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キャッチボール訴訟

2005年02月19日(土)


キャッチボールが禁止されてない公園で小学校4年生が軟式球で、約17m離れてキャッチボールをしていた。
ところが、このボールがそれて、同公園内で妹らが滑り台で遊んでいるのを見るなどしていた小学校5年生の胸付近に当たり、その子は死亡してしまった。
被害者の両親は、キャッチボールをしていた二人の子の両親に計約6,250万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が仙台地裁であった。
被害者の男の子の死因は「ボールをぶつけられたことによる心臓震盪」と認定し、「ボールがそれて他人にあたることが十分に予見でき、他人に傷害を与え、さらには死亡に至らせることがあることも予見しえたというべきだ」と認定、男児2人の両親に指導監督義務があったとして、連帯して慰謝料など計約6000万円を支払うよう命じた。

キャッチボールのそれたボールに当たって、亡くなった子供はまったく気の毒だし、冥福を祈るしかない。
公園で遊んでいた我が子が不慮の事故で亡くなってしまったご両親の悲しみ・怒りも想像を絶するものであろう。

キャッチボールをしていた子は、故意にボールを当ててしまったのではない。
キャッチボールが禁止されていた公園でキャッチボールをしたわけではない。
勿論、それたボールが他の子どもに当たって、死亡してしまったのだから、過失責任はある。
しかし、この判決は、原告の全面勝訴で、キャッチボールをしていた子ども達だけの責任と認定されているが、果たしてそうなのだろうか?
小学校4年生が自分の投げたボールがそれた時に、他人にケガをさせる事くらいは予見出来たかもしれないが、17m先の児童を死亡させるなんて、想像することが出来ただろうか。
もし、キャッチボールがそれて、人を死亡させる事を予見し注意をする義務が問われるならば、死亡した子どもの方も、キャッチボールをしている子どものの1.5mという至近距離にいたのならば、ボールがそれて自分に当たるかも知れないと予見し、避けたり、離れたりする事を怠った事も問われるべきではないか。

私が子供の頃、公園で男の子たちは、普通にキャッチボールをしていた。
時には、その男の子達の仲間に入っていた事もあった。
近くに人がいれば、ボールが当たらないように注意する事は勿論だったが、逆に、近くでキャッチボールをやっていれば、自分も当たらないように注意をしていた。
子どもは成長する過程の中で、そうやって、遊びの中でも、危険から自分の身を守る事も学んでいったのではないだろうか。

このキャッチボールをやっていた子どもたち、自分の投げたボールが当たって、目の前で同じ小学生が死んでしまったという事実にショックを受けているだろう。
大人同士の裁判で争う事より、この子どもたちが受けているであろう心の傷の方が心配である。







大阪教職員殺傷事件

2005年02月18日(金)


この事件、まだ被疑者である少年の心が落ち着かずに、供述も二転三転しているようなので、ちょっと感想だけ。

被疑者の少年は「小学校時代に虐めにあった時に、担任の先生が助けてくれなかったから、恨んだ」と言っている。
それに対して、学校側は、具体的な虐めの事実を確認してはいないし、母親も「当時、親身になって相談に乗ってくれ、感謝している」と言っているそうだ。
「虐め」は、受け取る側の感じ方によって、違ってくる。
相手は虐めているつもりはなくても、周りからそれが「虐め」に見えなくても、本人が辛いと思えば、少なくても少年の心を傷つける事は、あったのだろう。
人の心は、各々違う。
たとえ同じ事(言葉)があっても、傷つかない人もいれば、傷ついてしまう人もいるし、自分の心を素直に出せる人もいれば、出せない人もいる。
人は他人の気持ちを100%理解する事は出来ない。
それでも、理解したいと思い、わかろうとしてくれる人がいれば、救われる。
幼い小学生の時に、自分の思いを表現できないまま、「誰もわかってくれない」と、心を閉ざし、一人で抱え込んでしまったのか。
それでも、今、満たされていれば、「そんな時もあった」と一つの思い出として話す事も出来たのかもしれないが、思い通りにいかずにもがいている自分の中で「あの時わかってくれていれば」という思いが、抑え切れなくなって爆発してしまったのだろうか。
人間の生命を奪ってしまう・・・決してやってはならない事を犯してしまった少年の人生は、今、終わったわけではない。
これから、どう自分の心を見つめ直し、自分の犯してしまった罪を償いながら、生きていくのであろうか・・・


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