後生大事に仕舞っていた。
祖母が亡くなった時。
父の兄はその書をわざわざ探し出して持ち出して「こいつはS家からはこのように勘当されてる身だからこいつに財産はいかないんだ」みたいなことをS家の親戚中にふれて回ったらしい。
脳梗塞で植物状態となっていたとはいえ、まだ祖母の息もあって、身体もあたたかかったというのに。


何なのだろう。
どこから狂ったのだろう。
祖母が商いに手を出し始めた時からか、S家に嫁いで来た頃からか、もとよりそうなる運命だったのか。

彼らの波はなんと大きかったことだろう?
なんと起伏の激しい道だったことだろう?
私たちの両親は、そんな起伏の激しい道を頑張って平坦にしてくれていて、
その平坦な道の上に私たちが立たせてもらっている気がしてならない。
外界の妄執や金の亡者その他一切からシャットアウトしてもらって。
こんなに手厚く育ててもらって、いいのだろうか。
私たちはこんなにも苦労を知らない子でいて、いいのだろうか。
こんな子である私は、ちゃんとした大人になれるだろうか。
ちゃんと育たなければ私はよほどの親不孝者だ。
ご先祖さまにも申し訳が立たない。


――――大きな史実を見せて貰った。
人間というものを見せて貰った。
今両親たちは、そんなことが繰り返されないようにと頑張っている。

何にもないと思っていた家のモトのほうには結構モノがあって、でもそのせいで色々おかしくなってしまった。
財産があるばかりに、バラバラになってしまった家族。
財というのは難しい。
どうしてもヒトを狂わせてしまうものらしい。


私は、スッパリサッパリ人生生きていきたいものだ。

2002年05月07日(火)
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