2002年08月16日(金)  持ち込み企画

■メールと電話でやりとりしていた映像制作会社の方二人とはじめて会う。『風の絨毯』で知り合った方の紹介で、2時間サスペンスの企画をいくつか提案していた。この二人とともに番組企画会社のプロデューサーを訪ね、わたしの書いた企画をもとに「こういう企画は、すでにやっている」「この企画がはまる枠がない」「これはキャスティング次第」などと、ざっくばらんに話し合う。テレビ番組の企画がどういう形で持ち込まれ、会議に生き残り、世に出ていくのか、あまりにわかっていなかったので、何を聞いても「そうなんですかー」と驚く。人気のある枠は半年先まで企画がぎっしりで、おなかいっぱい状態。よっぽど突き抜けた企画を出さないと入り込む余地はないらしい。また、曜日によって2時間サスペンスのキャラクターは、はっきり分かれているので、それぞれに合った企画を出さないと、「うちの色ではない」ということになる。「面白い企画ありき」だと思っていたのだが、「枠にはまる企画」を考えなくてはならないのだと教えられる。広告と同じようにテレビ番組もクライアント(局)やターゲット(視聴者)のニーズありき、らしい。「一度で企画が通るなんてことは、まずありません。一年がかり、十本出してやっと一本、そんな気持ちで」と番組企画会社のプロデューサー氏。さあて、一年以内に企画を通せるか、知恵を絞ってみよう。■会社に戻ると、同僚の女の子が「どうして背中開いてるの?」。なんと、ワンピースの背中のファスナーが全開していた。背中の真ん中までパックリ。隣の席のM君が「僕、気づいていたんですけど、今井さんのことだから、そういうファッションだと思ったんですよね」。そんなわけあるかいな!初対面の三人は、どう思っただろう。会ったばかりの人に突っ込むわけにもいかず、気まずい思いをしたのでは。しかし、背中まる出し事件は初めてではない。さらに歴史を掘り起こせば、パンツ丸見え事件というのもあった。就職してから大学の応援団の大会を見に行ったとき、トイレから出てきたわたしに後輩の女の子たちが「センパーイ!」と駆け寄ってきた。わたしもなかなか人気者ではないかと気をよくしたら、後輩の一人が礼儀正しく「先輩、おしりが見えてらっしゃいます」。ワンピースの後ろをパンツに突っ込んで堂々と出てきたわたしを、必死に止めてくれたのだった。


2002年08月15日(木)  川喜多記念映画文化財団

■川喜多記念映画文化財団という名前に覚えがあったが、実体はよくわかっていなかった。漢字で「河北」だと勘違いしていたぐらいだ。よくわからないままに、前田監督、アシスタントプロデューサーの石田さんとともに『パコダテ人』を売り込みに行く。日本映画を海外に紹介する橋渡しをしている団体らしい。2か月ほど前に、すでにアートポートから作品が届いていたと判明するが、英語のプレスリリースはついてなかったとのことなので、「ぜひ役立ててください」と託し、「パコダテ人は、どんな映画祭が向いていますかねえ」などと世間話する。応対された坂野さんは感じのいい女性。「このサイトを見ると情報が出てますよ」「こちらの団体に連絡すると、プレスリリースを送ってもらえますよ」などと親切に教えてくださった。パコダテ人と相性の良さそうな映画祭や配給会社があればぜひ教えてくださいとお願いする。「川喜多さんて人は、日本映画にすごい貢献をしはったんですよ。あの人のおかげで、たくさんの日本映画が海を渡ったんです」と前田監督。後で調べてみると、川喜多長政氏は、東和映画(現在の東宝東和)を設立、「禁じられた遊び」をはじめ数多くの外国映画を輸入し、配給した人物。日本映画の輸出にも貢献し、かしこ夫人とともに海外の映画人らと交流を深めた。映画を通して日本と世界をつなぐ生涯だったようだ。財団は川喜多氏の没後、かしこ夫人が私財を投げうって創設し、亡くなる間際まで育ててこられたものらしい。日本の映画文化を支えてきた夫婦の愛を、はじめて知った。財団に込められた二人の遺志が日本映画の発展に活かされることを願う。■タイミングよく、英語字幕版パコダテ人を見た外国人の感想文第1号が今日届いた。一昨日知り合った16才のイギリス人女子高生Fionaから。渡したビデオを早速見てくれた。「ストーリーは独創的で家族の絆が強まるところが気に入った。ヒカルとハヤトの恋がかわいかった。わたしは西洋人で文化の違いはいっぱいあるけど、それでもこの映画はすっごく面白いし感動的だし楽しめたよ」。お姉さんはラストシーンだけ見て、受けていたらしい。外国の人にもわかるんだ、という手ごたえは、うれしい。今月末イギリスに帰ったら、クラスメートにも見せてみるとのこと。


2002年08月12日(月)  お笑い犬トトの思い出

最近、大阪の家で飼っていたトトのことを思い出している。石井万寿美さんの『ペットの死〜』を読んだせいだ。わたしが中学一年生のとき、当時小学一年生だった弟が、交通事故で前足がつぶれた雑種の子犬を拾ってきた。オズの魔法使いに出てくる犬の名前をつけた。「トトが来たのはお正月」という題の作文を弟が書いていたので、正月の出来事だったのだろう。

13年生きて、老衰で眠るように息を引き取った。そのときには、わたしは家を離れていたこともあり、石井さんが感じたようなペットロスはなかった。ただ「ありがとう」の気持ちだった。トトの思い出を挙げるとキリがないが、ほとんどが笑い話だ。

なんでも人間と同じでないと気が済まない犬だった。ドッグフードよりわたしたちの食事を欲しがった。テーブルに飛び乗って食事を横取りしたこともある。アイスクリームを食べたら、おなかをこわして苦しんでいた。がめつい性格で、食べきれなかった食パンを土に埋めたまではいいが、どこに埋めたかを思い出せずに庭じゅう掘り返して途方に暮れていた。「嗅覚のない犬もおるんやなあ」と母は呆れていた。

寒い冬はストーブの前の特等席を占領した。誰よりも前にでしゃばった結果、白い毛にストーブの網のしましま焦げ目がついた。ドライブに連れていけとせがむので車に乗っけたら、酔ってゲーゲー吐いた。

「トト、アホやなあ」と何度も笑わせてもらったおかげで、わが家はいつも明るかった。トトは、今井家に笑いと和みを運んでくれた。人間であれ、動物であれ、この世に生を受けたいのちには、意味があって、出会った人に大切なことを教えて去っていくのだと思う。そのメッセージを胸に抱いてあたため続けることが、失ったいのちとつながる方法なのかもしれない。お笑い犬トトのこころは、わたしの書くものに流れているんじゃないかな。

今日は表参道で星良ママ、あおいママと夕食。キンダーの受賞を祝って乾杯する。デジカメに撮った表彰状とコピーした『We ラブ Movies』を一緒に見ながら、良かったねえ、うれしいねえと話す。


2002年08月11日(日)  ヤクルトVS横浜

■野球とつくものは何でも好きなダンナに連れられ、神宮球場でナイター観戦。わたしは大リーグもプロ野球も高校野球もあまり興味がないが、球場で観戦するのは好き。たのしそうな人々が集まっている、あの雰囲気が好きなのだ。とくに神宮は空があるので気持ちいい。東京ドームへ向かう人波と逆行しながら「わたしたちが行く球場は、本物のスター(星)が観れるんだもんねー」と勝手に優越感。今夜のカードは、ヤクルトVS横浜。ダンナは大のヤクルトファン。前に来たときは阪神戦で、風船投げの美しさとグランドのフェンス前にズラリ配置された「風船拾い部隊」のキビキビした動きに感動したのだが、今回はヤクルトの傘踊りを楽しみに見ることにする。前半はボテボテのフライ続きで緊張感のない展開。試合よりも売り子さんの動きを追ってしまい、「次に売れるのは、彼」「あの呼び声じゃあ買う気にならんだろう」と一人で予想や突っ込みを入れながら、観察。飲み物を売り歩くという行動だけで、「客が髪をかき上げただけで呼ばれていると勘違いするせっかちタイプ」「客と目が合った瞬間だけ笑顔の合理的タイプ」などと性格が見えてくるのは面白い。観客ウォッチングもこれまた楽しく、「あたしの心臓に悪いプレーは、やめて〜」「お願い、仕事して〜ン」と怪しい野次を飛ばす年齢不詳のオネエサン、「サッカーのほうが良かったよ〜」とぐずる男の子に「この選手はな、ワールドカップも出てたんだよ」と見え見えな嘘をつくお父さん……。始球式で投げた男の子とその家族がすぐそばにいて、「ちゃんとキャッチャーに届いたね」と誇らしげに振り返っていた。中盤、高熱の古田に代わってスタメン出場していたキャッチャーの米野がホームラン。「間違ってホームラン打て〜!」の野次に見事に応えた。「あいつ、早稲田出てまだ2年目ぐらいだぞ。プロ初ホームランじゃないか」とダンナは興奮。後半にはペタジーニのホームラン。1塁側が傘踊りで盛り上がっている間に、続くラミレスもホームランを打ったのだが、ほとんどのファンが見ていなかった。当たりはラミレスのほうが大きかったのに、気の毒。結局3対1でヤクルトが勝ち、ダンナはゴキゲンだった。帰り道、東京ドームの前を通ると、巨人観戦ツアー観光バスが数珠のように連なり、そのバスというバスの中では、客を待つ運転手とバスガイドたちがテレビの巨人戦に見入っていた。


2002年08月10日(土)  こどもが選んだNO.1

「パコダテ人がキンダーで受賞!」の知らせは、一昨日、こどもの城で『ウォー・ゲーム』を観ている最中にもたらされた。伝えてくれたのは、映画祭事務局の倉田さん。パコダテ人を招待作品に選んだときから作品にほれこんでくれている人で、一緒に受賞を喜んでくれた。キンダー・フィルム・フェスティバルの大きな特長でもある『こども審査員コンペティション』は、一般公募で選ばれた小学生審査員が『アニメーション部門』『ドラマ部門』『一般公募アニメ部門』の全作品を観た上で審査会議を開き、それぞれのグランプリを決めるというもの。パコダテ人は、キンダ・フィルムフェスト・ベルリンで国際審査員特別賞を受賞した『センド・モア・キャンディ〜一瞬の夏』(デンマーク・76分)、『ミヌーヌ』(オランダ・83分)、『アヒル救出大作戦』(オーストラリア・88分)とともにドラマ部門にノミネートされていたのだが、パコ派とアヒル派に割れて審査会議が紛糾し、異例のグランプリ2作品選出という結果になった。何度多数決を取っても決まらなかったということは、10人いる審査員が5対5に分かれたのかもしれない。白熱した議論をのぞいてみたかったなと思う。

授賞式は本日15時からこどもの城内の青山円形劇場で行われ、出席が叶わなかった前田監督にかわって賞状を受け取った(=写真。こども審査員のほうが、わたしより大きかったりする)。劇団MOTHERの公演などで何度も足を運んでいる劇場だが、自分が舞台に立つ機会があるとは。パコダテ人の初受賞と、キンダーの記念すべき第10回が重なったのも、うれしい。あわせて行われた上映会では、イギリスのアニメーション作品『テディ&アニー(Teddy & Annie)』のオーバーボイス(生吹き替え)挑戦に、こども審査員が挑戦。プロの声優さんの指導のもと、5日間特訓しただけあって、見事だった。今回のアニメーション部門グランプリの『ウォー・ゲーム』も上映され、アンウィン監督と並んで鑑賞した。TVCFでデビューした監督は、わたしの会社と仕事をしたこともあるらしい。アンウィン夫妻と互いに「Congratulations!」を言い合った。こども審査員の子たちも「パコダテ人がいちばん良かった!」「もう一度観たい!」と声をかけてくれた。前田監督に聞かせられなくて残念。


2002年08月09日(金)  二代目デジカメ

■先週の金曜日、ついに新しいデジカメを買った。同僚や友人に聞いてみたところ、圧倒的人気だった『FUJIのFINE PICS』目当てでビックカメラへ。すると、FINE PICSだけでも10種類ほどあって、値段も2 万円台から4 万円台までまちまち。係のお姉さんをつかまえ、どこが違うのか説明してもらうが、2万円の差がどこにあるのかはよくわからない。「ずばり、いちばんおすすめは?」と聞くと、「新発売のこちらを」と49800円の光学レンズつき新製品をすすめられる。パコダテ人のロケ前に「いちばん安いヤツ」を買ったらすぐ壊れた教訓を思い出し、エイヤッと「いちばん高いヤツ」にする。買ってから「光学レンズだったらオリンパスのほうが良かったのではないか」「29800円のMP3つきのほうがおトクだったのでは」といろいろ考えてしまったが、同僚たちに見せたところ「フォルムがいいよ」「なんだって新製品がいちばんいいんだよ」「動画が480秒も撮れるってすごいよ」とほめてくれたので、いい買い物だったのかなと思っている。■うれしがって手当たり次第撮っているが、4日のキンダ−の写真を撮り損なった。それに間に合うようにと金曜日に買いに行ったというのに。子ども用のちっちゃい椅子、集まったたくさんの子どもたち、元気よく挙がる「しつもん!」の手。熱のせいで、頭がぼーっとしていて、鞄にデジカメを入れてあるのを忘れていた。あーあ、宝の持ちぐされ。■写真は、わが家のトイレの窓辺。コカ・コーラのにょろ首ボトルは、函館の映画祭に行ったとき、木下ほうかさんと挑戦したガラス工芸体験で作ったもの。首のくねり具合がお気に入り。

1999年08月09日(月)  カンヌレポート最終ページ


2002年08月08日(木)  War Game(ウォー・ゲーム)

■キンダー・フィルム・フェスティバルの海外ゲスト、イギリスから来日しているデイブ・アンウィン監督にパコダテ人を売り込むため、前田監督、アシスタントプロデューサーの石田さんとともに、こどもの城へ。監督夫妻の歓迎パーティー会場から移動するところをエレベーターホールでつかまえ、字幕つきビデオと英語資料を手渡す。チラシのイラストを見て「Is this what the film look like?(作品はこんな絵なの?)」とアンウィン監督。キンダー事務局の倉田さんが「No.It's live action(実写です)」と答えてくれる。石田さんに「製作資金を集めるのは大変だった?」と尋ねた監督は「どの国でも苦労は同じだな」と笑っていた。奥様のカトリーヌさんは、テレビを中心に活躍しているアニメのプロデューサー。■ちょうどこれから監督の『ウォー・ゲーム』を上映するというので、見せていただく。声優さんが映像に合わせてライブで台詞を吹き替える「オーバーボイス上映」。はじめて体験したが、不自然さはまるでなく、臨場感と会場との一体感が生まれ、作品の世界に引き込まれた。第一次世界大戦のさなかのクリスマスの日、敵対していたイギリス兵とドイツ兵がサッカーを楽しんだという実話が基だが、原作を書いた作者の叔父の体験談らしい。銃をボールに替えただけで、傷つけあいは相互理解に変わるのだと気づかされる。「イギリス人(ドイツ人)って、いいヤツだな」と心を許したのも束の間、サッカーなど幻だったかのように、兵士たちは再び戦争というゲームへ引き戻される……。今日もまた子どもたちから目を見張る意見や質問が次々と飛び出した。「敵味方関係なくサッカーをしているところがよかった」(彼らは憎しみあっていたわけでもないのに、戦争のせいで殺し合わなくてはならなかったんだよ、と監督)、「太陽がサッカーボールに見えたのがよかった」(あれは、死ぬ間際に兵士が見た希望の光なんだよ、と監督)、「戦争はあの後終わったんですか?」(あれから4年も続いたが、彼らがサッカーをすることは二度となかった、と監督)などなど。「ケイト・ウィンスレット(タイタニックのローズ役)の名前がクレジットにありましたが…」と大人からも質問。「彼女のような大物がこういう仕事を引き受けること稀だが、たまたま同じ製作会社の大作に出ていた縁で破格で出演してもらった」とのこと。作品と人との出会いは不思議。


2002年08月07日(水)  ティファニー

■「これが壊れたから、君に何かあったんじゃないかと思って、飛んで帰ってきたよ」とダンナ。「これ」というのは、ティファニーのキーチェーン。朝、家を出るときに「鍵がない」と騒ぐので、「わたしの持って行っていいよ」と持たせたのだが、ネジ式の止め具の玉の片方が取れている。玉さえあれば、はめれば済むことなので、「ここにあった玉はどこ行ったの? ポケットの中にない?」と言うと、「あった!」とダンナ。しかし、取り出したのは、「TIFFANY& CO.,」と小さく刻印されたプレートだった。「なんでなくすのよ! これ、ティファニーなんだよ」と責め立てると、ダンナは「知らないよ。ティファニ−、ティファニ−ってイバるなよ。だいたい、なんで君がティファニ−なんて似つかわしくないもの持ってるんだ?」と開き直った揚げ句、「僕があげたのか?」と訳のわからないことを言い出す。「君にはもらってません」とキッパリ言うと、「じゃあ誰にもらった?」と追及してくる。「カ・イ・シ・ャ」「会社!?」。カンヌの広告祭に行ったとき、ワールドワイドの社員が集まるパーティーがあり、その記念品にもらったのだ。このティファニーには、重大な意味がある。■一度だけ、ティファニーのコピ ー(偽造ではなく広告のコピーのほう)の仕事をしたことがある。そのとき、まわりの友人たちに「ティファニー持ってる?」と聞いたら、「3つ」「4つ」なかには「7つ」なんて人もいて、しかもそれらが「自分で買ったのではなく男性に贈られた」というので、ますます驚いた。どうやら男性は無理めの女性の気を引くとき、ティファニーを贈るようなのだった。「大阪にはそんな文化はなかったのかも」と自分がひとつも持っていない理由を探ったが、その後も一向にティファニーは寄ってこない。カンヌ土産のキーチェーンは、わたしが贈られた最初で最後、たったひとつのティファニーなのだ。だから大騒ぎしているのだが、ダンナは「だったら銀座のティファニーへ行って修理しようよ」でもなく「代わりのものを探そうよ」でもなく、「お前はティファニーで昼飯でも食ってろ」とオヤジギャグでごまかす始末。とりあえずは、玉のかわりに「お菓子を巻いてた針金」で応急処置をして、使い続けることにした。わたしには、「次のティファニー」など控えてないのだ。


2002年08月06日(火)  『絶後の記録〜広島原子爆弾の手記』

原爆記念日への意識が年々薄れている。今日がその日であることに気づいたのは、夜9時を過ぎてNHKをつけたら、『原爆の絵〜市民が残すヒロシマの記録』をやっていたからだった。28年前と今年の2度にわたって募集され、一般から寄せられた「原爆の絵」は3000枚を超える。その一枚一枚をデータベース化することにより、同じ場面を描いた絵を特定することが容易になったという。「子を守る母」を描いた90代の男性を、その母の遺児である74才の男性が訪ね、「母を描いてくれてありがとうございます」「この絵に最も縁のある人にお会いできて良かった」と涙しあう場面が印象に残った。

義父に借りていた『絶後の記録〜広島原子爆弾の手記』(小倉豊文著・中公文庫)が読みかけだったのを思い出し、続きを読む。原爆症で亡くなった妻への手紙という形を取って綴られる体験記。57年前に書かれたと思えないほど、文章がみずみずしい。原爆を記録した本や文書にはいくつか出会ったが、これほど事実が痛々しく迫ってくる本を知らないし、これほど美しく切ない恋文も知らない。著者が妻を思う気持ちが胸を衝くたび、二人を引き裂いた戦争と原爆を憎まずにはいられなくなる。序文(日付は1949年2月)で高村光太郎氏は「この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであろう」と記している。今でも出版されているだろうか。わたしが借りている文庫は、1996年5月30日5版とある。平和に慣れると、ありがたみを忘れがちだが、平和なときこそ、それを壊すものを恐れなくてはと思う。ほんの半世紀と少し前には、この国も地獄を味わったことを、思い返す機会を持ちたい。


2002年08月05日(月)  風邪には足浴

昨日、キンダーフィルムフェスティバルの上映を見に来てくれた秋元紀子さんが「風邪には足浴がおすすめ」と教えてくれ、わが家に「足浴マシン」があることを思い出した。職場の健康保険組合の何十周年記念とやらで「もれなくもらえる健康グッズ」の5種類から選んだのが、それだった。他には金魚運動マシンやステップマシンや体脂肪計があったが、ちょうどリフレクソロジー(英国式足裏健康法)が流行っていた頃だったので、足浴マシンに飛びついた。

だが、巨大な箱が届いた日、悲劇が襲う。頑丈なビニールテープを無理やり剥がそうとしたら、親指の爪が割れ、飛んでしまったのだ。「アヂー!」とのけぞったわたしは、「何が健康グッズだあ!」と箱に体当たりし、以来、部屋の隅に追いやってしまっていた。一方的なお仕置期間を終え、今日、足浴マシンを箱から取り出した。冷静に考えれば、爪でビニールを切ろうというのが間違いで、ハサミを使えばよかったのである。先日も、オクラの袋を乱暴に開けたおかげで、うどんにホチキスの針が入ってしまい、「この妻、殺す気か!事件」を起こしたばかり。ハサミを取りに行く手間を惜しんではならない。何事も急いては事をし損じる。

さて、足浴マシンの使い心地。「温浴」「バブル」「温浴;+バブル」とモードを切り換えられ、なかなか極楽。足ツボ刺激用のローラーやかかとを柔らかくする軽石もついている。それより何より、足だけ水(実際にはお湯)にひたす感覚というのが、うれしいのだ。こうしてワープロに向かっているとき、足は水の中でふわふわ遊んでいる。この重力から開放された感じが、不思議で楽しい。すっかり長湯になって、足がふやけてしまった。風邪には逆効果だったかも。

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