2002年07月30日(火)  ペットの死〜その悲しみを超えて

■獣医師の石井万寿美さんが新著『ペットの死〜その悲しみを超えて』の出版にあわせ、大阪から上京された。打ち合わせでお忙しい合間の1時間をいただき、赤坂でお会いする。「3回目ですねえ」と言われ、「まだそれだけでしたっけ?」と驚いたが、お会いするのは今日でやっと3回目。ネットの力は恐ろしいもので、毎日のようにメールや掲示板でやりとりしていると、何十回と会っている錯覚を起こしてしまう。最近ニュースでも取り沙汰されている動物虐待の話にはじまり、石井さんの子育て話、わたしの仕事の話などをした。目を怪我したネコが運ばれてきたとき、「炎症が痒くて自分で掻いて傷つけてしまったのか、人間に故意に傷つけられたのか」を見分けるには、ネコの手を診るらしい。目を掻いたネコには「目やにやけ」の跡があるのだとか。「そういうことを飼い主さんに言うて聞かせるんです。推理探偵みたいですわ」と石井さん。■お土産に著書と叶匠壽庵の和菓子をいただいた。栗を大納言で包んだおまんじゅうを頬張り、早速読み始める。石井さんは、獣医学生時代に拾った犬のユキチと、ずっと一緒に生きてきた。結婚、開業、出産、子育て……生活の中にユキチがいるのが当たり前で、ユキチとの暮らしが永遠に続くようにも思っていた。だが、ユキチも老い、痴呆がはじまり、寿命を迎えてしまう。獣医でありながら「ユキチだけは死なない」と信じてしまったり、弱っていくユキチに何もしてやれない自分がもどかしかったり。飼い主としてペットの死を体験することで、石井さんは「ペットを失う悲しみ」の大きさと深さを知る。そして、これまでペットを失った飼い主たちの気持ちがわかっていなかったがために、飼い主たちの心のケアができていなかったことに気づく。ユキチが死をもって教えてくれた「いのち」の意味を、石井さんは今、日々の診療に生かしている。ペットにも高齢化の波が押し寄せ、痴呆や安らかな死は人間だけの問題ではなくなっている。人間と同じようにペットの死にも尊厳をと考え、終末医療の考えを取り入れようとしている石井さんの試みは、ペットを家族として愛しむ人々が待ち望んでいるものだろう。

2001年07月30日(月)  2001年7月のおきらくレシピ


2002年07月29日(月)  中央線が舞台の不思議な映画『レイズライン』

『レイズライン』という不思議な映画に出会った。同僚の友人のダンナの福谷修さんが脚本・監督した作品という縁で、インディーズムービー・フェスティバル入選作品のプレミア上映を案内してもらったのだ。インディーズムービー・フェスティバルは全国から公募した作品から入選作品をビデオ化し、TSUTAYAでレンタルしたり、衛星劇場で放送したりし、その実績やネット投票の結果で「次回作のバックアップを受けられる作品製作者」を選ぶというユニークなコンテスト。作品の実力で映画の道を切り開くというのが、いい。名前に覚えがあると思ったら、横山亮子ちゃんのダンナのヨシキ君が撮った『現金に手を出すなら体を張れ』は、去年の入選作のひとつだった。

短編をいくつか観た後で、お目当てのレイズライン。舞台は中央線。何度も乗ったことがあるが、「中央線にこんな場所があるの?」「こんな景色が見えるの?」と驚かされる絵が何度も出てきた。日本では電車や駅での撮影は規制が厳しいらしく、そんな現状への批判も込めて、中央線を題材に隠し撮りとゲリラ撮影を敢行したという意欲と行動力に、拍手。リアルさと今の空気がよく出ていた。ストーリー的には、もう少し山場があってもいいのかなと思いつつ、この淡々とした感じが中央線なのかなと思い直したりもする。この作品は、イイ線行くんじゃないだろか。

レイズラインは、台詞が自然だったが、インディーズ作品を観ていると、「こんな話し方、絶対しない」という人物が出てくることがよくある。設定が中世のヨーロッパか大正時代の華族ならありえるのかもしれないが、女たちがみんな「〜だわ」調で話していると、変な空気を生んでしまう。ふつうの言葉のほうが感情移入しやすいんだけどな。


2002年07月27日(土)  上野アトレ

■「上野がきれいになった」と会社の人たちや雑誌が騒いでいたのは、ひと月以上前のこと。駅ビルがアトレとなって生まれ変わり、洒落たお店がたくさん入っているという。そろそろオープン当初の混雑もひいてきた頃かなと、散歩がてら見に行くことに。通りすがりのお店をいちいちひやかし、途中の上野公園で骨董市と植木市につかまる。念願の「石に植えた盆栽」を買う。あ、盆栽は陶器に植えたものを差すから、盆栽ではないか。『五色つた』といって、和風アイビーのような植物。色が緑から赤に変わるのでこの名前らしい。アトレに着いたら、家を出てから1時間半も経っていた。喉が渇いて、買い物どころではない。ハードロックカフェに飛び込み、フローズン・ピニャコラーダを一気に飲んだら、頭が痛い、背中が痛い。それにしても、すいているどころか、すさまじい人出……と思ったら、今夜は隅田川の花火。待ち合わせ、くりだしていく人たちの熱気が渦を巻いて、大変なことになっていた。さっさと引き返す。

2000年07月27日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月26日(金)  映画『月のひつじ』とアポロ11号やらせ事件

銀座シネスイッチにて『月のひつじ』を観る。「本日レディースデー」で900円で観れた。おまけにトロピカーナのフローズンデザートを配っていて、とってもトクした気分。はじめて行ったけど、いい映画館だ、シネスイッチ。また行くぞ。本音は、作品を送りこみたい。スクリーンも大きいし、椅子もゆったりだし。

作品は、劇評を読んで思い描いていたものとは、ちょっと違った。「浮かれる町長」「ハプニング続出」という言葉にドタバタコメディーを想像していたのだが、いたって真面目でほのぼのした話だった。ところどころに起こる笑いも決して「ドッ」ではなく「クスクス」。もう少し面白い仕立てにできたんじゃないかなともったいなく思ったりしたけど、実話を基にしてハートウォーミング路線を取ると、こうなるのかな。

どこまでが実話なのだろうと思いながら観ていたら、先日同僚に聞いた「アポロ11号月面着陸やらせ説」を思い出した。「地平線の形が不自然」「無重力のはずなのに風が起きている」など不自然な点がいくつかあり、一部の科学者の間では「ミッションに失敗したアメリカ政府が成功を装おうためにねつ造した映像」という説が囁かれているらしい。でも、南半球のこんな小さな村まで巻き込んでデッチ上げる労力も相当のもの。やっぱりアポロ11号は月に行ったんだろうな。そんな歌もあったし。ちなみに着陸は7月20日。この季節の出来事だったんだなあ。

英語はますます聞き取れなくなっていた。オーストラリア訛りだからということではなく、わたしの耳がなまっているのだろう。「ァパ〜ラィレヴン」と聞こえる怪しい単語が「アポロ11号」だと気づくのにずいぶん時間がかかった。

帰宅してから新聞に関連記事を見つけた。パークスの天体望遠鏡が月面着陸の映像を無事キャッチできたのは、「飛行士が宇宙服を着るのに手間取ったから」というエピソードがあるらしい。その時間稼ぎがあって、牧草地の中にある天体望遠鏡が歴史的快挙を成し遂げた。現在は地球外生命体の存在を探っているとのこと。

2000年07月26日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月22日(月)  10年前のアトランタの地下鉄の涙の温度

本人がすっかり忘れていた出来事を、家族や友人はしっかり覚えていることがある。忘れていた過去を思い出させてもらうと、思いがけないヘソクリが返ってきたようで、うれしくなる。

先日、京都の結婚パーティーで再会した学生時代の先輩、辻本さんが「あんたらがアメリカから帰ってきたときな、旅行どうやったって男どもで追及したんや」と、わたしと当時は彼氏だったダンナがはじめて二人で海外旅行したときの話をはじめた。

「あの街が良かったとか、飯がうまかったとか、そういう話するかと思ったら、いきなり、彼女はすごい、言うてなあ」。辻本さんの記憶によると、「あんたらの前に黒人の男が立ちはだかって、金を出せって言うたら、あんたはこんなことしちゃダメよって説教したんやろ」。その勇気に彼氏は恐れ入ったらしい。

「美談じゃないですか。わたしたちの披露宴のときに話してくれれば良かったのに」と言いながら、記憶の底で凍りついていたエピソードを解凍した。

あの日の、真冬のアトランタの地下駅の光景を頭の中に呼び出す。発券機へ続く階段を下りきったところに、黒人の男性が立っていた。辻本さんが覚えている話は、かなり美化されている。実際は「金を出せ」ではなく「電車賃をくれ」だったし、言い方も遠慮がちだった。

わたしは説教したのではなく、お金を出すとき、一言添えたのだ。なぜ、そんなことをしたのか。

きっと、怖かったのだ。

銃を持っていたり暴力をふるったりする人には見えなかったが、小柄なわたしには、そびえたつ長身は十分威圧的だった。お金を渡さなければ通してもらえないと思った。英語がよくわからない彼氏(実際はわかっていたようだが)に余計な心配をかけたくないとも思った。だから、わざと余裕ぶるような態度に出たのだ。

「仕事を見つけるのよ」と言うと、黒人の男性は「I will」と答えた。

次の瞬間……最初は何が起きたのかわからなかった。1ドル札を差し出したわたしの手の上に、水滴が落ちた。続いて、また一滴、そしてもう一滴。

滴は、男性の目から滴り落ちていた。わたしは雷に打たれたようになり、身動きできなくなった。自分以外の誰かの涙を手に受け止めたことなどなかったから。人の涙がこんなに温かいなんて、知らなかったから。

今となっては、あのとき感じた涙の温度までありありと思い返せるのに、どうして忘れていたのか不思議だ。10年前の出来事をダンナは覚えているだろうか。いつか聞いてみたい。


2002年07月21日(日)  関西土産

1泊2日京都〜大阪の旅から帰ってきた。結婚パーティーが目的ということで、懐かしい人たちとの再会がうれしい旅だった。新郎のキャーミルが住んでいた学生寮にわたしがよく遊びに行っていて、そこでダンナとも知り合ったという縁で、ダンナともどもパーティーに招かれたのだが、昨夜は二人そろって学生時代にタイムスリップしたような気分を味わった。何年も忘れていた「事件」や「伝説」が掘り起こされ、あらためて大笑いした。共通の友人に恵まれているのは幸せなことだなとつくづく思った。

昨日のパーティーのはじまる前、京都に住むダンナの親戚の方の家にお邪魔した。約束もなしに「近くまで来たので」と突然訪問したわたしたちを温かく迎えてくれた。少し前に亡くなった身内の方のお骨が帰ってくる日だったそうで、「呼んだのかもしらんなあ。ええ日に来てくれはった」と喜んでくれた。土用の丑の日には、京都ではあんころ餅を食べる風習があるそうで、出していただいた。甘いスタミナ源ということか。

今日は、大阪に住む妹夫婦を訪ね、今月4日に生まれた甥っこと対面。といっても、よく寝る子で、目を開けたのは、ほんの一瞬だった。ダンナの弟夫婦が近くに住んでいるとわかり、呼び出すと、カメラとビデオを持って駆けつけた。熱心に撮影する姿に、「あっちがほんまの親みたい」と、産んだ妹。マイペースに子育てを楽しんでいる様子だった。

大好物の『蓬莱の豚まん』をお土産に買って東京に戻り、ダンナの実家へ。この二日間に会った人たちのことを報告すると、義母は自分が行ったかのように、うれしそうに聞いてくれた。何よりのお土産になった。

2000年07月21日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月20日(土)  トルコ風結婚式

■巷ではトルコ風アイスが大ヒットしているようだ。記事もいくつか見たし、先日、スーパーで「きゃー!あった!これ、チョーうまいんだよ」と騒いでいる高校生がいた。もちのように伸びる不思議食感が受けているらしいが、まだ食べたことがない。だから、トルコ人の友人キャーミルから結婚パーティーの案内が来たとき、真っ先に思ったのは「アイスは出るだろうか?」だった。■新郎のキャーミルは、最も日本語のうまいトルコ人という噂で、外国語大学でトルコ語を教えている。日本文化にもどっぷり浸かっていて、トルコの首相が来日したときは、徹夜でマージャンした後に通訳に向かったという逸話がある。去年、深夜番組で「こんなトルコ人がいる!」と取り上げられてもいた。結婚も日本人とするのかなと思っていたら、そうなった。見た目は日本美人だけど、快活でよくしゃべる女の子を選んだ。パーティーは京都のパレスサイドホテルで行われ、大阪にあるキャーミルのお気に入りのレストラン『イスタンブール コナック』(大阪市西区南堀江1-11-1栗本建設ビルB1F TEL06-6534-7277)のトルコ料理がふるまわれた。見たことのない珍しい食べ物が続々。飲み物は塩味のヨーグルト。バックに流れるのはトルコ行進曲。うーん、トルコ風。アルコールが入ると、テーブルの間で踊り出す人が現れる。トルコ人はこういうパーティーでは踊るものなのか、トルコ人らしき人が輪の真ん中に進みでては順に踊りを披露する。小さな女の子もくるくる回って、拍手を浴びていた。肩を組み、会場を練り踊る集団もいる。圧倒されて見ていると、キャーミルがテーブルに回ってきて、「見てのとおり、何の計画もありません」と言った。開宴のときいた司会はいつの間にか消えていた。6時に始まったパーティーが10時過ぎにお開きになったとき、「受け付けで配られた百円玉はどうするんですか?」と質問が飛んだら、「最初、ゲームをやるつもりでしたが、やめました」。いいなあ、トルコ風。楽しみにしていたトルコ風アイスにはありつけなかった。アイスを錬る機械が75キロの重さで、大阪から運ぶのを断念したらしい。「本物のトルコ風アイスを食べたかったなあ」と言うと、「だったらトルコに行かなきゃ。牛乳が違うからね」とキャーミル。いつか行ってみたい国だ。

2000年07月20日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月19日(金)  少林サッカー

■う〜りゃ!ついに少林サッカーを観た。ゆうばり映画祭からずっと気になっていて、同僚のE君と「少林サッカーに熱狂する会」を結成して「いつ行く?いつ行く?」と言い続けてきたのだが、E君の体が空きそうにないので、「熱狂する会」のもう一人のメンバー、タカトモちゃんと二人で行くことにした。映画はあまり期待しすぎると「思ったほど面白くなくてガッカリ」することがあるので、期待にブレーキをかけていたつもりだったが、社内では「今年最高のエンターテインメント!」(パコダテ人ではなかったのね……)「いや、ここ十年で最高!」と絶賛の嵐で、そんな声を聞いていると、これはもうとんでもなく面白いに違いない、と期待はむくむく膨らむばかりだった。■映画館は渋谷の東急会館。座席数が多い。スクリーンがデカい。こんなところで一度は自分の映画を……と思ってしまう。本編がはじまったら、のっけから引き込まれた。派手な少林拳法アクションは予告で何度も観たけど、ストーリーは全然知らなかった。長年の屈辱の後に知らされた、かつてのチームメートの裏切り。それを復讐ではなくサッカーで見返すという構図が痛快。少林寺を広めたい男がサッカーに飛びつく。自分に自信のなかった女が自分の魅力に気づかせてくれた男に恋をする。登場人物の行動や心の動きに説得力があって、すんなり感情移入できる。こういうわかりやすい話は大好きだなあ。伏線も明快に仕掛けられていて、「次はこうなる」とわかっていながら、ドキドキしながら展開を見守ってしまう。ラブストーリーもかわいくて、継ぎ当てだらけの靴や閉店後のデパートの束の間の逢瀬やしょっぱい饅頭のエピソードは、良かった。上映中に何度も拍手が起こる、こんな映画はじめて。■予告編で気になったのは、『SPY-N』。藤原紀香がアクション映画に出ることをまったく知らなかったので、びっくりした。英語の台詞も決まってた。大阪弁も英語も喋れるってすごい。

2000年07月19日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月15日(月)  パコダテ語

*いまいまさこカフェ*の言葉あそび掲示板では今、パコダテ語をお題に遊んでいる。「アナウンサーの世界では、紛らわしいニホンとニッポンを区別するために『日本°』という表現がすでにあった」「自分がいる制作本部という部署は、パコダテ語にすると『制作ポンプ』になってしまう」「Bush大統領は、パコダテ語でPush大統領になっても性格が出ている」「便器にマル(°)をつけたらペンキになる」などと発見があって面白い。でも、膝を打つほどの名パコダテ語をひねるのは、むつかしい。一年ほど前にバラエティー番組で「ハ行をいじってあそぼう」企画をやっていて、「これはパコの世界だ!」と興奮して見たのだが、そのときに出た『外人墓°地(ポチ)』の化けっぷりは見事だった。■今年の年賀状には「パコダテ語で流行語大賞を狙う!」と書いたが、世間では意外と流行っていない。先日、エビ(海老)と打ったつもりがエピになっていて(無意識のうちにパコダテ語を打ってしまうとは相当重症!)、気づいた同僚に「広告にパコダテ語を使って、マスメディアの勢いで流行らせようとしている?」と突っ込まれた。たしかに、その手はある。パコダテ語にしたらチャーミングなネーミングでも考えようかな。おかたい企業名が「°」をつけた途端に親しみやすくなって好感度アップ、有頂天の社長が「人気のピミツはズパリ……」なんてパコダテ語で答え、たちまち流行語に……そんなユカイな話はないだろか。■写真は最近通勤に使っている激安トートバッグ490円。パコダテ人大阪公開に合わせて帰省したときの収穫で、キラキラスパンコールのチープさも最高。

2000年07月15日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2002年07月14日(日)  戯曲にしたい「こころ」の話

戯曲のことを考える。昔書いたコメディーを書き直す方向で……と演出家との間で話はできているのだが、「いっそ新しいものを書いては、どうだろう」と思いはじめている。演じるのは、プロの役者になる前の研修生たち。コメディーよりも泣かせる話のほうが演じやすく、お客さんを引きこみやすいのではないか。大切なのは、その舞台で「味をしめてもらう」こと。自分の台詞が人の心を動かせるのを身をもって体験することが、役者の卵たちにとって、何よりの栄養になるのではと思う。

時間ができたので、書きためておいたプロットに目を通した。シナリオを書きはじめた頃、あたらしい話を思いつくたびに、原稿用紙4枚分ほどのプロットを書いていった。順番に肉付けし、シナリオにしていく予定だったが、思いつく早さに書く早さが追いつかなくて、ほとんどが骨のまま残されている。ひさしぶりにデータファイルを開いたら、書いた本人が忘れたような話が次々と出てきた。ひらめいた瞬間の「冴え」のようなものは、時間が経っても残っていて、「我ながら、面白いこと考えるなあ」と感心するアイデアがいくつかあった。反面、「変なもの考えるなあ」「つまらなさすぎるなあ」とあきれ返るものも。同じ人間が生み出したものなのに、時期や気分によって全然違ったものになるのが面白い。

ファイルの中に、プロットになる前の走り書きのようなものがあった。その中に「戯曲にしたい」と、そそられるアイデアが1本見つかった。『こころ』の話。どんな物語も多かれ少なかれ『こころ』を描いているが、これは直球ストレートで『こころ』に迫る。テレビドラマだと熱すぎるかもしれないが、舞台だとちょうどいい温度ではないだろか。台詞もまっすぐ心に届くものにしよう。プロットを起こしはじめると、涙がじわり。こういうスタートを切る作品は、うまくいく気がする。

2000年07月14日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

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