度々旅
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先週に引き続き、徹夜になりそうな勢いの水曜日でございます。よく考えたら、コーヒーの消費が激しい。家にいる時は、いつでも飲み物が横にある状態で、それはなんでも良いのだけれど、気付けばコーヒーです。飲み物ないと、口さびしいもので。でも、基本的にペットボトル類は買わないようにしている。ペットボトルを買うと、捨てるか迷ってしまうから。買ってしまった時はリサイクル箱に入れるようにしているのだけれど、あれも本当にリサイクルされているか心配。毎日新しいペットボトルを買い、普通のゴミ箱に捨てている友人を見ると、ああ、一年でどれくらいの量になるのだろ。数年分あれば、家とか作れそうなどと思ってしまう。エコロジストというより、ただの貧乏人的感想だけれど。
うちの冷蔵庫には一年中麦茶が入っていて、それはご飯のお供で、それ以外の一人の時はコーヒーばかり。時々、さすがに飽きたなと思って紅茶も飲むのだが、紅茶って口の中が、しわしわした感覚になるので、結局コーヒーに戻る。ジュースなどは、たくさん飲むと気持ち悪くなるけれど、コーヒーは気持ち悪くならないので、嗜好品なんだなぁと実感。癖になっているのでしょう。
家には結構いろいろな飲み物がある。友人が来たときの好みに合わせて出せるように、お茶も数種類あるし、台湾で買ってきた茶器もある。紅茶もチャイ用の葉が、別にある。レモンティー用のレモンを常備していた時期もあった。そういや、ベトナムコーヒーもあったなぁ。昔ほど人も来なくなった私の部屋で、それぞれはだんだん香りがぬけて、美味しくなくなってきているのかも。おお。コーヒー以外にも飲まなければ。
夏になったら、花が入った氷をつくろう。お茶のひと時は、本来幸せな時間のはずなのに、コーヒーがぶ飲み状態の自分にちょっと反省。ごめんよコーヒー。
夜になって、しとしとと雨が降ってきた。雨が降り出すと、その音を聞きたくなり窓を開けてしまう。ひんやり、そしてしっとりとした空気が部屋に入り込む。それを楽しんで、ぼーっとしていると時間はすぐに過ぎ、実は寒いということに気付いた。窓を閉めると、だんだんと部屋は温度を取り戻す。そういえば、ここ三日、部屋から一度コンビ二まで出かけただけだ。あとは、部屋の中にいた。
連続して用事がないときは、部屋の中に流れる時間は、テレビをつけなければ、あまり実感がない。曇りや雨だと、ますますテレビしか私に時間を告げない。ちょっと怖い気もした。
さて、間にあうのかなぁ。授業の発表の準備。たらたらやり続けているけれど、危機感もないし、苦しくもないし、興奮もない。ただ、たんたんとテキストを読むだけだ。読んでも、中に入り込めず、あれぇ〜というかんじ。まいった。まいった。
明日こそは、革命を起こしてやるのだ。
| 2002年06月23日(日) |
出来た溝に水を流され渡れなくなった |
気分転換にネット上を徘徊していたら、高校の時の友人のページに遭遇。日記を読んでいて、盗み見しているような気分。気恥ずかしいかんじ。あまり仲が良かったわけではないので、彼女はこういうことを考えていたのかぁなどと新たな発見。まぁ、これから会うことなどないかもしれないけれど。
教室で机を並べていた頃は、大人数の付き合いというかんじで、まったく個々が見えていなかったような気もする。こういうグループにいる子というかんじで見ていたかも。申し訳ないとも思う。でも、思えば私は、いろんなグループに片足をつっこんでいるという、中途半端なかんじだった。昨日の続きで、相変わらず、輪っかの中が苦手な自分を思い出した。苦手なら苦手で、一人で歩くってことをすれば良かったのに、と今思ってもしょうがないことを思っている。
思うのだが、女子校ってのは、グループができやすい。そして、そのグループが卒業後も続く。どうして、あんなにきっかり境界線を作りたいのだろうとも思った。そして、どうしてその境界線はずっと続いているのだろう。境界線で切られてしまうのが嫌いな私は、境界線に立ってうろうろしていた気がする。だから、よくグループ内部の面倒な話を外部者としても聞かされた。しかし彼女達は、また輪の中に帰っていく。では、あたしが聞かされた話はなんだったの!?という感覚は、今だに持ち合わせている。そういうものが、ますます私の輪の中が嫌いというのを強めているのでしょう。 高校の最後の方で、私は自分の輪のようなところから飛び出した。というより、個々でつながっていると思っていた親友との間に溝ができ、彼女と私を含んでいる輪から追い出されてしまったというかんじ。その時、だいぶ私を本当に大切にしてくれている友人と、私ではなく、友情のようなものを大切にする友人がはっきりしたのを覚えている。私は、親友とのことを他の誰にも言わなかったが、親友はその輪っかの人みんなに私の酷さを泣きながら訴えたらしい。それを聞いた輪の中の人々は、私を責め立て、理由を聞いてきた。が、これは私と親友の問題であって、他者が入ってくるものではないという気持ちから、いっさい私は彼女達になにも言わなかった。
卒業してからわかったことなのだが、いろいろな所で、輪の外の友人達が私のことを助けていてくれたらしい。輪とは関係ない個々でつながっている友人達は、私が何かをするには理由があると信じていてくれた。その親友や、輪の中の人たちに、何も言わず耐えている私を責めるのはおかしいと言ってくれていた。私が親友に渡した手紙は、輪の中の人たちに公開され、輪の外へも公開されそうになったのらしい。その手紙が紛失したという話をしてくれた友人がいたが、実はその友人が公開刑にあっているその手紙を処分してくれていたことがわかった。
私は輪の中に入っている感覚はあまりなく、それぞれ個々でつながっていると思っていた。しかし、いざ問題が起こってみると、輪というのは友情のようなものを振りかざして個々のつながりへと入りこんでくる。私と親友の間に出来た溝を埋めるためなのかもしれないが、それは私にとってはできた溝に水を流し、渡れないようにされているのと同じだった。個々でつながっているつもりが、結局は輪につながってしまうという恐ろしさを感じた。
輪が大きければそれは良い。私は、全部が点と点でつながっている輪を望んでいたが、個々の輪が出来てしまうと、それがぎゅっと圧縮されてしまい、他を受け入れない一つの大きな点ができてしまう。それぞれは、個々の小さな小さな点で、自由に他とつながることが出来ることが理想なのに。
ちと、長くなってしまった。久し振りに昔を思い出したよ。あはは
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