2002年08月04日(日)  キンダー・フィルム・フェスティバルで『パコダテ人』

待ちに待ったキンダー・フィルム・フェスティバルでの『パコダテ人』上映日。なのに、起きられない。昨日から調子が悪かったのだが、夏風邪をひいてしまったようだ。熱は37度を越えたり越えなかったりの微妙なところ。頭がガンガンして、喉も痛い。こんなこと、前にもあったなあと思ったら、ゆうばり映画祭だった。あのときも熱が下がらず、起き上がるのもやっとだったのに、夕張に着いたら元気になった。パコダテ人にパワーをもらおう、と会場へ向かう。

上映前に「監督の前田さんと脚本家の今井さんから挨拶があります」と紹介され、一言ずつ話す。「しっぽが生えたことある人?」という前田さんのつかみは、うまい。150席の客席はびっしり埋まり、20人近い立ち見が出た。クーラーがかなり効いていて、寒い人のためにタオルが貸し出されていたが、それも足りなくなり、寒さに耐えられずに出てしまった子が何人かいたのは残念。人の出入りはかなり激しく「この子たちには面白くなかったのかなあ」と思ったりした。上映中はほんとに静かで、笑いはほとんど起きず、内容が理解出来ていないのではと不安になったが、それは真剣に見入っていた証拠らしい。上映後の質問タイムで、子どもたちがいかに集中して作品を見ていたかに驚いた。「ひかるのしっぽは、あの後どうなったんですか」「ひかるたちの子どもは、しっぽが生えるんですか」……次々と質問が飛んでくる。

「ひかるにたたかれそうになったしっぽが逃げたのは、どうやっているんですか」という質問は、実際には仕掛けを聞き出そうとしたのだと思うが、前田監督は「あのしっぽは、少しだけ自分の意思で動くことができるんです。みんな、自分の右手で左手をたたけるでしょう?ずっとたたいていたら、左手がイヤがって逃げていきませんか。それと同じです」と夢のある答えを用意した。次の瞬間、子どもたちが一斉に右手で左手をたたきはじめ、「あ、ほんとだ、逃げる!」と歓声をあげだした。なんて、ゆかいな好奇心!そして、「どうして、しっぽが生える話にしたんですか」という質問に「パコダテ人2では、角や羽根が生えるかもしれません」と監督が答えると、「パコダテ人2では、どんな動物がモデルですか?」「角だったら牛!」と元気な声が飛ぶ。その場でパート2のストーリーができそうな勢い。子どもたちの熱気に、朝からの微熱は吹き飛んでしまった。


2002年08月03日(土)  青森映画祭から木造(きづくり)メロン

あおもり映画祭の実行委員長、松尾孝子さんからメロンが届いた。果肉が黄緑、オレンジ、白の3種類。お礼の電話をすると、「パコダテ人を上映した木造(きづくり)町は、メロンの産地なんですよ」とのこと。あおもりでの上映は大変盛り上がったと前田監督から聞いていたので、「たくさん人が来てくれたそうで」と言うと、「なーんもないところなんですけど、みんな楽しみに見に来てくれてね。上映の後、スタッフの一人が涙ためた目で出てきましたよ」と映画祭での様子を聞かせてくれた。

メロンをいただいたから言うわけではないけれど、あおもり映画祭は、あったかい手づくりの映画祭で、実行委員会の方々の人柄も「映画好きに悪い人はいない」と感じさせてくれる。函館の映画祭と姉妹関係にあり、去年、函館で何人かの実行委員会の方にお会いしたが、その一人が松尾さんだった。松尾さんが差し出したパコダテ人のパンフにサインをし、松尾さんの顔写真入り名刺をいただいた。短い出会いだったが、お互い印象に残っていて、先月「あおもり映画祭のパンフにメッセージをお願いできますか」と松尾さんからメールをいただき、懐かしく思い出したのだった。

まだ行ったことがない青森と映画を通じてつながりを持つことができ、今までよりずっと親しみを感じている。お気に入りの『田酒』という日本酒も、たしか青森のお酒。寺山修司記念館も青森だったっけ。行ってみたい町が、また増えた。北へ南へ旅するたび、お土産をくれる『パコダテ人』。日本は広いなあと思ったり、日本は狭いなあと思ったり。


2002年08月02日(金)  「山の上ホテル」サプライズと「実録・福田和子」

会社帰り、神田の「山の上ホテル」に寄る。明日、わたしが挙式した同じ部屋で友人夫婦が披露宴を挙げると聞き、手紙を託しに行った。応対に出た女性がよく冷えたコーヒーを出してくれた。何度か打ち合わせに訪れたロビーを懐かしく見回しながら、「ここは余計なものがなくて、一目惚れしたんですよ」としばらく世間話をする。わたしたちの担当だった女性は、去年結婚退職し、すでにお母さんになっているらしい。思いっきり先を越されている。打ち合わせのとき、「結婚するときは、ここ(山の上ホテル)で挙式するんですか?」と彼女に聞いたら、「ここは職場ですから……」と答えられたが、やはり山の上ホテルとは別の場所で挙式されたとのこと。しっかり者で感じのいい方だったので、素敵なお母さんになっていると思う。

そんな話を義母にしながら、まったく話題と似つかわしくない番組を見た。『実録・福田和子』。最初はなんとなく見はじめ、「ひどい女ねえ」「あら、この後、殺しちゃったんですって」と実況していた義母の口数が減っていき、最後のほうは無言で画面に見入ってしまった。主人公の心の声や家族の葛藤をもっと盛り込めば、よりドラマティックになっただろうが、あえてそうしていない。ドラマだったら、「食い足りない」と指摘されるかもしれないが、「実録」とつけてあるように、フィクションの部分を極力おさえ、淡々と事実を追う展開になっている。福田和子の半生を大竹しのぶが再現しているという感じで、リプレイとして見ると、「あんな幸せそうな主婦がなぜ……」とわが身に置き換えて考えることもでき、奥深かった。時効直前に捕まった福田和子が警察で自分の名前を署名し、「他人みたいですわ」と呟く最後の台詞が良かった。

時効まで逃げ続ける犯人の心理にはとても興味があって、以前『透明人間』というラジオドラマをコンクールに出したことがある。最終選考で落とされた理由のひとつに「主人公が罪を犯した動機が描かれておらず、主人公に同情できない」というものがあった。福田和子の場合も、よくわからないが、そこには事実がある。事実を超えるものを書くには、人間の真理を描かなくてはならないのだろう。


2002年08月01日(木)  日傘

■朝から日比谷公園の噴水前でスチール撮影。広告の撮影には大きく分けてムービー(テレビコマーシャル用)とスチール(新聞・雑誌・ポスターなどの平面媒体用)がある。今日は秋に出る新聞・雑誌用の撮影なので、モデルさんの服装は長袖。付き添うスタイリストさんもなぜか長袖。日焼け対策だ、と気付いたのは、半袖から出ているわたしの腕を太陽がじりじりと焼き始めたから。女性スタッフは皆、帽子や日傘で陽射しをガ−ドしているというのに、そんな用意を忘れてきたどころか、そもそも夏の帽子も日傘も持っていない。よりによって上下黒ずくめの体は太陽の格好の餌食となって、虫眼鏡のターゲットに選ばれた蟻のような気分を味わう。(子どもの頃、虫眼鏡で太陽の光を黒い焦点に集中させると、黒い部分が焦げるというのを教わり、黒い紙では飽きたらずに蟻を追いかけた、あのときの罰だ)。わずか一時間の立ち会いが永遠にも思えた。■反省が冷めないうちに、近くの有楽町阪急で日傘を買う。日傘人口は年々増えているそうで、同僚もランチタイムには傘を広げているが、わたしは持ったことがなかった。ちゃっかり者なので、晴雨兼用のものを選ぶ。しかもセール品。ピンクに水色の刺繍のデザインは、よっぽど不人気だったらしく、千円の大特価だった。早速、広げて歩いてみる。日を遮るもののない遊歩道に映ったわたしの影は、日傘の影を従えている。なるほど、日傘を携帯するということは、「マイ日陰」を連れて歩くことなんだなと納得。しかし、期待したほど涼しくない。日陰にいるはずなのに、日陰の涼しさがついてこない。少し考えて、思い当たった。日傘のつくる日陰は「インスタント日陰」で、熱した地面までは冷やしてくれない。日傘が遮ってくれるのは、上から照りつける暑さだけなのだと。こうなったら、日傘を差しながら、水をまいて歩くしかないのだろうか。


2002年07月30日(火)  ペットの死〜その悲しみを超えて

■獣医師の石井万寿美さんが新著『ペットの死〜その悲しみを超えて』の出版にあわせ、大阪から上京された。打ち合わせでお忙しい合間の1時間をいただき、赤坂でお会いする。「3回目ですねえ」と言われ、「まだそれだけでしたっけ?」と驚いたが、お会いするのは今日でやっと3回目。ネットの力は恐ろしいもので、毎日のようにメールや掲示板でやりとりしていると、何十回と会っている錯覚を起こしてしまう。最近ニュースでも取り沙汰されている動物虐待の話にはじまり、石井さんの子育て話、わたしの仕事の話などをした。目を怪我したネコが運ばれてきたとき、「炎症が痒くて自分で掻いて傷つけてしまったのか、人間に故意に傷つけられたのか」を見分けるには、ネコの手を診るらしい。目を掻いたネコには「目やにやけ」の跡があるのだとか。「そういうことを飼い主さんに言うて聞かせるんです。推理探偵みたいですわ」と石井さん。■お土産に著書と叶匠壽庵の和菓子をいただいた。栗を大納言で包んだおまんじゅうを頬張り、早速読み始める。石井さんは、獣医学生時代に拾った犬のユキチと、ずっと一緒に生きてきた。結婚、開業、出産、子育て……生活の中にユキチがいるのが当たり前で、ユキチとの暮らしが永遠に続くようにも思っていた。だが、ユキチも老い、痴呆がはじまり、寿命を迎えてしまう。獣医でありながら「ユキチだけは死なない」と信じてしまったり、弱っていくユキチに何もしてやれない自分がもどかしかったり。飼い主としてペットの死を体験することで、石井さんは「ペットを失う悲しみ」の大きさと深さを知る。そして、これまでペットを失った飼い主たちの気持ちがわかっていなかったがために、飼い主たちの心のケアができていなかったことに気づく。ユキチが死をもって教えてくれた「いのち」の意味を、石井さんは今、日々の診療に生かしている。ペットにも高齢化の波が押し寄せ、痴呆や安らかな死は人間だけの問題ではなくなっている。人間と同じようにペットの死にも尊厳をと考え、終末医療の考えを取り入れようとしている石井さんの試みは、ペットを家族として愛しむ人々が待ち望んでいるものだろう。

2001年07月30日(月)  2001年7月のおきらくレシピ


2002年07月29日(月)  中央線が舞台の不思議な映画『レイズライン』

『レイズライン』という不思議な映画に出会った。同僚の友人のダンナの福谷修さんが脚本・監督した作品という縁で、インディーズムービー・フェスティバル入選作品のプレミア上映を案内してもらったのだ。インディーズムービー・フェスティバルは全国から公募した作品から入選作品をビデオ化し、TSUTAYAでレンタルしたり、衛星劇場で放送したりし、その実績やネット投票の結果で「次回作のバックアップを受けられる作品製作者」を選ぶというユニークなコンテスト。作品の実力で映画の道を切り開くというのが、いい。名前に覚えがあると思ったら、横山亮子ちゃんのダンナのヨシキ君が撮った『現金に手を出すなら体を張れ』は、去年の入選作のひとつだった。

短編をいくつか観た後で、お目当てのレイズライン。舞台は中央線。何度も乗ったことがあるが、「中央線にこんな場所があるの?」「こんな景色が見えるの?」と驚かされる絵が何度も出てきた。日本では電車や駅での撮影は規制が厳しいらしく、そんな現状への批判も込めて、中央線を題材に隠し撮りとゲリラ撮影を敢行したという意欲と行動力に、拍手。リアルさと今の空気がよく出ていた。ストーリー的には、もう少し山場があってもいいのかなと思いつつ、この淡々とした感じが中央線なのかなと思い直したりもする。この作品は、イイ線行くんじゃないだろか。

レイズラインは、台詞が自然だったが、インディーズ作品を観ていると、「こんな話し方、絶対しない」という人物が出てくることがよくある。設定が中世のヨーロッパか大正時代の華族ならありえるのかもしれないが、女たちがみんな「〜だわ」調で話していると、変な空気を生んでしまう。ふつうの言葉のほうが感情移入しやすいんだけどな。


2002年07月27日(土)  上野アトレ

■「上野がきれいになった」と会社の人たちや雑誌が騒いでいたのは、ひと月以上前のこと。駅ビルがアトレとなって生まれ変わり、洒落たお店がたくさん入っているという。そろそろオープン当初の混雑もひいてきた頃かなと、散歩がてら見に行くことに。通りすがりのお店をいちいちひやかし、途中の上野公園で骨董市と植木市につかまる。念願の「石に植えた盆栽」を買う。あ、盆栽は陶器に植えたものを差すから、盆栽ではないか。『五色つた』といって、和風アイビーのような植物。色が緑から赤に変わるのでこの名前らしい。アトレに着いたら、家を出てから1時間半も経っていた。喉が渇いて、買い物どころではない。ハードロックカフェに飛び込み、フローズン・ピニャコラーダを一気に飲んだら、頭が痛い、背中が痛い。それにしても、すいているどころか、すさまじい人出……と思ったら、今夜は隅田川の花火。待ち合わせ、くりだしていく人たちの熱気が渦を巻いて、大変なことになっていた。さっさと引き返す。

2000年07月27日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月26日(金)  映画『月のひつじ』とアポロ11号やらせ事件

銀座シネスイッチにて『月のひつじ』を観る。「本日レディースデー」で900円で観れた。おまけにトロピカーナのフローズンデザートを配っていて、とってもトクした気分。はじめて行ったけど、いい映画館だ、シネスイッチ。また行くぞ。本音は、作品を送りこみたい。スクリーンも大きいし、椅子もゆったりだし。

作品は、劇評を読んで思い描いていたものとは、ちょっと違った。「浮かれる町長」「ハプニング続出」という言葉にドタバタコメディーを想像していたのだが、いたって真面目でほのぼのした話だった。ところどころに起こる笑いも決して「ドッ」ではなく「クスクス」。もう少し面白い仕立てにできたんじゃないかなともったいなく思ったりしたけど、実話を基にしてハートウォーミング路線を取ると、こうなるのかな。

どこまでが実話なのだろうと思いながら観ていたら、先日同僚に聞いた「アポロ11号月面着陸やらせ説」を思い出した。「地平線の形が不自然」「無重力のはずなのに風が起きている」など不自然な点がいくつかあり、一部の科学者の間では「ミッションに失敗したアメリカ政府が成功を装おうためにねつ造した映像」という説が囁かれているらしい。でも、南半球のこんな小さな村まで巻き込んでデッチ上げる労力も相当のもの。やっぱりアポロ11号は月に行ったんだろうな。そんな歌もあったし。ちなみに着陸は7月20日。この季節の出来事だったんだなあ。

英語はますます聞き取れなくなっていた。オーストラリア訛りだからということではなく、わたしの耳がなまっているのだろう。「ァパ〜ラィレヴン」と聞こえる怪しい単語が「アポロ11号」だと気づくのにずいぶん時間がかかった。

帰宅してから新聞に関連記事を見つけた。パークスの天体望遠鏡が月面着陸の映像を無事キャッチできたのは、「飛行士が宇宙服を着るのに手間取ったから」というエピソードがあるらしい。その時間稼ぎがあって、牧草地の中にある天体望遠鏡が歴史的快挙を成し遂げた。現在は地球外生命体の存在を探っているとのこと。

2000年07月26日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月22日(月)  10年前のアトランタの地下鉄の涙の温度

本人がすっかり忘れていた出来事を、家族や友人はしっかり覚えていることがある。忘れていた過去を思い出させてもらうと、思いがけないヘソクリが返ってきたようで、うれしくなる。

先日、京都の結婚パーティーで再会した学生時代の先輩、辻本さんが「あんたらがアメリカから帰ってきたときな、旅行どうやったって男どもで追及したんや」と、わたしと当時は彼氏だったダンナがはじめて二人で海外旅行したときの話をはじめた。

「あの街が良かったとか、飯がうまかったとか、そういう話するかと思ったら、いきなり、彼女はすごい、言うてなあ」。辻本さんの記憶によると、「あんたらの前に黒人の男が立ちはだかって、金を出せって言うたら、あんたはこんなことしちゃダメよって説教したんやろ」。その勇気に彼氏は恐れ入ったらしい。

「美談じゃないですか。わたしたちの披露宴のときに話してくれれば良かったのに」と言いながら、記憶の底で凍りついていたエピソードを解凍した。

あの日の、真冬のアトランタの地下駅の光景を頭の中に呼び出す。発券機へ続く階段を下りきったところに、黒人の男性が立っていた。辻本さんが覚えている話は、かなり美化されている。実際は「金を出せ」ではなく「電車賃をくれ」だったし、言い方も遠慮がちだった。

わたしは説教したのではなく、お金を出すとき、一言添えたのだ。なぜ、そんなことをしたのか。

きっと、怖かったのだ。

銃を持っていたり暴力をふるったりする人には見えなかったが、小柄なわたしには、そびえたつ長身は十分威圧的だった。お金を渡さなければ通してもらえないと思った。英語がよくわからない彼氏(実際はわかっていたようだが)に余計な心配をかけたくないとも思った。だから、わざと余裕ぶるような態度に出たのだ。

「仕事を見つけるのよ」と言うと、黒人の男性は「I will」と答えた。

次の瞬間……最初は何が起きたのかわからなかった。1ドル札を差し出したわたしの手の上に、水滴が落ちた。続いて、また一滴、そしてもう一滴。

滴は、男性の目から滴り落ちていた。わたしは雷に打たれたようになり、身動きできなくなった。自分以外の誰かの涙を手に受け止めたことなどなかったから。人の涙がこんなに温かいなんて、知らなかったから。

今となっては、あのとき感じた涙の温度までありありと思い返せるのに、どうして忘れていたのか不思議だ。10年前の出来事をダンナは覚えているだろうか。いつか聞いてみたい。


2002年07月21日(日)  関西土産

1泊2日京都〜大阪の旅から帰ってきた。結婚パーティーが目的ということで、懐かしい人たちとの再会がうれしい旅だった。新郎のキャーミルが住んでいた学生寮にわたしがよく遊びに行っていて、そこでダンナとも知り合ったという縁で、ダンナともどもパーティーに招かれたのだが、昨夜は二人そろって学生時代にタイムスリップしたような気分を味わった。何年も忘れていた「事件」や「伝説」が掘り起こされ、あらためて大笑いした。共通の友人に恵まれているのは幸せなことだなとつくづく思った。

昨日のパーティーのはじまる前、京都に住むダンナの親戚の方の家にお邪魔した。約束もなしに「近くまで来たので」と突然訪問したわたしたちを温かく迎えてくれた。少し前に亡くなった身内の方のお骨が帰ってくる日だったそうで、「呼んだのかもしらんなあ。ええ日に来てくれはった」と喜んでくれた。土用の丑の日には、京都ではあんころ餅を食べる風習があるそうで、出していただいた。甘いスタミナ源ということか。

今日は、大阪に住む妹夫婦を訪ね、今月4日に生まれた甥っこと対面。といっても、よく寝る子で、目を開けたのは、ほんの一瞬だった。ダンナの弟夫婦が近くに住んでいるとわかり、呼び出すと、カメラとビデオを持って駆けつけた。熱心に撮影する姿に、「あっちがほんまの親みたい」と、産んだ妹。マイペースに子育てを楽しんでいる様子だった。

大好物の『蓬莱の豚まん』をお土産に買って東京に戻り、ダンナの実家へ。この二日間に会った人たちのことを報告すると、義母は自分が行ったかのように、うれしそうに聞いてくれた。何よりのお土産になった。

2000年07月21日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

<<<前の日記  次の日記>>>