あたろーの日記
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| 2004年01月19日(月) |
かわいそうなオバサン |
朝の地下鉄。乗換駅。 ホームへと続く階段をとっことっこ下りる私。 下では発車を告げるベルの音。 その時、背後から物凄い雄叫びが聞こえてきた。 「ウワーッ!ダメーッ!オオオーッ!イヤアアアッ!マッテエエエ!」 オバサンが。 「遅刻スルウウウ!ウオオオオーッ!!」 人目もはばからず大声で叫びながら。 「イヤアアアッ!」 手すりにつかまりながら必死に駆け下りてくる。 「ダメーッ!マッテエエーッ!」 確かに大声を出せばもてる限りの力を出し切ることは出来る。 砲丸投げの選手が実証済み。 だが。 「ウオオオオオッ」 おばさんは。 「イカナイデエエエエッ」 声だけ張り上げて。 「キャアアアッ」 一向に前に進まない。 「遅刻スルウウウッ!」 滅茶苦茶足が遅い。 だから皆、耳は塞げどよけはしない。
オバサンがホームに着くと同時に、電車が動き出した。 「ウオオオッ」 凄い。さっきから吠えてばっかり。 「アアアアアーーーーッ」 怒りと激しい運動のため、肩が大きく上下している。 仁王立ち。 やがて放心状態。
今日も日中布団の中でぐっすり眠ったら、体がだいぶ楽になった。今夜も早く寝て、明日からは体調万全で行かなきゃぁ。 昨日はうどんだったけど、今日の昼食は蕎麦。蕎麦を昨日のうどんと同じようにして食べた。結局蕎麦も食べたくなるんだな、ははは。 蕎麦文化圏で生きてきたせいか、薀蓄(うんちく)者もうどんよりも蕎麦についてのほうが断然多いように感じる。薀蓄って大好きだ。自分が薀蓄者だし、人の薀蓄聞くのも好きだ。ただし、自分が好きな分野に限ってのみ。なので、蕎麦薀蓄聞きながら蕎麦を喰う(蕎麦って「食べる」より「喰う」のほうが似合うような気がする)のは楽しいけれど、そういう機会はあんまりない。そういえば、父が蕎麦薀蓄だ。薀蓄者なんだけど、同じことを何回も繰り返し話すから、何を言い出すかはもうこっちの頭に入っている。ま、だいたい、つなぎがどうの、コシがどうの、蕎麦粉の割合がどうの、あたり。で、父の薀蓄に長年付き合ってきてウンウン頷いてきた母も、父の好むような舌にしぜん鍛えられている。 いつぞや家族で山形にドライブに行った折、父が酒田にとびきり旨い蕎麦があるからそれを食べさせてやりたいと言い、酒田に入った。ところが父の記憶というのが、職場の慰安旅行で酒蔵を見物し、かなり酔った後に行った蕎麦屋だったので、しらふになっても店の位置が正確に思い出せない。それで約40分近く酒田の街を車で行ったり来たり、父の当てにならない記憶をたどりながら探し回った。ようやくたどり着いた時には妹弟(まだ子供だった)は疲れて眠り呆けて、私も母も空腹で気持ちが悪くなり始めていた。でも、その蕎麦の美味しかったこと。父から教わったのは、旨い蕎麦を喰うために、40分も探し回る情熱です。その血はどうやら娘にもきちんと受け継がれてしまったようで。 私の記憶にある美味しい蕎麦は、まずこの酒田の蕎麦屋と、知り合いの和尚さんに連れて行ってもらった京都知恩院そばの蕎麦屋、それから新潟のとある山の中の蕎麦屋。ああ、あと、新潟の弥彦神社のそばにある蕎麦屋も。 でも、私の場合、ん、まずい、と思う蕎麦屋は滅多にない。もともと食い意地が張っているので、だいたい何を食べても美味しく感じてしまう。それでも、とびきり美味しいのとそうでないのとの区別は人並みにつくと自負はしている。 やばい。くどくど薀蓄垂れ始めている。すいません。 昨日に引き続き『殺しの四人 藤枝梅安 一』(池波正太郎 講談社文庫)を読んでいたら今度は蕎麦も出てきたので蕎麦な気分になってしまった本日。『守貞謾稿』をぱらぱらめくっても、三田村鳶魚をひっくり返しても、うどんより断然蕎麦に関する記述のほうが多い。けれども江戸で古くから食べられてきたのはうどんのほうで、「蕎麦は元来甲州から江戸へ入ってきたものだというが、随分古くからあったに相違いない。・・・中略・・・蕎麦を売り始めたのは享保の中頃からで、それまでは蕎麦屋とはいわず、上方と同じように、饂飩屋だったが、宝暦あたりから蕎麦屋というようになったのである」(「三田村鳶魚全集10」中央公論社)とある。また、江戸風俗画を忠実に再現し、解り易く面白い著作を出されている三谷一馬『江戸職人図聚』(中公文庫)の「蕎麦屋」の頁には、「江戸幕府の開設当時は、むしろうどんがそばより先行していました。寛永(1624〜44)から元禄(1688〜1704)頃までは、そば切りといって、うどんとともに菓子屋で拵えて売られていたものです。」とも。うどんも蕎麦も、江戸では最初、菓子屋で作られていたものだったらしい。で、最初は菓子屋の一商品だった蕎麦だけれど、『守貞謾稿』にはこう記されている。「万延元年、蕎麦高価のことに係り、江戸府内蕎麦店会合す。その戸数三千七百六十三店。けだし夜商、俗に云ふよたかそば屋はこれを除く。」蕎麦の適正価格を決めましょうと同業者が集まった。その際の数がこれ。江戸の終わりには4000近く(よたかそばも入れるとそれ以上)の蕎麦屋が江戸にあったことになる。いかに蕎麦が江戸っ子に好まれたかが想像できる。ちなみに、「よたかそば屋」というのは夜鷹の女性達がよく利用したという屋台の蕎麦屋のことで、風鈴を荷台に吊るしてあったりもしたので「風鈴蕎麦」とも呼ばれたそうです。夜鳴きそばのことでもありますね。ついでに、「夜鷹蕎麦」は冬の季語でもあります。冷え込みの厳しい夜の辻に、風鈴を吊るした屋台の蕎麦屋があって、そこに夜鷹の女性を初めとする往来の人々がひととき、胃袋と手のひらを温めに飛び込んでくる、そんな光景が目に浮かぶよう。。 忙しく、お金も節約したい夜鷹の女性達が仕事の合間に寄って食べた屋台の蕎麦。駅周辺やホームにある立ち食い蕎麦屋にさっと入ってズズーッと蕎麦を掻き込んで再び仕事に戻っていく忙しい現代人にその系譜は受け継がれているのかも。
まだ風邪が治らない。治らないどころか、こじらせてしまったようで。 今週は頭痛と吐き気と咳に悩まされた1週間でありました。 朝は少しは調子良いのだけど、夕方になってくるとグーッとだるくなる。日中ドタバタしすぎるのがいけないのかも。なので、この土日はじっと我慢の子で布団から出ないことに決めた。来週はもう会社休みたくないし、休めないし、いろいろやりたいこともあるし。昨日は帰宅前に近所のスーパーで食材を買い込んできた。野菜不足を痛感していたこの頃、医食同源、風邪をこじらせてようやく気がつく間抜けさよ。 ぐっすり寝て、昼食はうどんにした。 つゆには鶏肉と玉ねぎを入れて。ゆでたきしめんを丼によそい、つゆをかけて、その上にぐるっと茹でた水菜とからし菜、刻んだ生の韮、汁ごと大根おろしを盛り、中央に生卵を乗せる、最後に小口切りにした葱を沢山。 うどんより断然蕎麦が好きなのだけど、体調を崩した時はうどんのほうが体力つきそうな気がしてうどんです。 午後は布団の中で『殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安 一』(池波正太郎・講談社文庫)を読んでいたら、主人公の梅安が友人の彦次郎と伊勢詣りの道中、梅安が、「彦さん。この先の芋川のうどんは、ちょいとうまいのだよ」と言う場面があった。 そこで、『守貞謾稿』巻之五(『近世風俗志一』岩波文庫)をめくってみたら、「またいも川と云ふは、昔の温飩(うどん)名物の地名か。あるひは温飩に名ある家名なるべし。・・・中略・・・因みに云ふ、今世、江戸にて平打の温飩を、ひもかはと号く。・・・中略・・・ひもかはと云ふは、芋川の転訛ならん。また因みに云ふ、今江戸にてひもかはと云ふ平打うどんを、尾の名古屋にては、きしめんと云ふなり。」と書かれている。どうやら「きしめん」の発祥地は尾張の芋川という土地か、と思われるも、肝心な芋川という地名を探したら新潟や秋田にはあれど愛知県にはない。ではうどんで有名な芋川というのは本来どこなのか、と、ネットで検索したらすぐ見つかりました。「愛知の麺」どうやら今の刈谷市今川町のあたりらしい。ただ、「きしめん」の本来の形はただ単に平べったく細長い麺、というわけではなかったようです。 ちなみに『広辞苑』で「きしめん」を引いてみると、 きしめん【棊子麺】�‐�麦粉をこねて薄く延ばし竹筒で碁石の形に押し切り、ゆでて豆の粉をふりかけたもの。�∧紳任舛里Δ匹鵝�ひもかわ。名古屋の名産。 と、そっけない。
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