日記ふう雑感 ひとりごと
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無事帰国した・・らしい。 滞在中は楽しく過ごせたが、帰りの飛行機でエアコンが効きすぎ風邪気味・・・らしい。
ひとまずひと安心。
| 2007年09月17日(月) |
クアラルンプール経由 |
10:30成田発マレーシア航空クアラルンプール経由スリランカ行きの飛行機だそうな。 帰国は23日ということなのでまさに自民党総裁選のまっ意中、、、、。 滞在地は細かくは危険地域に入っていないところだそうなので、一応安心し、 半ば強制的に土産を依頼す。
15日、16日と日本こども学会のシンポジウムを聞きに行った。この学会は小児医学畑の研究者が中心となり、学際的、環学的、総合的、文理融合科学を目指して4年前に立ち上げたものだ。今回は子どもの進化と脳科学というテーマで、進化論を中心にと遺伝学、脳科学の分野での最新の研究発表を聞くことができた。
全ての発表がそれぞれ印象的だったが、特に記憶に残ったのが第一日目の、総合研究大学院大学生命進化論専攻教授の長谷川真理子氏の「進化から見たヒトの子どものユニークさ」と二日目の日立製作所役員フェロー小泉英明氏の「脳科学から見た子どもの教育」両基調講演であった。
長谷川氏の講演はこれまでも何度か聞いているが相変わらず内容も話し方も歯切れがよい。「ヒトをヒトたらたらしめる要因は子ども期があるということだ」という説には納得である。もちろん遺伝学には素人の私だが、こういうことは子育ての最中いつも感じていた。一般の親はたいていそうではないだろうか。改めて言葉にならなくてもこういう事を感じて子育てをしているものだ。特に私は、当時のゆとり教育、「子どもの自主性を大事に。大人と同等に。」という風潮に大変違和感があり、「じゃ、何で子どもっていう時期があるのだ。大人と同じじゃないから子どもっていうんだろう?」という反発が強かったのだが、それを今回の長谷川氏が学術的に説明をしてくれたという思いである。
小泉氏は東京大学先端科学技術センター、米国カリフォルニア大学の客員教授でもあるそうだ。だが、印象に残ったのはそういうことではなく、脳科学と教育、子どもについての国際的研究の重要性を語っている点である。実際「国際心・脳・教育学会IMBES」と言うのがあるそうで、今年はロサンジェルスで大会が開かれているそうだ。
こうした“学”はまだまだ新しく、茫洋とした印象をうけるが、期待したい分野である。
娘その2のスリランカの旅は大学研究室の視察旅行なのだそうな。 なので旅費は研究室持ち。 9月17日〜23日、主にコロンボを中心に建物を見てくるのだそうです。
ま、研究に繋がるのでしょうから、危ないとか何とか言っていられないのでしょうけれど、、、、、やっぱ、危なっかしい。
機会があればこれからもあっちこっちの国を見て歩きたいのだと言っています。大学から出張旅費が出る範囲でお願いしたいもんです。
下の娘が大学の関係で一週間ほどスリランカに行くという。
「お、おい、鳥インフルエンザは大丈夫か?テロに会うかも知れんぞ!」 「ああ、ええっと、。。。。」 「スケジュール、母さんに送るように。同行者と行き先と、飛行機の便名時間等々・・・。」 「わーった、わーった。」
これが2週間ほど前の電話での会話である。 9月半ばと言っていたが、スケジュールどころか、何の連絡も無い。
「あ、スケジュール渡すの忘れてた、、ってかもう帰ってきちゃったし」などと言いそうである。
ま、怪我のどん底から這い上がってきた子でもあるので、 自国と言わず、他国と言わず、あちこち行ってみて、自由ーに好きなをして欲しいが・・・、。 綿密な事が好きなわりには大雑把で無頓着なところがある。 誰に似たのだ、いったい。
*************************: イタリアはどうなったかといえば、、、まだ、わかりません。
「理化学研究所脳科学総合研究センター創立10周年記念事業シリーズトーク”脳も知らない未来へ!”『セッション3脳と教育』」(長いタイトルだぁ)を聞きに東銀座時事通信ホールへ行ってきた。
出席者は理化学研研究員他、東大情報学環教授、小学校教諭、小学校校長。面白いのが人間国宝の能楽師弘田裕一、将棋棋士田中寅彦の両氏が加わっている事であった。教育現場に脳科学がいかに寄与できるかについての討論だったが、まず印象に残ったのは、広田氏の能の舞い。次が、脳科学者たちの「脳科学は万全ではない。教育の現場は、今まで積み重ねた経験の大事な部分を切り捨てないでほしい。」という発言だった。
東大情報学環はユニークな研究をしているといつも思うが、今回のトークは、同じ東でも北のほうの大学の脳科学研究がメディアと組んで前頭葉神話を広めつつある事への警告を強く発している内容でもあった。最近、教育思想史の(まだこの領域健在なのだ、細々とだが。)ある先生と、科学一辺倒じゃ教育は“語れない”のだと“語って”いたところだったから、聞くほうとしては、先端科学でもまだまだ“人”の部分がないがしろにされていないことに安堵もし、期待も持てた。問題は教育関係者である。教育者は保護者や一部のマスコミに惑わされることなく、人の勘とか情動などと科学を冷静に眺められる立場にいてほしいものだ。
それにしても、臨界期や学習の可塑性が可視的に示されたり、記憶のメカニズムが脳の機能から説明されたりすると、ついつい大きくうなづいてしまう。私は科学の進歩は歓迎する立場をとりたいが、一方的な宣伝に流されないでほしいという今日の科学者たちの言葉をどう捉えるか。先日の川島隆太氏の講演といい今回のトークといい、科学を動かす大きな力を持っているのは一般大衆だといえるのではないかとふと思った。
特に理由があったわけではないが、珍しく日本テレビの「24時間テレビ」を見た。癌で逝った9歳の男の子のドキュメント・ドラマを見て、娘が交通事故に遭った時のことを思い出した。そしてこんな事を考えた。
次女7歳の夏、横断歩道を渡っていて大学生の運転するバイクに轢き飛ばされた。何箇所か骨が折れ、運ばれた病院で即手術を受けた。脳内出血、内臓損傷も心配され、医者から「今日一晩がヤマだ」といわれた。娘は幸い全て良い方向で回復し、今に至っているが、ほんの少し、何かが違っていたらあの男の子と同じ運命を辿っていたろう。辛い手術やリハビリに耐える様子を見て病院の先生は「今までにない我慢強い子だ」と言ってくださった。テレビで紹介された男の子の頑張る姿が重なった。番組の中でも主治医が「奇跡に近いくらい強い子だ」と言っていた。子どもにはこういう力がある。
子どもにとっては生きていくことはただただ生きていくことなのだ。病気であろうが、大怪我をしていようが、彼らにとってあるのはただ生きていくことだけなのである。子どもは未熟であり、成長するものである、とは大人が作った文言だ。これを一番よく知っているのは子ども自身である。大人になると自分がそういうものであった“事”は思い出すが、どう足掻いてもこの生物本来の感覚を取り戻す事はできない。 だから文言にする。だから我々は子どもを慈しむのだろう。そういう中で子どもは只々生きて行くことができる。人は生物であること、社会的で在らざるを得ないことを思うと、子どもを大切にできない社会はその存在自体が自己矛盾である。
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