度々旅
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日本語は、やっぱり難しい。というよりも、あたしの日本語能力のなさが、ひどいのだ。
だから、ただでさえ日本語下手な私が、案に誰かに何かを伝えたいと思って文章を書いたり、言葉を発したりするなんて、やめた方が無難なようだ。伝えたいことは、直接相手に、伝えなければ駄目だな。
ちょっと、反省したのでした。
リアル感が乏しいまま、生きていると、時々感じる。けれども、そのリアル感というものが何かわかっているわけではない。ただ、こういうものだろうと勝手に思っているだけだ。
何らかのリアル感を要求されながら、日々を過ごしている。その要求されているものとは、何なのであろうか。それこそ、虚像に過ぎないのではないだろうか。
私自身が今いる、感じている、リアル感がないと感じている、それこそが、リアルなものであり、それを反省し続けることは、単なる無限後退に陥るだけに違いない。一度反省してしまうと、それは反省以前より薄い感覚、概念になってしまう。ならば、反省などしなければ良いではないかと思うのだが、そうもいかない。生きていて、何かを考えている限り、反省は付随してしまう。
無限後退に陥らないためには、どこかに確信を持たなければならない。その確信は、私が今ここにいる、私は私を見つめている、自分を信じている、自分に対する信頼、自分への信、と、再び、確信のない信の無限後退に陥ってしまうようだ。
果たして、信とは基礎付け可能なものなのであろうか。普遍的であり、永続的な基礎付けは結局のところ、無理なのではないだろうか。
大人な行動がとれない私は、怒りやイライラは別として、嬉しい楽しい悲しいなどという気持ちを、出さずにはいられない。それでいながら、その気持ちを打ち明けた相手に、一緒に悲しんだり、喜んだりされてしまうと、心地悪い。まぁ、その相手の反応の度合いにもよるのだけれど。
世の中には、他人に生じたことに対する喜び好き、心配好きな人がおり、喜び好きはまだ良いのだけれど、心配好きってのは、案外厄介なものだ。明らかに、あなた心配しているという、そういう自分が好きなんでしょと言いたくなるときがある。そんな、人のことばかり心配したり悲しんだり喜んだりして、世の中全部をしっかり引き受けて生きていけるなんて、それは尊敬に値することなのかもしれないけれど、あたしはそういう相手が苦手なのだ。
思わず自分の喜びや悲しみを言葉にして伝えてしまい、相手がそれに過剰に反応すると、あれ、あたしはあながた思う程、そんなに喜んでいないし、悲しんでいないのではないかと思ってしまうのだ。素直でなくて、ごめんなさい。
そんな私は、相手がいつもと変わらずに、あたしの感情を適当に受け流してくれると、本当に安心するし、心地良いし、後から自己嫌悪に陥らずにすむので感謝する。そうなのだ、自分の気持ちを垂れ流しながら生きている私としては、相手にいつまでもその時の私の気持ちを考慮されて接っされると、ホントごめんなさい。あたしが、自分の気持ちを発してしまったばかりに。ホントあの時だけなの。今はもう平気なの。あの時だって、ホントではなかったかもしれないし。と思ってしまうのだ。
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