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2010年06月07日(月)

40代が何かに挑戦するのにぎりぎりの世代らしい。思い立ったらいつだってはじめられるとも思うが、体がそれなりに動き、心も充実する時期としてはやっぱり一番いい時期なのかもしれないとも思う。あと十数年ほどすればその域に達するわけだが、長いような、短いような。

そういえば、これからは体力の低下がはじまってくるらしい。今は多少の無理をしてもそこまで問題にはならないが、これからはもろに響いてくるかもしれない。日々の習慣が今後に影響を与えそうだ。

40代で何かやってみると仮定したとして、何をしたいだろうか。結局それがいまだに形になっていない。方向性が定まらない。

考えるのが面倒くさいと思ってしまう。途中であきらめてしまう。簡単な答えを求めてしまう。楽な方に流されて、結局後になって後悔する。よくない思考の流れである。

とりあえず、ちょっとずつ積み重ねよう。その積み重ねが40代に入ったときに何か形になっているかもしれないし。


当面の目標
・自己を律する(だらだらと夜更かししない)。
・体を鍛える



2010年08月10日(火)
旅行

に行く。明後日から大阪に2泊3日で。そういえば大阪に泊まりで行ったのは小学生ぶりかもしれない。

帰ってきたら頑張れるようにやることを列挙
割と急ぎ
・通関士試験対策(計算問題もやらないと)
・お金を増やす→FX 通関士試験以降にやりたい→種銭を集める
・給料の振込み口座を一部分散→余剰をFX種銭に
・携帯電話等の引き落とし口座を変更する(頑張れば旅行中でも可能)

とりあえず年内
・オーダーシャツ
・次に靴
・小物をそろえてからオーダースーツ(イージーオーダーが無難?)

将来に備えて
・日々の小ネタ集め
・ネタの記録
・新聞読むべき?→ネットのニュースでそれなりokかも
・もうちょいいろんな本読まないと

とりあえず構想中(起業とか)
・ネットショップについて
・プログラミングを勉強→web関係で何か(初期投資安い&手に職的)


こんなところか。そういえば最近贈られてきた葡萄が大変美味だった。みずみずしくて、甘い。袋入りとはだかのがあったけれど、袋入りの方が実が大きくて甘かった。いいやつは大切にされるらしい。



2010年08月14日(土)
旅行

行ってきた。木曜日夜は友人らと飲み会、金曜日は一日中読書。土曜日はお昼過ぎに新幹線に乗って帰ってきた。旅行なのに、観光してない。まぁ大阪で特別観光したいものがなかったので、後悔はない。

むしろ、パソコンを持っていかなかったこともあり、久々にネットを遮断して読書にいそしめた。漫画もいれて、6冊+α。漫画2冊、小説2冊、実用書2冊。+αは現在読書中。

ネットに「奪われている」時間がけっこうすごいことに気がついた。いや、本当は知っていたけど、考えないようにしていた。大学生までは自由な時間が多かったので、それでも生活に問題はなかったけれど、社会人になってから確実に生活を蝕んでいる部分がある。ちょっとなんとかすべきではと思ってもすぐに忘れて見入っている。なんかひきこもりみたいだ。

なぜこうも見入ってしまうのかを考えてみたところ、2つ思い浮かんだ。1つはいろいろな情報があふれていること。もうひとつはタダでそれが手に入れられること。結局、「何か」を知りたくて、感じたくて見ているのだと思う。問題は、見たいものが常にみられるわけではないことだろう。それ以上に何をみたいのかがよくわかっていないように思う。いろんなニュースサイトのリンクをたどってたどってときおりくすっと笑えるようなネタを読んだり、政治的なニュースや見解を読んで逡巡したりする。おもしろいものが見つかるまで漫然とリンクをたどり続ける。見つかっても次を求めてさらに散策が続く。終わりがない。と、いうより終わりを自分で決められないのだ。そろそろ寝ないとまずいな、という時点まで続く。それで、日々満足しているのかと言われると、どうなのだろう。


多分、本を読んだ方が満足感は大きい。読書の方が充実した時間を過ごせていると思う。けれど、ネットを見る時間の方がいつも長くなる。


ネットを見る方が「楽だから」なんだろうなと思う。本は「外で」「選んで」「手に入れる」必要があるけれど、ネットは「その場で」「手にはいる」。しかもタダで。本は買ってつまらないとへこむ。失敗しないためには「選ぶ」のに労力を要する。ネットはつまらなければすぐにそのページを閉じればいい。はずれてもそこまで気にならない。

そして、1冊の本は限られたテーマについての情報しか手に入らないし、読み終えたらそれで終わってしまうが、ネットは終わりがない。見始めると止まらなくなるのは本もネットも似ている。けれど、本は「読み終えられ」て満足できるが、ネットはいつまでも終わらないので、なんとなく満足しきれない。


あと、読書はなんだかんだ言ってちょっと疲れる。勉強目的だとなおさら疲れる。ネットは娯楽だから、あまり疲れない。だからしんどい時は逃げてしまう。

別に逃げるのはまぁいいと思う。そんな日もある。ただ、ずっと続いてしまうのは問題だ。逃避行動はネガティブな感情を引き起こし、螺旋のように渦をまく。どこかで断ち切らない限り渦は巻き続ける。

通常はどこかしらでふっきれるのだけれど、多くの場合時間がかかっているし、一度ふっきっても気づくと戻っている。これをなんとかしたい。


結局、セルフコントロールの問題なのだ。一度はどうにかしようと悩み、根本的には無理だとあきらめて気にしないようにしてきた。以後は感情にまかせて逃避と復帰を繰り返しきた。そろそろ逃避についてもう一度向き合うべきではないかと思う。



2010年08月16日(月)
仕事

守秘義務というものがあるため、あまりおおっぴらに仕事のことを書くわけにもいかないので、ざっくりとだけ。

ゴミがよくでる職場にいる。しょっちゅう廃棄業者に引き取ってもらっている。分別もあまりしてないので、とにかくかさばる。

最近、ある廃材の廃棄見積もりをとったらお買い取りしてくれた。それまではお金を払って処理していたのに、処理したらお金がもらえるなんて。まぁ、実際は運送費を含めると赤字なのだけれども。まぁ、やりようによっては支出を抑えられることがわかった。

ほかにも何かできないかと目下思考中。ゴミを仕分けて使えそうなものをどっかに売れはしまいかという感じ。木材とか、需要あるかも。

と思ってネットを見てみるも、やはり競合他社があり簡単にはいかなそう。おいしい話はそうそう転がっていないようだ。



2010年08月19日(木)
反省

26からこころがけたいこと。

(休暇をとるとき)
・タイミングをうかがいつづけていると、ほとんどの場合、逃す。
→後にしようと思ったときが多分、最後のタイミングだと思うべき。

・休みをとるときは、まず決断してしまうべき。
結局とれなくなったら、そのとき変えればいい。
決まってから言い出そうとすると、タイミングが遅れやすい。

・(休暇後)お礼は最初に言う。
→後になればなるほど言いにくい。

(勉強)
・次はどうなるのか、を意識する。
ニュースや新聞記事から少し先を予測する訓練。
→その前に新聞を読むべき





2010年08月20日(金)
オーダーメード

東京で、オーダーシューズとオーダーシャツに挑戦してきた。

オーダーシューズはパターンオーダーで、いくつかあるデザインから気に入ったもの選び、それを自分に合うサイズに仕立てるというもの。デザインには多少のオプションをつけられるし、カラーが豊富なので選択肢はけっこう多いが、一方サイズ合わせについては採寸するのではなく、自分に合うサイズを試着して選ぶという感じ。結局こちらについては完全に合うものがなく、一番はき心地がましなものを選ぶことになった。今までの革靴のサイズがひどかったため、それでも随分はきやすいものができるに違いないとは思っている。しかしながら、欲を言えばジャストフィットするものを作りたかった。次回頑張ろう。

オーダーシャツは説明されなかったけれど、多分フルオーダーだったのだと思う。生地の選択はもちろんのこと、着丈、袖の長さ、襟の長さ、大きさなど、これでもかというくらい決めなければならないものがあった。どういうものがよいのかほとんどわからなかったので、店員さんのおすすめに沿って、自分の趣向を反映させていく感じになった。当初はストライプの生地にする予定だったが、どれも非常に派手に見えてきて、結局無難な無地のものを選んでしまった。つまるところ、ひよった。次からもうちょっと遊ぼうと思う。

出来上がりは9月と10月。楽しみである。手に入り次第、それらにあうスーツをオーダーしたいところ。



2010年09月17日(金)
ペイフォワード

最近、朝おにぎりをにぎっている。弁当男子に一歩踏み出した感じ。おにぎりをにぎるときに、どの具をまぜるか考えているとき、ちょっとわくわくした。いろんな具を買いためて、選ぶ瞬間を想像すると、楽しそう。というのがわくわくの理由かもしれない。

おにぎりタイムを捻出する代わりに朝の二度寝を控えだした。古くは小学生あたりから存在する習慣だが、しなくても意外に大丈夫なことが発覚した。朝、準備を整えて出発すると、割と気分がいい。ただ、やはり若干疲れる気もする。一方、二度寝は実に気持ちがよかった。ある意味麻薬的言ってもよいかもしれない。

たとえば、休日の過ごし方。惰眠で過ごすとする。睡眠自体はけっこう気持ちいいので、ありっちゃありだが、一方でもったいないという気持ちもなくはない。ちょっとした後悔とでもいおうか。

カフェで読書したり、映画を見に行ったりする。一日の終わりは多少の疲労につつまれるが、満足した時間を過ごせた気になる。

前者を麻薬的満足、後者を現実的満足、と呼んでみたい。麻薬的満足は、どこかに後悔がある。そんな気がする。

麻薬的満足の代表例
・惰眠
・ネット
・etc


まぁ、それはそれとして。


ペイフォワードを観た。さる本におすすめとあったので、早速借りてみた。中身に触れてしまうのははばかられるのだが、触れなければ書けない部分なので、書く。観てないけど知りたくない人はここで引きかえしましょう。


率直に言えば、無念だなと。「善意を次に」運動がいつの間にか大きく広まっていく、というストーリーは実にすばらしく、感動的だと思う。ただ、なぜ最後に主人公が死なねばならないのか。

お話として考えれば、彼が死ぬことで、ラストの延々と続く追悼の花と蝋燭に重みというか、その運動の盛り上がりが浮き彫りになるわけだ。そして、亡くなった彼のためにも、彼の志を世界につなげよう、と締めくくれる。彼が生きていたら、多分「はいはい、みんな幸せでよかったね」と白ける感じがありそうだ。結末として、弱い。

逆に言えば、ストーリーを締めくくるために、彼は殺されたといえるのではないか。なぜ、こう思えるのかというと、死に方が唐突だからだろう。12歳の少年がもみ合いの中で刺されたぐらいで死ぬのか。そりゃ、場所によっては致命的かもしれないけれど、そっちの方がまれでないかと個人的には思ってしまう。あるいは刺した少年に明らかな殺意があったのか。


もともと重い病を患っていた、とかトラックに引かれそうになった誰かを救おうと代わりにはねられた、とかならそれは仕方ない、みたいな気持ちもあるかもしれない。まあそれでも引っかかりそうな気もするが。

結局、彼が死ぬ必然性が演出上の理由以外ほとんどないのが問題なのだろう。生きていても、結末としては間違いではない(完成度は別にして)。なのに、ストーリーの美しさを引き立てるために殺される。それが、なんというかやるせない。原作者に文句言いたい。ハッピーエンドでもええやんかと。


実に素敵なお話だっただけに、結末が無念で無念で。やり直しを要求する。