度々旅
INDEXpastwill


2002年07月13日(土) 変人美容室

 実家に帰り、いつも行く美容院で髪を切ってみた。夏に反発して、重い感じでお願いしますと注文。相変わらず、重く見えるけれど、実際は軽くて、段はそれでもあまりいれないで、おかっぱだけれど、起きた時につく寝癖がいいかんじになるやつ。と、わがまま注文。お前のような客は、他の美容院じゃやってくれないと言われながら、店長は楽しんでやってくれていた。その美容院は、変人美容室というあだ名がついている。予約はできないので、客は待つことが多い。そして、自分が早くやってもらいたいがために、待っている客は、前の客の切った髪を掃除することもしばしば。

 どの客も、簡単な注文をした後は、適当に切ってくれとたのむ。自分がしてほしい雰囲気の髪を、自分に合うように仕上げてくれるだろうという信頼があるのだ。青山にあるようなサロンと違い、客が注文したとおりの髪型ではなく、客に合った髪にしてくる。例え、雑誌を抱えてこの髪型にしてほしいとたのんだとしても、その髪がそのまま本人に似合うかどうかは疑問なわけで、しかし、似合わないとしてもやって欲しいというような客は、ここには来ない。店長は、似合わない頭を作らないからだ。そして、仕上げは客が勝手にドライアーを使ったり、ワックスを使ったりして帰ることもしばしば。普通の店じゃ考えられない状況だ。

 ここに来る客は、髪を切ることでリフレッシュだとか、お任せで綺麗にしてくれとは思っておらず、自分のこだわりを実現させるためにやってくるのだ。出来上がった髪は、店長と客の共同作品ってやつだ。客層はかなり広く、老若男女問わずというかんじ。サービスを買いたいと思ってくる客は、まず一回で来るのを辞めてしまう。こういうやり方で、店を続けられる店長はすごいなと思う。

 昔店長に、「あなたもつまらない人間になった」と言われたことがあった。私が注文した髪型が、面白くなかったらしい。店長と私は、なんとなく通じるものがあり、互いにどこか認め合っていた。私は店に行く時、今度はどんな面白い素敵な頭に仕上がるかしら?と期待しながら行き、店長は、私がどんなものを注文するのか楽しみにしていてくれる。それが、私が学生であるにも関わらず、一般的な髪型をたのんでしまって彼はがっかりというわけだ。社会人になると、冒険ができないので、学生をカットすることは、彼にとっては特に楽しみということもあるのだろう。
 思い返せば、その頃の私は社会に少し迎合していた時で、彼はそれをいち早く見抜いたというわけだ。

 普通はこんな美容院は嫌だろうが、私は変人美容院に通う変人であり続けたいなと思う。

 夕方、昔の友人達と会う。非常に楽しいひと時を過ごした。以前日記にも書いたが、アメリカ人彼氏と付き合っている彼女とも会った。彼女は、彼と別れそうな状態。それをいいことに、私がそのアメリカ人にたまっていたものを吐き出したら、彼女も同意してくれてちょっと安心。相変わらず、卑怯者の私だ。彼女とアメリカ人のことは、いろいろ勉強?になることが多かったので、それについて思うことをそのうちここに書こうと思う。


2002年07月11日(木) 靴磨き

台風が去り、素敵に晴れた。風も乾いた風なので気持ちが良い。夕方アパートのドアを開けて座り込み、靴みがき。靴墨の匂いが、結構好きなことに気付いた。実家の玄関は、自転車もおける位のスペースがある。母はいつも、玄関にたくさんの革靴を並べて、磨いていた。その時、玄関は靴墨の匂いが充満するのだが、それが妙にしっとりした、落ち着いた匂いとして私の中に印象づけられている。

 靴磨きという職業にあこがれがある。小さな頃から、なんとなくかっこいいと思っていた。昔から道端にいる靴磨きのおじさんたちが、味わい深いというか、絵として美しく見えていた。墨で汚れた手、たくさんの道具が入っている木箱、おじさんたちが座っている椅子、お客が足を置く台。全てが、こじんまりと、しかしながら厚みがあるというのだろうか、木が生えているように、どっしり自然と存在しているように見えるのだ。そして、下から客を見上げて話をする。きっと、靴一つでお客の人生を見通しているのだろうと思った。
 
 今だにそのあこがれは変わらない。友達になった道端の靴磨きのおじさんは、素敵な人だった。季節の移り変わりに敏感であったし、人の靴を通して社会を見ているようでもあった。
 ものの見方にはいろいろあって、一つの方法だけではない。何事においても、じっくりと観察を続け考察をつづければ、対象は姿をはっきりと現してくる。靴磨きという仕事から見えてくる社会と、学者が考察する社会。直接に見えてくるものは違うだろうが、考察を重ねることによって見えてくる社会の先の姿は同じものだと思う。


2002年07月10日(水) 自然災害のある国

 台風がやってきている。なんだか、わくわくしてしまう。テレビ画面の向こうで、非難している人達を見ても、実際自分も危険にさらされているという実感がない。ただ、閉じ込められているみたいな感覚を楽しんでしまう。

 幼い頃に一度台風のために、家から歩いて3分程の所にある川の水位が非常に上がったのを覚えている。川原は、川の水によって埋まり、土手の高さの途中まで水位が上がった。雨があがった後、土手に行って、いつもとは違う風景に驚いたものだ。川原にある小屋や車は、屋根だけかすかに見えていた。あれだけ水位が増しても、その水をせき止めている土手はすごいなと思った。土手が決壊したら、恐ろしいという感覚はなく、ただただ土手って素晴らしい!と思ったのだ。

 なんとなく、台風が来ると、家の窓に木をばってんに打ち付けて、台風への準備という図が思い浮かぶ。しかし、そのようなものを見たことはない。サザエさんで見たのかな。

 しかし、東京で洪水になったならば、どうなってしまうのだろう。雪が少し降っただけで大騒ぎ。日本は、台風があって地震があって噴火があってと災害はたくさんあるのに、今一それらと上手く付き合えていない。太ももまで水かさが増す場所なんて、世界中にはたくさんある。そして、そういう国はそれらと上手く付き合う術を心得ている。決して、自然災害を憎んでいるばかりではない。もっと、自国の自然と上手く付き合う国づくりを考えてほしいものだなと思う。でも、これだけ狭い島にたくさんの人が住んでいるという時点で、かなりそれは難しいのだろうか。

 自然災害のある国。それは、自然の声を感じられる国ということだ。それは、素晴らしいことだ。そんな自然の声に逆らって、人の生活を築くのは無理なことだと思う。


こげんき |MAILBBS

↑エンピツ投票ボタン
My追加