度々旅
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2002年05月19日(日) 贈り物

午前中に起きて、ゴダールの愛の世紀を観にいこうと思っていたのに、いつもどおり寝坊。とほほ。

新宿まで、アルバイト先の方々へのお礼の品を買いに行こうと思っていたけれど、結局近くのお店で決める。

人にプレゼントなどをあげることは、結構好きだ。あまりお高いものは差し上げられないけれど。
プレゼントを買うために、いろいろと考えることが好きともいえる。相手の好みを考えて、かつ自分の主張も少しは取り入れたい。

私がもらって嬉しいものは、欲しいのだけれど、無駄だなぁと思えるものだ。だから自分では、なかなか買えないもの。あとは、相手が私のことを考えてくれたんだなぁということが伝わるものが嬉しい。

プレゼントというのは、物ではなく、それをあげたいという心を表すことが重要だ。どれだけ感謝しているのかを示したり、大事だということを伝えたり、あなたのことを理解していますということを示したり。だから、そういう気持ちが伝わるものというのは嬉しい。

世の中にはお中元やお歳暮があるけれど、なんだかそういう感謝の気持ちを表すものというより、習慣として送らなければならないというかんじで、ちょっと悲しい。
せっかく渡すのだし、せっかくもらうのに、心が入っていないというのは、互いにとって無駄なのではないかしら。

今日は昼間は暖かかったのに、夜は少し寒い。夕方うとうとしている間に、雨がしとしと降り出した。せっかく乾いた洗濯物も、取り入れ忘れていたため、濡れてしまった。これからの季節は、うとうと眠りの前に、洗濯物をちゃんととりいれなければ。


2002年05月18日(土) 自分と付き合う

寒い日が続いている。雨も続いているし、もう梅雨に入ったのかしら。

休みの日はいつも早く起きて、いろいろしたいと思っている。でも休みの前日の夜はなんだか開放感に満ちて、寝るのがもったいなくてついつい夜更かし。そして、結局休日は午後に起きてしまう。とほほ。

昔はそんな自分をなんて駄目なんだと責めたものだが、今では、それも私だからしょうがないと受け入れている。

受け入れるというのは、あきらめると似ている。違うのは、受け入れながらも、向上したいという気持ちを忘れないということだ。
受け入れるということができるようになってから、非常に気持ちがらくになった。受け入れるということができない頃は、自分を責めることに無駄に時間を使い、精神を消耗していた。それがなくなった。

普段だらだらと過ごしている私でも、時々異常にやる気が出てくる時がある。そういう時を逃がさないようにすれば、なかなかうまくいくものだ。

自分を自覚することや、反省は必要だが、駄目な自分を責め続けても疲れるだけだ。自分はそういう人間なんだと受け入れ、そんな自分とどうやって付き合っていくかを考えることは大事だ。

だんだん、自分と付き合うことが最近うまくなってきた気がする。


2002年05月17日(金) 今年一年遠い国にいると思っていて

会話というものは難しい。
相手が何を言わんとしているのかがわからないと、相手の言っていることの意味がわからない。相手が何を質問しているのかがわからないと、まったく見当違いの答えをしてしまう。

普段一緒に生活していない相手だとなおさらだ。一緒に生活しているということは、その人が何を大切に生きているかを近くに見ることができる。その人の行為を見て、その基本となるものを感じることができるため、その人がなぜそのようなことを話すのかがわかりやすい。

また、同じような環境にいる相手とも話しはしやすい。目的は違うにしろ、何か頑張っている人、その頑張り方が自分と似ている人との会話は非常に楽しい。

例えば、「忙しいので当分会えない」という一言は、「当分」というところの解釈が聞き手によって変化する部分だろう。仕事を持っている相手とそうではない相手によってまったく異なって受け取られる。私は去年、後がない、という恐怖のなかで生活をしていた。今年頑張らなければ後がない。私の多くの友人達は、それをわかってくれていたので、「私は今年一年遠い国にいると思っていて」という一言を私の意図したとおりに受け取ってくれた。私の区切りがつくまで、いっさい電話をかけてくることもなければ、メールさえ、申し訳なさそうに送ってきていた。本当にありがたいと思った。
そういう友人達は、自分自身も本当に精一杯生きている者たちなので、私の立場をよく理解してくれていたのだ。そのような友人の態度は、私へは無言の応援という形になった。わがままを言う私をずっと待っていてくれていた友人達は本当に大切な存在である。

しかし、中にはそういう意図が伝わらず、「私なのに、少しも時間をとれないの?」と言ってくる友人もいた。難しいものである。彼女はそのような一言のために、私がどれだけストレスを溜めるのかということに気づいていないのだ。

言語活動とは、相手を理解しよう、相手の主張を自分の中へ投影しようという気持ちの中で行われなければ、上手く成り立たない。まったく同じ質問をしたとしても、相手によって、まったく違う方向に答えるだろう。それと同時に、質問者も聞き手側を理解していなければ、その真意を表すような答えに出会うことができない。

しかし、いくら努力しても本当にいらいらしてしまう程、私の言いたいことが伝わらない相手もいるわけで・・・。本当に難しい。
言語はそれぞれの共同体の中で形成されていく。言葉自体の意味は、その中で変化し続けるだろう。それはつまり、言葉の背景が変化するともいえる。言葉の背景を共有していなければ言語活動は難しい。

一見会話が成り立っているようでも、同じ言葉に対し相手も同じだけの意味を見出しているのかは決してわかることはできない。これは信じるしかないのであり、その他の行動などを見て予測するしかない。

言語ゲームやパラダイム、暗黙知などといった表現は全て、形としては現れないものを共有している。言い方を変えれば、用いる言葉や理論などの背景を共有している。その共有が困難な場合もある。しかし、困難さに気づかない場合もあるわけで、それに気づかないということが、人間と人間の間において、一番の問題である気がする。






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