日記ふう雑感 ひとりごと
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1月も22日だというのに、日記は3日目である。
工芸展に行って来た。 最近芸術から遠のいていたので、 久しぶりに脳みそのいつもと違う部分に刺激を与えた気分だ。 絵を見るのも好きだが、空間芸術も面白い。
特に、空間が線で区切られるという事そのものが興味い。 区切っている線自体も面白い。 その全体がまた面白い。 そこにあるでこぼこが面白い。 同じ空間を共有しているという事実がある。 じっと見ていたくなるというまた別の事実がある。
それが道具であればまた面白い。 道具ほど人間の日常に密着したものはない。 日常とは愛すべき厄介ものである。 その役に立ち尚且つ美しくあろうというのだから、 けなげだ。
有名な彫刻や何百万円もする伝統工芸品だからいいと思うのではない。 小さな無名のスプーンでも、 面白いものは面白い。 面白いと思うのはただ一個の気持ちである。 じっと見ていたくなる唯一一個の気持ちである。
| 2003年01月18日(土) |
Bianca has made it! |
久しぶりの日記で、ページを開く暗証番号も忘れそうだ。
今日はセンター試験第一日目である。 55万人が受けたという。 私自身は一日家でのんびりといつもの週末を過ごさせてもらったが、 知り合いに、受ける方でも受けさせる方でも忙しい人間が何人かいるので、 他人ごとではない。 ・・・ような気がした・・・。
先日BS放送で見た何年か前のサイモン&ガーファンクルの ニューヨークセントラルパークのコンサートのライブに集まった人数が 53万人であった。 ウ〜ん、 いずれにしてもたいした人の数だ。
今日は朝からインターネットへの接続が思わしくなく、 夜になってやっと正常に戻った。 センター試験の影響か? と勘ぐりたくなるようなタイミングであった。
ところで、当サイトにTシャツがらみで登場してもらっている Biancaがロスサンゼルスタイムズのウェブサイトに載った。 やはり話題はTシャツがらみである。
”Bianca has made it into Los Angeles Times in image and in print.”
こちら↓。
http://www.calendarlive.com/galleriesandmuseums/cl-et-macgregor15jan15.story
Biancaらしい後ろ姿だ。 連絡をもらってサイトを開いたら一目でわかった。
我が家でも、ブッシュの評判は芳しくない。 喧嘩をしたくて仕方のない駄々っ子の如しだ。
Bravo Bianca! We agree with you!!
今年の仕事始めはとてもキリがいい。 正月3が日までで一週間が終わったせいだろう。 金曜日が終わったと同時に正月も終わった気分で丁度いい。 何が丁度いいのかよくわからないが、キリのいい仕事始めの月曜日である。
6日といえばまだ正月が抜けないような気がしていたものだが、 今朝ふと気がついたことがある。 門松が少ない。 しめ飾りが少ない。 住宅街を抜け商店街を通って歩きながらの駅までの10数分間に、 玄関にしめ飾りのあった家は1軒だけであった。 大きな門松が置いてある料理屋が一軒。 謹賀新年の印刷物が張ってあるお店が2軒。
不況のせいか、キリのいい月曜日のせいか、人々の意識が変わったきたせいか。 既に、正月気分などほとんどない。
もう一つ、 行きかう車も駐車場の車もしめ飾りをつけているのが一台もない。 我が家では車に正月の飾りをつける習慣がないので、 ちょっと前までは、駐車場などで目立って仕方がなかった。 だからと言って右へ倣えはしたくない。 この点に関しては夫婦意見の相違はない。 今日、歩きながら意識して見たみたが、飾りをつけている車は一台もなかった。
こういう状況だと飾りをつけている車は目立って仕方がないに違いない。 だからと言って右へ倣えもつまらなかろう。 私たちも右へ倣えをしたようでつまらない。
無駄を省くのは悪い事ではない。 近所が一斉にクリスマスのリースを玄関に飾り、 あっという間にそれが門松、しめ飾りになるのを見ながら 面白いとも思い、違和感も覚えたものだが、 今年のようにまわりの空気にあまりに凹凸を感じない年初めは また違った違和感がある。 勝手なものだ。
ただ、富士山はさすがにきれいだった。 天気がよければ通勤電車から毎日でも見ることのできる富士山だが、 冬の富士はいい。 正月の富士はことさらにいいぞと思う大和心が私にもまだ少し残っていたようだ。 実際に登ればゴミばかりなどという現実は棚に上げである。
早くも1年が終わろうとしている。 年をとると、いや、年を重ねると本当に時間の経つのが早い。 もうすこしじっくりゆったりと過ごしたいものだとつくづく思う。
去年の暮れもそう感じたので、 来年(つまり今年)は時間の過ぎるのをしっかり自覚しようと決めたのだ。 自覚していれば少しはゆっくりに感じるに違いない。 浦島太郎も我を忘れていつの間にか爺さんになった。 これを思い出すたびに、 ”今はこれをしているぞ”、”ここにいるぞ”と自覚してきた。 が、時間は去年より早く飛び去った。 ・・・・気がする。
来年はもっと早く通り過ぎるに違いない。 ・・・・様な気がする。 困ったものだ。 と同時に楽しみでもある。
今日は、年末の挨拶をして今年の仕事を終えてきたが、 ある若い知人が、 「今年は何だかとても長かったです。色んなことがあったので。」 と言っていた。
あ〜、若いってそういうことであった。 来年が楽しみなんて言うようになっては、 1年はますます短くなるばかりだ。
とにもかくにも皆様お疲れ様でした。 来年もがんばりませう!
今年も残り少なくなった。 なんだか忙しなく、ゆとりがない。
ゆとりがないと面白い文章が浮かんでこない。 話し言葉には多少のギャグは入っても、 ゆとりのない中でユーモアのある文章を文字で表そうとすると、 なかなか思うようにいかない。 文字が透き通って、書いた者の心持ちを透かし見せてしまうかのようだ。
ところでゆとりという言葉は好意的に使われる事が多い。 昨今問題になっている 「教育にゆとりを」とか 「ゆとりある生活空間の実現」だとか。
辞書でひくと 「窮屈でないこと」だそうだ。 ためしに”窮屈も”調べてみた。 まさか「ゆとりのないこと」などと載ってはいるまいな、などと思いながら。 「思うままにならないこと」「せま苦しいこと」「気詰まりなこと」 「不十分なこと」とあった。
ゆとりもありすぎると、締りがなくなったとか、生意気だとか、 学力が低下したなどと言われる。 (教育のゆとりに関しては、 ゆとりを求めているのは教育する方で、 それが実現した途端に、 低下したといわれる学力を背負わされる教育を受ける方にとっては、 何がゆとりなのかますますわからなくなる。 最近の私は自称”若者の味方”である。)
ゆとりと窮屈の間はむずかしい。 窮屈ながらゆとりを求めて生活している状態が一番いいのかも知れない。
ゆとりのない中、いや、ゆとりのある中と言ったほうがよいのか、 夜、本を読んでいてさすがに眠くなり、 自分でも朦朧とした目をしているなぁと思う事が最近よくある。
娘いわく、 「目玉の上から、重力に逆らわない状態でまぶたが覆いかぶさっている」 のだそうだ。 親の顔をこんな風に客観視して見ているのか。 なかなかゆとりのあるコメントである。
| 2002年12月16日(月) |
教育振興基本計画H20.7 |
KS研究会に参加。 3度目。 私のような素人が出席してよいのだろうか。
初等教育についての制度的変化がゆっくりと進展しつつある、 一方、現実は堅固な岩のような・・・。
また電車が止まった。 今日で3日連続だ。 JR高崎線はよく遅れるしよく止まる。 昨日は停電事故により、今日は人身事故だそうだ。 あまり腹立たしいので多くは書かない。 早くなくてもいい。とにかくきちんと走っていただきたいものだ。
今日、本のページに紹介した本は その著者がちょっとだけ知った方達であるため、 いつもと違った表現になったような気がする。 年齢はかなり違う二人だがいつも元気はつらつだ。 あの元気と行動力が本になった。
実はもう一冊ある。 しかしこちらは市販されていないため、本のページには載せなかった。 その本は「食べ物交友抄」と副題をつけられ、 著者は既にお仕事を引退された男性である。 この方は、旅行も大好きで世界各国をひとりで飛び回る。 ある雑誌(今は不況で廃刊になった)に連載していたという その旅行記を見せていただいた。 探究心いっぱいの、だが温和な人柄がにじみ出た文章だ。
本というのは、書いた人を直接知っているのといないのでは、 読み方がすこし違ってくる。
知らない著者の文章からその人柄を想像してみるのは楽しい。 知っている著者の文章からその意外な人柄を発見するのもまた楽しい。
というわけで、・・・ということもないのだが、 (以前から考えていたことなので) 紹介する方もきちんと顔を出すべく、 トップページに名前を入れた。
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