| 2003年05月24日(土) |
貫井徳郎「修羅の終わり」読了 |
警察ものである。笠井潔が後書きを書いているが、こういった探偵がでてきて謎解きをすることのない推理小説を叙述トリック物というそうだ。 代表作はアガサクリスティーの「アクロバット殺人事件」。訳知り顔の探偵が出てこないのは確かにすっきりしているが、最後の一行を読んでも、するりと謎が解けないのは少々おもしろくない。(私の頭が鈍いだけの話であるが)しかし、題名の通り修羅を旨に秘めて生きている何人かの登場人物には妙に共感を覚える。 記憶喪失の青年のエピソードもでてくるが、次の文章が妙に気に入った。
僕は何者なのか。どうしてもその自問を繰り返さざるを得なかった。記憶を失っても僕は僕だが、それはレトリック上の問題だけにとどまらず、ある一面を捉えた心理なのではないだろうか。つまり僕は記憶を失ったところで何も変わっていないのだ。 中身がない、ひたすら空疎な人間の抜け殻。
| 2003年05月20日(火) |
サリンジャー「キャッチャーインザライ」読了 |
20年以上前に読んだ筈だが、全く思い出せないままに読了。
村上春樹が介在していたにもかかわらず、主人公の高校生にはあまり共感覚えなかった。おまけに村上春樹のあとがきが当然あることと思っていたら、著者の了解が得られなかったため、あとがきがない旨、訳者直々の断り書きがあった。 なにかしらのトラブルがあったのではないかと思われる。 ただ、題名の意味がわかった。 子供が歌っていた歌の題名。主人公は、唯一将来なりたい職業について語る場面で、ライ麦畑で遊ぶ子供たちを 近くの崖っぷちから落ちないように守る役になりたいという。 小学校や、博物館など子供がいるところ随所に書かれた悪意ある落書きを主人公は片っ端から消したいと思う。だがそれは不可能だ。 きっと自分の墓石にも落書きは書かれるだろうと言う。キャッチャー・イン・ライになりたいが、主人公はその無力すらも知っている。知っているから あらゆるものとうまくやっていくことができないのだろう。
主人公が心から愛している妹、フィービーは確かに非常に魅力的な小学生である。 フィービーは多分他のサリンジャーの小説にも出てくるのだろう。非常に私としても愛着のある名前だ。
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