2000年10月05日(木) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/12/08)

「93-」9時半から勤務。

「グルメサンドイッチ」が昼食だった模様。グルメは会社のある青山ツインビルの地下食堂街にあった。わたしの生まれ育った堺市泉北ニュータウンの泉ヶ丘駅の駅ビル、パンジョにもあり、子どもの頃の誕生会などで華々しい存在感を放っていたグルメ。大人になって再会すると普通のサンドイッチ屋で、落差に困った。

「NBJミーティング」FOXチャンネルとチャンネルVを担当していたニューズ・ブロード・キャスティングジャパンの打ち合わせ。

「しゅーちゃん」大学の同期の体育会幹事長だったしゅーちゃんと会ったのか。ITに詳しいので、仕事のことでアドバイスをもらったのかも。

「プー打ち上げ」東京ディズニーランドの新アトラクション『プーさんのハニーハント』のCM完成の打ち上げか。


2000年10月04日(水) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/12/03)

「晴れ(お日様マーク)」

「A11 サンドリア片岡氏」名前を見るまで永らく忘れていた懐かしい名前。会社のある青山ツインビルと青山一丁目交差点をはさんだ斜め向かい、国道246沿いにあったケーキ屋。ミキハウスのスチール撮影用の誕生日ケーキをここで注文したこともある。

片岡氏はソリューションXという会社をやっている元電通マン。わたしの書いたJAAA入賞論文(カンヌ広告祭での「JAPANESE論争」を書いたもの)を読んで、ご自身が編集されている『広告マンになるには』という本への寄稿を依頼してくださった。この日が初顔合わせ。仕立てのよい詰め襟のスーツ(イタリアのマフィア風)を着こなし、業界用語を連発する片岡氏の第一印象は、電通OBっぽい人。店を出た後、「これから石原慎太郎に会ってきます」とタクシーに乗り込んだ。

「オレンジ棚 移動」オレンジ棚=独り暮らしのアパートの前に捨ててあったオレンジのカラーボックスのこと。このときは今も住んでいる文京区のマンションに移り住んだ後だったか。

「立田野(抹消線で消してある) 萩」どちらも会社の地下にある和食の店。立田野ではなく萩で昼を食べた。

「たくや アンダンティーノ」たくや=大学の同級生の松本拓也君だと思われる。電通で何年か勤めた後独立してアクションクリックという会社をやっていた。今は芸能とITを自在に行き来する世田谷のプロデューサー(自称せたP)として活躍、本もバンバン出している。アンダンティーノは会社のあった青山ツインビルの双子の片割れ、西館の一階にあった喫茶店。広い割にお客さんが少なくてゆったりできたけれど、商売としては厳しかったのか、ampmにとってかわられた。赤坂御所の向かいという配慮からか、ここのampmの看板はモノクロだった。

「エルグレコw/望月 藤本」夕飯はINAひまわり生命の仕事で組んでいた先輩アートディレクターの藤本さん、パンフのレイアウトをやってくれていたプロダクションDADAのデザイナー望月さんと会社の地下にある喫茶店で。

青山一丁目まわりで5軒の店を行き来した一日。


2000年10月03日(火) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/12/02)

「曇り(雲マーク)」

「渥美受賞」NHK札幌放送局のオーディオドラマコンクールの同じ年に入賞し、授賞式で意気投合した渥美珠己さんが他の賞でも受賞。独特のファンタジー色を持った世界を描く人で、あちこちのコンクールで受賞を重ねていた。今どうされているのかな。

「半休〜20」午後出社で8時まで勤務。

「渋谷ロフト」渋谷ロフトと東急ハンズはよく行った。

「生協惣菜」が晩ご飯か。

「鹿島電話(電話マーク)」獣医ドラマを開発していたNHK札幌放送局の鹿島さんに電話。


2000年10月02日(月) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/12/02)

「雨(傘マーク)」

「オードリー開始」大石静さん作の朝ドラオードリーがこの日から。その十年後の朝ドラてっぱんを書くことになるとは思っていなかった。

「93-213」勤務。

「勘八 w/藤 田中 くずや」会社の地下にある寿司屋でお昼。ここは仲良しだった一期上のミキとよく行った。

「P2 INAインターナル」午後2時、INAひまわり生命の社内打合せ。関西ノリの担当者さんの多い得意先で、打合せでたくさん笑わせてもらった。とくに鮫島さんという男性が面白く、名刺を差し出すと「今井さん? 今井美樹ちゃんや」といったベタな反応が楽しかった。

「P43 NBJ」FOXチャンネルとチャンネルVを担当していた得意先ニューズブロード・キャスティング・ジャパンで4時半に打合せ。

「勘八(源中さんより)」昼を食べたお寿司屋さんのお弁当を上司の源中さんに差し入れられたと思われる。

「じゃんが 電話(電話マーク)」じゃんが君は当時酪農学園大学にいた獣医の卵君。ネットで知り合い、電話で取材させてもらったりしていた。公式にも取材させてもらっている大学だったため、取材ルートが複数になって混乱を招き、注意を受けた。今よりもネットで取材先をつかまえることへの抵抗もあった時代。


2000年10月01日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/12/02)

2000年10月のスケジュール帳は見開きで発掘。

「103up」十時半起床。

「隣の中村さん」記憶にない。お隣さんにご挨拶を?

「冷うどん」がお昼だった模様。

「男子マラソン」をテレビで観たのか。

「タマゴ時代打つ」獣医の卵ということで『タマゴ時代』というドラマのプロットを書いた。NHKドラマDモード『彼女たちの獣医学入門』の本作りに入る前に、この時期はプロットでどういう物語をやるのか模索していたらしい。

「サラダ ポテグラ」夕飯にサラダとポテトグラタンを作った模様。


2000年07月31日(月)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

「93-」9時半出社。

「京浜東北とまる」

「スタジオ撮12:15」京浜東北線で向かったどこかのスタジオで何かの撮影。CMか、スチールか。

「タクシー」ひさしぶりのタクシー帰宅。残業が多い月は連日タクシーだったけれど、この月は残業が少なかった。

欄外に「ホテルサンシティー函館」の連絡先。



2000年07月27日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

「半休」前日に休日出社したのかもしれない。

「あぐら」あぐら牧場か。

「山田」なんのことやら。

「P4 調査」線で消されているのでなくなったか。

「まこと夕食」22日に入籍したダンナと夕食。平日に二人揃って食事をするのは珍しかった。


2000年07月26日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

「93-19」この日は10時間勤務。

「SUN」会社の地下にある喫茶店でモーニング。

「ドイツw/向後 布施」お昼は会社から徒歩五分ほどの赤坂のドイツ会館へ。向後さんは化粧品のランコムの仕事で組んでいたアートディレクターの宮崎さんを手伝っていた女の子。布施さんはほとんど仕事ではからまなかったけれど入社した当初よくカラオケをご一緒した。映画好きで年に何百本も鑑賞。

「P73 SL」当時から鉄道趣味があったのかと思ったが、新橋のSL広場のことだと思われる。

「高倉台 白木屋→」SL広場に集合して白木屋で飲んでから次に流れたという意味か。高倉台はわたしの出身地だけど、文脈は不明。

「虹〆切」NHK青春アドベンチャー『不思議屋旅行代理店』の『過去に架ける虹』の原稿提出〆切がこの日だったよう。


2000年07月25日(火)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

「93-18」この日も早く帰った。

「Harden w/藤本」ひまわり生命の広告で組んでいたアートディレクターの藤本さんとランチ。青山一丁目の会社から六本木方面へ五分ほど歩いたところにあるHarden Tighten(卑猥な名前だよねと教えられるまで気づかなかったがそういうことらしい)は社員行きつけのバーだった。おじさま社員が若い女の子を口説いている現場に遭遇したことも。

「カフェクロw/渋、宮、なくい」会社の地下にあったカフェクロワッサンへ大先輩の渋谷さん、後輩のミヤジュン、なくいと。ミヤジュンとなくいは同期。ミヤジュンは後にラジオ局に転職、なくいは装幀家名久井直子として大活躍。先日ついに情熱大陸に登場した。

「鹿島電話(電話はマーク)」。ドラマ『彼女たちの獣医学入門』の件。

夕飯はまたしても「惣菜」。月の半分ぐらいがそんな感じなのに店を思い出せない。


2000年07月24日(月)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

「93-18」この日は珍しく6時上がり。

「野村電話(電話はマーク)」野村證券に電話。この頃には担当を外れていたが、入社してすぐ野村證券の広告を担当していた。株式は持ち続けるほどリスクが少なくなり、リターンを見込めますとコピーを書いたが、わたしの場合は当時買った株が軒並み値下がりしている。さらに長い時間が必要か。

「フローズンロイミ」ドトールのフローズンロイヤルミルクティー、かなりはまっている。

「モチベ」モチベーションの意味か。社内のモチベーション向上会議のようなものに出ていた覚えがある。

「過去FAX」おそらくNHK青春アドベンチャー『不思議屋旅行代理店』の第10話『過去に架ける虹』のこと。複数の作家によるオムニバスで第1話『ランゲルハンス島』と最終話を担当させてもらった。当時はまだ社員全員にメールアドレスが支給されておらず、自宅でもインターネット回線を引いていなかったため、原稿はFAXで送っていた。今では考えられない。


「前田哲電話 母電話」映画『パコダテ人』の前田哲監督と母に電話。パコダテ人の撮影は2001年で公開は2002年。このときはまだ出会ったばかりか。

夕飯はまたしても「惣菜」。

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