2002年08月10日(土)  こどもが選んだNO.1

「パコダテ人がキンダーで受賞!」の知らせは、一昨日、こどもの城で『ウォー・ゲーム』を観ている最中にもたらされた。伝えてくれたのは、映画祭事務局の倉田さん。パコダテ人を招待作品に選んだときから作品にほれこんでくれている人で、一緒に受賞を喜んでくれた。キンダー・フィルム・フェスティバルの大きな特長でもある『こども審査員コンペティション』は、一般公募で選ばれた小学生審査員が『アニメーション部門』『ドラマ部門』『一般公募アニメ部門』の全作品を観た上で審査会議を開き、それぞれのグランプリを決めるというもの。パコダテ人は、キンダ・フィルムフェスト・ベルリンで国際審査員特別賞を受賞した『センド・モア・キャンディ〜一瞬の夏』(デンマーク・76分)、『ミヌーヌ』(オランダ・83分)、『アヒル救出大作戦』(オーストラリア・88分)とともにドラマ部門にノミネートされていたのだが、パコ派とアヒル派に割れて審査会議が紛糾し、異例のグランプリ2作品選出という結果になった。何度多数決を取っても決まらなかったということは、10人いる審査員が5対5に分かれたのかもしれない。白熱した議論をのぞいてみたかったなと思う。

授賞式は本日15時からこどもの城内の青山円形劇場で行われ、出席が叶わなかった前田監督にかわって賞状を受け取った(=写真。こども審査員のほうが、わたしより大きかったりする)。劇団MOTHERの公演などで何度も足を運んでいる劇場だが、自分が舞台に立つ機会があるとは。パコダテ人の初受賞と、キンダーの記念すべき第10回が重なったのも、うれしい。あわせて行われた上映会では、イギリスのアニメーション作品『テディ&アニー(Teddy & Annie)』のオーバーボイス(生吹き替え)挑戦に、こども審査員が挑戦。プロの声優さんの指導のもと、5日間特訓しただけあって、見事だった。今回のアニメーション部門グランプリの『ウォー・ゲーム』も上映され、アンウィン監督と並んで鑑賞した。TVCFでデビューした監督は、わたしの会社と仕事をしたこともあるらしい。アンウィン夫妻と互いに「Congratulations!」を言い合った。こども審査員の子たちも「パコダテ人がいちばん良かった!」「もう一度観たい!」と声をかけてくれた。前田監督に聞かせられなくて残念。


2002年08月09日(金)  二代目デジカメ

■先週の金曜日、ついに新しいデジカメを買った。同僚や友人に聞いてみたところ、圧倒的人気だった『FUJIのFINE PICS』目当てでビックカメラへ。すると、FINE PICSだけでも10種類ほどあって、値段も2 万円台から4 万円台までまちまち。係のお姉さんをつかまえ、どこが違うのか説明してもらうが、2万円の差がどこにあるのかはよくわからない。「ずばり、いちばんおすすめは?」と聞くと、「新発売のこちらを」と49800円の光学レンズつき新製品をすすめられる。パコダテ人のロケ前に「いちばん安いヤツ」を買ったらすぐ壊れた教訓を思い出し、エイヤッと「いちばん高いヤツ」にする。買ってから「光学レンズだったらオリンパスのほうが良かったのではないか」「29800円のMP3つきのほうがおトクだったのでは」といろいろ考えてしまったが、同僚たちに見せたところ「フォルムがいいよ」「なんだって新製品がいちばんいいんだよ」「動画が480秒も撮れるってすごいよ」とほめてくれたので、いい買い物だったのかなと思っている。■うれしがって手当たり次第撮っているが、4日のキンダ−の写真を撮り損なった。それに間に合うようにと金曜日に買いに行ったというのに。子ども用のちっちゃい椅子、集まったたくさんの子どもたち、元気よく挙がる「しつもん!」の手。熱のせいで、頭がぼーっとしていて、鞄にデジカメを入れてあるのを忘れていた。あーあ、宝の持ちぐされ。■写真は、わが家のトイレの窓辺。コカ・コーラのにょろ首ボトルは、函館の映画祭に行ったとき、木下ほうかさんと挑戦したガラス工芸体験で作ったもの。首のくねり具合がお気に入り。

1999年08月09日(月)  カンヌレポート最終ページ


2002年08月08日(木)  War Game(ウォー・ゲーム)

■キンダー・フィルム・フェスティバルの海外ゲスト、イギリスから来日しているデイブ・アンウィン監督にパコダテ人を売り込むため、前田監督、アシスタントプロデューサーの石田さんとともに、こどもの城へ。監督夫妻の歓迎パーティー会場から移動するところをエレベーターホールでつかまえ、字幕つきビデオと英語資料を手渡す。チラシのイラストを見て「Is this what the film look like?(作品はこんな絵なの?)」とアンウィン監督。キンダー事務局の倉田さんが「No.It's live action(実写です)」と答えてくれる。石田さんに「製作資金を集めるのは大変だった?」と尋ねた監督は「どの国でも苦労は同じだな」と笑っていた。奥様のカトリーヌさんは、テレビを中心に活躍しているアニメのプロデューサー。■ちょうどこれから監督の『ウォー・ゲーム』を上映するというので、見せていただく。声優さんが映像に合わせてライブで台詞を吹き替える「オーバーボイス上映」。はじめて体験したが、不自然さはまるでなく、臨場感と会場との一体感が生まれ、作品の世界に引き込まれた。第一次世界大戦のさなかのクリスマスの日、敵対していたイギリス兵とドイツ兵がサッカーを楽しんだという実話が基だが、原作を書いた作者の叔父の体験談らしい。銃をボールに替えただけで、傷つけあいは相互理解に変わるのだと気づかされる。「イギリス人(ドイツ人)って、いいヤツだな」と心を許したのも束の間、サッカーなど幻だったかのように、兵士たちは再び戦争というゲームへ引き戻される……。今日もまた子どもたちから目を見張る意見や質問が次々と飛び出した。「敵味方関係なくサッカーをしているところがよかった」(彼らは憎しみあっていたわけでもないのに、戦争のせいで殺し合わなくてはならなかったんだよ、と監督)、「太陽がサッカーボールに見えたのがよかった」(あれは、死ぬ間際に兵士が見た希望の光なんだよ、と監督)、「戦争はあの後終わったんですか?」(あれから4年も続いたが、彼らがサッカーをすることは二度となかった、と監督)などなど。「ケイト・ウィンスレット(タイタニックのローズ役)の名前がクレジットにありましたが…」と大人からも質問。「彼女のような大物がこういう仕事を引き受けること稀だが、たまたま同じ製作会社の大作に出ていた縁で破格で出演してもらった」とのこと。作品と人との出会いは不思議。


2002年08月07日(水)  ティファニー

■「これが壊れたから、君に何かあったんじゃないかと思って、飛んで帰ってきたよ」とダンナ。「これ」というのは、ティファニーのキーチェーン。朝、家を出るときに「鍵がない」と騒ぐので、「わたしの持って行っていいよ」と持たせたのだが、ネジ式の止め具の玉の片方が取れている。玉さえあれば、はめれば済むことなので、「ここにあった玉はどこ行ったの? ポケットの中にない?」と言うと、「あった!」とダンナ。しかし、取り出したのは、「TIFFANY& CO.,」と小さく刻印されたプレートだった。「なんでなくすのよ! これ、ティファニーなんだよ」と責め立てると、ダンナは「知らないよ。ティファニ−、ティファニ−ってイバるなよ。だいたい、なんで君がティファニ−なんて似つかわしくないもの持ってるんだ?」と開き直った揚げ句、「僕があげたのか?」と訳のわからないことを言い出す。「君にはもらってません」とキッパリ言うと、「じゃあ誰にもらった?」と追及してくる。「カ・イ・シ・ャ」「会社!?」。カンヌの広告祭に行ったとき、ワールドワイドの社員が集まるパーティーがあり、その記念品にもらったのだ。このティファニーには、重大な意味がある。■一度だけ、ティファニーのコピ ー(偽造ではなく広告のコピーのほう)の仕事をしたことがある。そのとき、まわりの友人たちに「ティファニー持ってる?」と聞いたら、「3つ」「4つ」なかには「7つ」なんて人もいて、しかもそれらが「自分で買ったのではなく男性に贈られた」というので、ますます驚いた。どうやら男性は無理めの女性の気を引くとき、ティファニーを贈るようなのだった。「大阪にはそんな文化はなかったのかも」と自分がひとつも持っていない理由を探ったが、その後も一向にティファニーは寄ってこない。カンヌ土産のキーチェーンは、わたしが贈られた最初で最後、たったひとつのティファニーなのだ。だから大騒ぎしているのだが、ダンナは「だったら銀座のティファニーへ行って修理しようよ」でもなく「代わりのものを探そうよ」でもなく、「お前はティファニーで昼飯でも食ってろ」とオヤジギャグでごまかす始末。とりあえずは、玉のかわりに「お菓子を巻いてた針金」で応急処置をして、使い続けることにした。わたしには、「次のティファニー」など控えてないのだ。


2002年08月06日(火)  『絶後の記録〜広島原子爆弾の手記』

原爆記念日への意識が年々薄れている。今日がその日であることに気づいたのは、夜9時を過ぎてNHKをつけたら、『原爆の絵〜市民が残すヒロシマの記録』をやっていたからだった。28年前と今年の2度にわたって募集され、一般から寄せられた「原爆の絵」は3000枚を超える。その一枚一枚をデータベース化することにより、同じ場面を描いた絵を特定することが容易になったという。「子を守る母」を描いた90代の男性を、その母の遺児である74才の男性が訪ね、「母を描いてくれてありがとうございます」「この絵に最も縁のある人にお会いできて良かった」と涙しあう場面が印象に残った。

義父に借りていた『絶後の記録〜広島原子爆弾の手記』(小倉豊文著・中公文庫)が読みかけだったのを思い出し、続きを読む。原爆症で亡くなった妻への手紙という形を取って綴られる体験記。57年前に書かれたと思えないほど、文章がみずみずしい。原爆を記録した本や文書にはいくつか出会ったが、これほど事実が痛々しく迫ってくる本を知らないし、これほど美しく切ない恋文も知らない。著者が妻を思う気持ちが胸を衝くたび、二人を引き裂いた戦争と原爆を憎まずにはいられなくなる。序文(日付は1949年2月)で高村光太郎氏は「この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであろう」と記している。今でも出版されているだろうか。わたしが借りている文庫は、1996年5月30日5版とある。平和に慣れると、ありがたみを忘れがちだが、平和なときこそ、それを壊すものを恐れなくてはと思う。ほんの半世紀と少し前には、この国も地獄を味わったことを、思い返す機会を持ちたい。


2002年08月05日(月)  風邪には足浴

昨日、キンダーフィルムフェスティバルの上映を見に来てくれた秋元紀子さんが「風邪には足浴がおすすめ」と教えてくれ、わが家に「足浴マシン」があることを思い出した。職場の健康保険組合の何十周年記念とやらで「もれなくもらえる健康グッズ」の5種類から選んだのが、それだった。他には金魚運動マシンやステップマシンや体脂肪計があったが、ちょうどリフレクソロジー(英国式足裏健康法)が流行っていた頃だったので、足浴マシンに飛びついた。

だが、巨大な箱が届いた日、悲劇が襲う。頑丈なビニールテープを無理やり剥がそうとしたら、親指の爪が割れ、飛んでしまったのだ。「アヂー!」とのけぞったわたしは、「何が健康グッズだあ!」と箱に体当たりし、以来、部屋の隅に追いやってしまっていた。一方的なお仕置期間を終え、今日、足浴マシンを箱から取り出した。冷静に考えれば、爪でビニールを切ろうというのが間違いで、ハサミを使えばよかったのである。先日も、オクラの袋を乱暴に開けたおかげで、うどんにホチキスの針が入ってしまい、「この妻、殺す気か!事件」を起こしたばかり。ハサミを取りに行く手間を惜しんではならない。何事も急いては事をし損じる。

さて、足浴マシンの使い心地。「温浴」「バブル」「温浴;+バブル」とモードを切り換えられ、なかなか極楽。足ツボ刺激用のローラーやかかとを柔らかくする軽石もついている。それより何より、足だけ水(実際にはお湯)にひたす感覚というのが、うれしいのだ。こうしてワープロに向かっているとき、足は水の中でふわふわ遊んでいる。この重力から開放された感じが、不思議で楽しい。すっかり長湯になって、足がふやけてしまった。風邪には逆効果だったかも。


2002年08月04日(日)  キンダー・フィルム・フェスティバルで『パコダテ人』

待ちに待ったキンダー・フィルム・フェスティバルでの『パコダテ人』上映日。なのに、起きられない。昨日から調子が悪かったのだが、夏風邪をひいてしまったようだ。熱は37度を越えたり越えなかったりの微妙なところ。頭がガンガンして、喉も痛い。こんなこと、前にもあったなあと思ったら、ゆうばり映画祭だった。あのときも熱が下がらず、起き上がるのもやっとだったのに、夕張に着いたら元気になった。パコダテ人にパワーをもらおう、と会場へ向かう。

上映前に「監督の前田さんと脚本家の今井さんから挨拶があります」と紹介され、一言ずつ話す。「しっぽが生えたことある人?」という前田さんのつかみは、うまい。150席の客席はびっしり埋まり、20人近い立ち見が出た。クーラーがかなり効いていて、寒い人のためにタオルが貸し出されていたが、それも足りなくなり、寒さに耐えられずに出てしまった子が何人かいたのは残念。人の出入りはかなり激しく「この子たちには面白くなかったのかなあ」と思ったりした。上映中はほんとに静かで、笑いはほとんど起きず、内容が理解出来ていないのではと不安になったが、それは真剣に見入っていた証拠らしい。上映後の質問タイムで、子どもたちがいかに集中して作品を見ていたかに驚いた。「ひかるのしっぽは、あの後どうなったんですか」「ひかるたちの子どもは、しっぽが生えるんですか」……次々と質問が飛んでくる。

「ひかるにたたかれそうになったしっぽが逃げたのは、どうやっているんですか」という質問は、実際には仕掛けを聞き出そうとしたのだと思うが、前田監督は「あのしっぽは、少しだけ自分の意思で動くことができるんです。みんな、自分の右手で左手をたたけるでしょう?ずっとたたいていたら、左手がイヤがって逃げていきませんか。それと同じです」と夢のある答えを用意した。次の瞬間、子どもたちが一斉に右手で左手をたたきはじめ、「あ、ほんとだ、逃げる!」と歓声をあげだした。なんて、ゆかいな好奇心!そして、「どうして、しっぽが生える話にしたんですか」という質問に「パコダテ人2では、角や羽根が生えるかもしれません」と監督が答えると、「パコダテ人2では、どんな動物がモデルですか?」「角だったら牛!」と元気な声が飛ぶ。その場でパート2のストーリーができそうな勢い。子どもたちの熱気に、朝からの微熱は吹き飛んでしまった。


2002年08月03日(土)  青森映画祭から木造(きづくり)メロン

あおもり映画祭の実行委員長、松尾孝子さんからメロンが届いた。果肉が黄緑、オレンジ、白の3種類。お礼の電話をすると、「パコダテ人を上映した木造(きづくり)町は、メロンの産地なんですよ」とのこと。あおもりでの上映は大変盛り上がったと前田監督から聞いていたので、「たくさん人が来てくれたそうで」と言うと、「なーんもないところなんですけど、みんな楽しみに見に来てくれてね。上映の後、スタッフの一人が涙ためた目で出てきましたよ」と映画祭での様子を聞かせてくれた。

メロンをいただいたから言うわけではないけれど、あおもり映画祭は、あったかい手づくりの映画祭で、実行委員会の方々の人柄も「映画好きに悪い人はいない」と感じさせてくれる。函館の映画祭と姉妹関係にあり、去年、函館で何人かの実行委員会の方にお会いしたが、その一人が松尾さんだった。松尾さんが差し出したパコダテ人のパンフにサインをし、松尾さんの顔写真入り名刺をいただいた。短い出会いだったが、お互い印象に残っていて、先月「あおもり映画祭のパンフにメッセージをお願いできますか」と松尾さんからメールをいただき、懐かしく思い出したのだった。

まだ行ったことがない青森と映画を通じてつながりを持つことができ、今までよりずっと親しみを感じている。お気に入りの『田酒』という日本酒も、たしか青森のお酒。寺山修司記念館も青森だったっけ。行ってみたい町が、また増えた。北へ南へ旅するたび、お土産をくれる『パコダテ人』。日本は広いなあと思ったり、日本は狭いなあと思ったり。


2002年08月02日(金)  「山の上ホテル」サプライズと「実録・福田和子」

会社帰り、神田の「山の上ホテル」に寄る。明日、わたしが挙式した同じ部屋で友人夫婦が披露宴を挙げると聞き、手紙を託しに行った。応対に出た女性がよく冷えたコーヒーを出してくれた。何度か打ち合わせに訪れたロビーを懐かしく見回しながら、「ここは余計なものがなくて、一目惚れしたんですよ」としばらく世間話をする。わたしたちの担当だった女性は、去年結婚退職し、すでにお母さんになっているらしい。思いっきり先を越されている。打ち合わせのとき、「結婚するときは、ここ(山の上ホテル)で挙式するんですか?」と彼女に聞いたら、「ここは職場ですから……」と答えられたが、やはり山の上ホテルとは別の場所で挙式されたとのこと。しっかり者で感じのいい方だったので、素敵なお母さんになっていると思う。

そんな話を義母にしながら、まったく話題と似つかわしくない番組を見た。『実録・福田和子』。最初はなんとなく見はじめ、「ひどい女ねえ」「あら、この後、殺しちゃったんですって」と実況していた義母の口数が減っていき、最後のほうは無言で画面に見入ってしまった。主人公の心の声や家族の葛藤をもっと盛り込めば、よりドラマティックになっただろうが、あえてそうしていない。ドラマだったら、「食い足りない」と指摘されるかもしれないが、「実録」とつけてあるように、フィクションの部分を極力おさえ、淡々と事実を追う展開になっている。福田和子の半生を大竹しのぶが再現しているという感じで、リプレイとして見ると、「あんな幸せそうな主婦がなぜ……」とわが身に置き換えて考えることもでき、奥深かった。時効直前に捕まった福田和子が警察で自分の名前を署名し、「他人みたいですわ」と呟く最後の台詞が良かった。

時効まで逃げ続ける犯人の心理にはとても興味があって、以前『透明人間』というラジオドラマをコンクールに出したことがある。最終選考で落とされた理由のひとつに「主人公が罪を犯した動機が描かれておらず、主人公に同情できない」というものがあった。福田和子の場合も、よくわからないが、そこには事実がある。事実を超えるものを書くには、人間の真理を描かなくてはならないのだろう。


2002年08月01日(木)  日傘

■朝から日比谷公園の噴水前でスチール撮影。広告の撮影には大きく分けてムービー(テレビコマーシャル用)とスチール(新聞・雑誌・ポスターなどの平面媒体用)がある。今日は秋に出る新聞・雑誌用の撮影なので、モデルさんの服装は長袖。付き添うスタイリストさんもなぜか長袖。日焼け対策だ、と気付いたのは、半袖から出ているわたしの腕を太陽がじりじりと焼き始めたから。女性スタッフは皆、帽子や日傘で陽射しをガ−ドしているというのに、そんな用意を忘れてきたどころか、そもそも夏の帽子も日傘も持っていない。よりによって上下黒ずくめの体は太陽の格好の餌食となって、虫眼鏡のターゲットに選ばれた蟻のような気分を味わう。(子どもの頃、虫眼鏡で太陽の光を黒い焦点に集中させると、黒い部分が焦げるというのを教わり、黒い紙では飽きたらずに蟻を追いかけた、あのときの罰だ)。わずか一時間の立ち会いが永遠にも思えた。■反省が冷めないうちに、近くの有楽町阪急で日傘を買う。日傘人口は年々増えているそうで、同僚もランチタイムには傘を広げているが、わたしは持ったことがなかった。ちゃっかり者なので、晴雨兼用のものを選ぶ。しかもセール品。ピンクに水色の刺繍のデザインは、よっぽど不人気だったらしく、千円の大特価だった。早速、広げて歩いてみる。日を遮るもののない遊歩道に映ったわたしの影は、日傘の影を従えている。なるほど、日傘を携帯するということは、「マイ日陰」を連れて歩くことなんだなと納得。しかし、期待したほど涼しくない。日陰にいるはずなのに、日陰の涼しさがついてこない。少し考えて、思い当たった。日傘のつくる日陰は「インスタント日陰」で、熱した地面までは冷やしてくれない。日傘が遮ってくれるのは、上から照りつける暑さだけなのだと。こうなったら、日傘を差しながら、水をまいて歩くしかないのだろうか。

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