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ある身の上相談

2004年05月27日(木)


 Y新聞の朝刊に載っている身の上相談。
 定年を迎えた男性からの相談で、奥さんは看護師さんとして、定年までにあと1年ある。
 その男性、定年してから、ゴルフを覚え、今までの仕事を通しての友達以外に、新しい友人も
 増えて、今が一番楽しいと言う。
 これから、夫婦2人生活していくのに困らないほどの蓄えもあるし、自分達のお葬式代も
 ちゃんと貯金してある。
 年金の殆どをゴルフ関係に使い、誘われれば、その友人達(ゴルフ抜きでも)とも旅行をする。
 元来、料理が苦手で、定年を機に少しはしてみようと思っていたが、そちらは奥さん任せ。
 奥さんは、自分が仕事を辞めるまで、ご主人がゴルフをするのは一向に構わないと言っている。
 ・・・が、実の妹さんが遊びに来た時に、そんな男性の様子を見て、ゴルフを少し控えて、
 料理をするべきであり、ゴルフをしない旅行も控えるべきだと怒られた。
 その男性は、妹さんの言うとおり、今の自分の生活を改めるべきか・・・という相談。

 回答曰く
 こういう相談をしてくるという事は、自分の中でも今の生活に疑問をもっているのだろうし、
 何もゴルフや旅行を全て辞めろとは言わないが、これを機会に妹さんの助言に従った方が
 良いという。
 
 その回答を読んで、疑問に思った。
 この男性、今が一番楽しいと書いてある。
 奥さんもご自分が退職するまでの1年、ご主人がゴルフをしたり、友人達と旅行に行ったりする
 生活を続けていいと言っている。
 ならば、それでいいじゃない?
 第3者がとやかく言うことはないだろう。
 奥さんが退職したあと、一緒にゴルフ仲間に加わるも良し、一緒に旅行するも良し、苦手なお料理を
 奥さんが教えてあげるもいいのではないか?

 勿論、奥さんが働いているのだから、彼女が仕事で疲れた時には、お料理だけでなく
 家事を手伝う方がいいに決まっているけれど・・・

 世の中、定年退職した後、自分のやりたい事が見つからずに、愚図愚図している男性よりも
 よっぽどいいと思うのだが。。。


 


小泉総理再訪朝

2004年05月25日(火)


 確かに小泉総理は、10人の拉致被害者の安否未確認者について新しい情報を持ち帰る事は
 出来なかった。
 曽我さんのご家族が来日出来なかった。
 その上、人道支援として25万tの食料と1000万ドル相当の医療品援助を約束をしてきた。

 「拉致被害者家族連絡会」が、期待が大きかっただけに、落胆して、怒るのはわからないでもない。
 でも、「最悪の結果」「子供の使い」「行かない方がよかった」って言うのは、言いすぎだろう。

 私は、先ず、小泉首相が訪朝したからこそ、地村さん・蓮池さんのお子さん達が日本でご両親と
 一緒に暮らせるようになったと思っている。
 それに、安否不明者の10人についても北朝鮮側は、「解決済み」と言っていたのを、金正日自らが
 白紙に戻して再調査を行うことを約束したのも小泉総理が再訪朝した成果だと思う。

 曽我さんのご家族が、他のご家族と同じ飛行機に乗れなかったのは、アメリカがジェンキンズ氏を
 脱走の罪で訴追する姿勢を崩さずにいる今の段階では、仕方のない事。
 総理自ら「I guarantee」と彼を説得する前に、アメリカに「特別な配慮」を認めさせるほうが先だし、
 アメリカはイラクでも残酷な行いを繰り返し、ここでも一組の家族を引き離そうとしている。

 人道支援として25万tの食料と1000万ドル相当の医療品援助・・・これが本当に北朝鮮の支援を
 必要としている人々のためになるのなら、悪い事ではない。
 勿論、どのような国際機関を通して支援し、援助物資がどのように使われているか 最後まで責任を
 もって確認するのが絶対不可欠な条件ではある。

 最初に書いたように「拉致被害者家族連絡会」が総理をある程度反発するのは、わからない
 でもないが、小泉総理だからこそ、歴代の総理が何も出来なかった事を、もっと多くの拉致被害者が
 いる韓国が出来なかった事をここまでやってこれた。
 他の政治家がこの結果を批判するのなら、自分がやってみろと言いたいし、自分達は何も出来な
 かった歴代総理の一部が小泉総理の再訪朝の結果を批判しているなどとは、もってのほかだ。

 拉致問題は、これで解決したわけではない。
 全く進展していなかった1年7ヶ月、小泉総理の再訪朝によって、風穴があいただけであり、
 重要なのはこれからである。
 
 
 
 

 
 
 

 


かあちゃん&大ママ

2004年05月24日(月)


 重い話題が続いたので、今日は軽めに・・・

 我が家の子供達、ツレの母を「かあちゃん」と呼び、私の母を「大ママ」と呼びます。
 上の娘が物心ついた時(今もだけど)、ツレは自分の母親の事を「かあちゃん」と呼んでいたので、
 週末、必ずといっていいほど、ツレの実家へ行っていた娘もその言葉の概念もわからず
 「かあちゃん」って呼ぶようになっていたの。
 これを聞いた私の母が
 「どうしたあちらが“かあちゃん”なのに、私が“おばあちゃま”って呼ばれなくてはいけないの。
 私の方が若いのに・・・」と猛反発。
 それで、母が考え抜いて出てきたのが「大ママ」
 娘に自分の事を「大ママ」と呼ぶように、言い聞かせて、見事に成功!

 さて、その娘が幼稚園に入園した当時の出来事。
 相変わらず、ツレは週末はテニスに行くために、昼間の殆どを実家で過ごし、・・・これは、半単身
 赴任の7年間を含め、義母が亡くなるまで変わらなかったけど・・・娘もそれに同行する事が多かっ
 たのだけど、幼稚園で土曜日のお帰りの時間に、娘は先生に
 「これから、かあちゃんのところに遊びに行くの」って言っていたらしい。
 普通に考えれば、かあちゃん=母親。
 先生は、私たち夫婦が別居していて、週末だけ娘が私の所へ遊びに来るって思い込んだらしい。
 でも、夫婦間の事情だけに、その事を私には聞きにくい・・・
 バス通学だから、私も直接幼稚園には顔を出してなかったしね。
 只、幼稚園のバス停には、当然、毎日私が送り迎えしていたから、先生達は「???」。
 夏休み前の保護者会の帰り、先生が私を呼びとめ意を決したように
 「○○ちゃん(娘の名前)、土曜日になるとかあちゃんのところへ遊びに行くって言うのですが・・・」
 って、切り出した。
 最初、先生の言っている意味がわからなかったけど、その意味がわかった時に、私は大爆笑。
 訝しげに私を見る先生に事情を説明して、二人で大爆笑!
 私は家に帰って、娘に外では義母の事を「かあちゃん」とは呼ばないように、教え込みました。
 
 さて、その「かあちゃん」・・・ある時まで「教育ばあちゃん」でした。
 実際ツレが大学受験終わるまで、家にテレビがなかったっていうのだから、若い頃から「教育
 かあちゃん」だったの。
 娘が幼稚園入る前から、平仮名と数字、足し算&引き算をを覚えさせようと躍起になっていた
 みたい。
 マ、字の書いてある積み木とかおはじきを使って・・・だけど。
 ところが、娘は数字を数える事以外は、全く興味を示さなかったし、週末しかいかないから、全く
 成果なし。
 私は、義母に、平日も教えるように言われたけど、そんなに焦らなくても時期がくれば、ちゃんと
 わかるようになるっていう感じだったから、全く無視。
 ツレの従姉妹にも同い年の子がいて、そちらは覚えが早かったから、聞いていて焦っていたの
 かもね。

 幼稚園に入園して・・・私が思っていた通り、娘はあっという間に、平仮名もカタカナも書けるように
 なったの。
 幼稚園で先生が教えてくれたのは、自分の名前の平仮名とカタカナだけだったんだって。
 それが、お友達同士で、教えあうようになって、他の字も覚えたんだよね。
 義母は、かなりショックだったらしいよ。
 自分があんなに一生懸命教えようとして、全くダメだったのがあっという間だからね。
 だから、言ったでしょう。
 「時期がくれば、ちゃんとわかるようになります!」ってね。
 (実際口に出しては言わなかったけど・・・)

 

 


突然の訃報

2004年05月18日(火)


 今日の午後、子供達の卒業した小学校を通じて知らされたH先生の訃報。

 H先生は、子供達の在学中の教頭先生だった。
 子供達にとっては、朝会でのお話が面白く、教頭でありながら、高学年の「算数」を担当されていた。
 今年の春休みに、上の娘の同窓会で
 「H先生の算数の授業のおかげで、算数がわかるようになった」と話題になったという話を娘から
 聞いたばかりだった。
 H先生が現職中は、教頭と一般PTAだった私の接点はたった一回。
 娘が小4の横浜社会見学の日、娘は体調を崩していて、食事が出来なかったため、午後の見学は
 無理だったので、午前中最後の見学場所であった神奈川県警へ私が迎えに行った時だけだった。
 予定より見学時間が延びて、手持ち無沙汰に待っていた私に話し掛けて下さったのがH先生だった。
 教頭先生と話すなど機会のなかった私は、ドギマギしながら、楽しいお話に耳を傾けたのを
 覚えている。

 その後、OB会の役員になった私は、名誉会員のH先生と再び巡りあった。
 その時の話をすると、H先生も覚えていて下さり、
 「普通だと休ませるのに、せめて午前中だけでも参加させてやろうという親御さんの気持ちが
 嬉しかった」と言って下さった。
 私のOB会での立場もよく理解して下さり、お目にかかる度に何時も励まされた。

 H先生は、退職後、体調を崩され、高血圧症に加えて、心臓に爆弾を抱えていらした。
 それでも、子供達とかかわって生きていきたいと、中・小学校の学校カウンセラーとして、
 登校拒否児・虐め・虐められっ子をはじめとする心に痛みを持っている子供達と真剣に
 向かい合う日々を過ごされていた。
 お目にかかる度に、H先生の体調を心配する私に、「まだ動けるから大丈夫だよ」と笑顔を見せて
 下さっていた。

 最後にお目にかかったのは、昨年秋の小学校の子供まつりに、OB会として初参加をした時に
 なってしまった。
 その時も何時もと変わらぬ笑顔だったが、既に「癌」が先生の身体を蝕んでいたのだった。


 今、手元に今年の年賀状がある。
 「OB会のお世話、何時も色々とありがとう。
  ○○小学校卒業の娘さん、今年成人式ですね。おめでとう!
  月日がたつのは、早いものです。 
  また、OB会の総会でおめにかかり、楽しい話が出来るのを楽しみにしています。」
  OB会の日時も決まり、週末にH先生にも案内を出したばかりだった。
  何時ものように出席に○をつけた返信葉書きが届くものと信じて疑わなかった。
  
  人と人の別れは、何時突然訪れるかわからない。
  だからこそ、逢いたい人には、逢っておきたい・・・

  

H先生 享年70歳 合掌
  
 
  


一通のメール

2004年05月17日(月)


 今年のお正月に届いた年賀状の中に、ご主人様の転勤で某地方に住んでいる筈の友達の
 Nさんから住所変更を知らせる通知があった。
 お正月の挨拶とともに、たった一行「戻ってきました」と添えてあった。
 一人娘のAちゃんが、今年は高3になる。
 この時期のしかも学期途中での転校、サラリーマンは大変だナァ〜、と思っていた。

 それが、昨日彼女から長いメールが届いた。
 ご主人様は、まだ1人某地方に残っていて、彼女とA子ちゃんだけが、戻ってきて、ご主人の
 実家に住んでいるとの事。
 理由は、A子ちゃんの引きこもり+家庭内暴力。

 N子さんと私は大学時代の友人。
 A子ちゃんは、我が家の子供達と一つ違いだが、元々そんなに行き来があったわけではない。
 だから、小学校時代のA子ちゃんしか知らない。
 A子ちゃんは、生まれつき舌に病気を持っていて、そのために言語障害がある子だった。
 でも、小学校低学年の時に、リハビリに通い、言われなければ気がつかないところまで、
 克復したのだった。
 確かに、低学年の時には、その事を理由に虐めにもあったけれど、何時も笑顔を絶やさない、
 頑張り屋さんだった。
 Nさん自身も、A子ちゃんが高学年になると介護ヘルパーの資格を取って、実際にお仕事にもつき
 お年寄りや身体の不自由な方のお手伝いをして、頑張っていた。
 A子ちゃんは、一人っ子だから、時には寂しい想いもしたのだろうけど、お母さんの応援団でも
 あった。

 それが、中2の時に、突然お引越し。
 新しい土地に、新しい学校にA子ちゃんは慣れずに、中3は、登校拒否になり、殆ど学校へは
 行けなかったという。
 傷ついたA子ちゃんの心を更に追い詰める事になったしまったのは、大人たちの対応の悪さ
 だった。
 A子ちゃんの生まれつきの病気による少しの言語障害に気がついた級友たちから虐めが
 あったのに、それを認めようとせず、A子ちゃんの心の弱さを指摘した担任教師。
 自分達が新しい環境に慣れるのに必死で、A子ちゃんが追い込まれていた事に気がつかなかった
 親達。
 A子ちゃんは、親にも不信感を持ってしまった。
 
 それでも、A子ちゃんは、心療内科に通いながら、単位制の高校に入学し、多少の笑顔も取り戻し
 つつあったという。
 それが、何がきっかけになったかわからないけれど、ある日突然Aちゃんの家庭内暴力が
 はじまった。
 
 昼間は親子2人だけの生活。
 何時A子ちゃんの発作のような暴力が始まるかとビクビクしながらの生活。
 Nさん自身も耐えられなくなってきたし、A子ちゃんのためにも環境を変えるのもいいのではないか、
 何といっても、A子ちゃんにとっては、生まれ育った故郷でもあるし、と、ご夫婦で何度も話し合って
 母娘でこちらに戻ってきた。

 確かにA子ちゃんは、少しずつ落ち着き、まだ外へは出る事が出来ないけれど、小学校時代のお友
 達が訪ねてくると会うようになってきたそうだ。
 でも・・・今度は、母親である彼女が参っているようである。
 やはり、ご主人がいないところでの嫁と姑の同居には、無理があったのだろう。

 今までの経緯が延々と語られているメールだった。
 メールを貰った以上、読んだ以上、何かレスしなくてはならない。
 しかし、ガラス細工のような彼女に、何と声をかければいいのか・・・
 
  


銀行で

2004年05月11日(火)


 今日自動車税を振り込みに銀行へ行った時の出来事。
 番号札を受け取り、本を読みながら順番を待っていたら、かなり興奮した男の人の怒鳴り声。
 目の前のカウンターで、背の高い外人さんが、行員さんに英語をまくし立てていた。
 残念ながら、私には、それが「英語」・・という事しかわからず、何故怒っていたのかは不明だが、
 カウンターの女性が外人さんに説明しているのを聞いていると、銀行側の手違いか外人さんの
 ミスかわからないけれど振込みがうまくいかなかったらしい。
 只カウンターの女性は、その事を日本語で説明しているけれど、外人さんは日本語が出来ずに、
 英語でまくしたてるばかり。
 女性は「just a moment」と言って一度奥に入った。
 誰か英語の出来る人を連れて来るかな?と思っていたら、結局一人で戻ってきて、同じ事を日本語
 で説明。
 外人さんが納得するわけがない。
 それ迄カウンターでの様子をチラチラみていたロビーサービス担当の女性が、窓口に近寄って
 きて、行員さんから事情を聞いて、流暢な英語で今の状況を、説明。
 なーんだ。こんなに英語が話せるならさっさと説明に出てくればよかったのに〜。
 外人さんが言うのには、数日前に銀行側に来た時に、要求をされた書類を揃えてきたのに、何故
 こんなに待たされるのか・・・
 尤も私の拙い英語力だから、正しいかどうかは不明。
 結局、外人さんの振込みを完了させるのには、一箇所何処かに確認をしなくてはいけない
 という事になり、外人さん不承不承ながら、席に戻った。
 カウンターの女性、その場で何処かへ問い合わせの電話。
 どうやら、相手からの回答待ちになったみたい。
 電話が終わると、例の英語力抜群の女性を手招きで呼んで説明。
 当然、その女性が外人さんに、「相手の回答待ちだからもう暫く待って欲しい」って説明するのかと
 思っていたけど、彼女だけ納得しちゃって、外人さんには何も言わずに、本来の仕事に戻っ
 ちゃった。
 「アララ・・・」って感じ。
 私だったら、同じ待たされるにしてもどういう状況になっているか、わかっていた方が
 いいと思うのだけど。
 今まで外人さん相手で止まっていたそのカウンターは、相手からの回答待ちになって
 当然の事ながら、次のお客さんを呼び始めた。


 ・・・で、次に呼ばれたっていうのが、私だったの。
 単なる自動車税の振込みだから、あっという間に終わって、外人さんと目が合ったけど、
 眼光鋭い目で睨まれました。
 私のせいじゃないよ〜!
 外人さんにしてみれば、自分がまだ終わってないのに、次の人が呼ばれたのだから、不本意
 だよね。
 自分の事はどうなちゃったんだって思うよね。
 まして、全く日本語がわからないのだから。
 ちょっとした心遣い(?)だと思うのだけど・・・
 あの外人さんの怒りが再燃する前に、回答の電話があるといいなぁ〜。
 と、思いながら、外人さんには会釈をして銀行を後にしました。

 でもねぇ〜
 ここは日本だぁ〜、日本語を喋れ!・・……(−。−) ボソッ

 
 
 
 

 
 


遅ればせながら・・・オフ会記

2004年05月10日(月)


 オフ会があったのが4月24日。
 相変わらず、作業が遅くて、2週間以上もたってしまいました。

 日頃は上海暮らしのさっちゃんが、日本に帰国しているというので「会いたいね」という
 話から始まった今回のオフ会。
 言い出しっぺだから、幹事になったけど、オフ会参加回数は多くても幹事は初めて。
 こんな私が幹事でも大丈夫なのかなぁ〜。
 
 先ずは、名古屋からオフ会のために上京するhideさんを品川駅までお出迎え。
 勿論、HPに載っている写真でしか見た事ないhideさんだったけど、アイコンそっくりだったので、
 直ぐにわかりました。
 降りてきたhideさんと、握手。
 いやぁ〜息子以外、異性の人と握手したのなんか何年ぶりだろう(*^^*)
 予約したレストランと同じビルに喫茶店があるので、皆と約束の時間まで其処でお茶する事にして、
 Let's go!
 約束の時間より1時間ぐらい前の5時少し前に到着!
 実のところ、最近あんまり乗ってない山手線だっただけに、ヒヤヒヤものだったのです。
 何しろ、高田馬場まで司法書士の学校に通っている頃は、帰りにしょっちゅう反対方向に乗って
 いたからね(;^_^A

 さて、お次は、3時間もかけて参加してくれるかりんちゃん。
 当初5時半頃着く予定だったけど、当日の午前中に、もっと早く東京に着いている、との
 メールを受信。
 それだったら、hideさんと5時頃からお茶しているからとお誘いしたら、「わーい」との返事(笑)。
 mokkoちゃんもかりんちゃんに合わせて5時半にっていう約束になっていたので連絡しました。

 hideさんと喫茶店の入ると直ぐに先にmokkoちゃんから「着いたよ!」とのメール。
 とりあえず、私は、注文だけして、東京に着いたばかりのhideさんを一人喫茶店に残して、私は、
 駅にUターン。
 さーて、mokkoちゃんの顔は知らない…知っているのは、背が高いっていう事ぐらい。
 駅に着いて、携帯で電話してみると、私の目の前の女性が、携帯を受信したみたい。
 その女性…スタイルは、モデルさん並みに抜群で、オメメぱっちりの美人さん。
 mokkoちゃんかな?と思いつつ、携帯で
 「mokkoちゃん、髪の毛長い?今日の服装は〜?」
 大当たり!でした(笑)

 mokkoちゃんを連れて、hideさんが待つ喫茶店に到着する寸前、今度はかりんちゃんから携帯に
 「もうすぐ駅に着くよ〜」と受信。
 とりあえず、喫茶店に入って、ご挨拶。
 ・・・で、再度迎えに行こうとする私にmokkoちゃんが、代わりに迎えに行くって言ってくれたの。
 いやぁ〜助かりました。
 駅からビルまで近いのだけど、歩道橋を2つ越えなければならない。
 つまり・・・一往復するのに、4つの歩道橋・・・
 同年代の女性の中では、足腰が強いとは思っていたけど、ちょっと疲れ気味(;^_^A
 mokkoちゃんのお言葉に甘えて、かりんちゃんのお迎えは、心優しいmokkoちゃんに
 お願いしました。
 
 かりんちゃんが到着して、4人は談笑。
 皆会う前は、人見知りだの無口だの言っていたけど、最初から打ち解けて、予約の時間まで
 ずーとお喋り。
 ちゃんと時間を気にしていてくれた、hideさんに急かされて、場所の移動。
  
 予約しておいたレストランに着いたけど、今度はさっちゃんから「少し遅れます」とのメール。
 という事で、各々お好みの飲み放題を追加注文して(ビール+ワイン・ワイン・ビール・
 ソフトドリンク)、4人で1回目の乾杯!
 喫茶店での盛り上がりは、その後も続きます。
 かりんちゃんはネ、眼鏡の似合うのっぽさん・・・っていうより私が小さいんだけど(;^_^A
 かりんちゃんと並んでいると、私は椅子に座っている感じらしいよ(かりんちゃん談)
 実は、かりんちゃん、お酒飲めないんだよネェ〜。
 それでもあのノリ・・・(笑)
 そして、夜景やら何やらを撮っては、ちゃんと旦那様にメールでご報告、ラブラブだねぇ。

 mokkoちゃん、幽霊の優ちゃんとは一緒じゃなかったけど、相変わらず、霊が見えるらしいよ。
 あ、あんまり私の裏は見ないように・・・な〜んちゃって、裏も表もないけどね。
 ご本人曰く、この日は、歯痛で食べられず、お酒もあまり飲めずだった、という事だけど、
 充分飲んでいたような・・・(笑)。
 尤も、私も少し、抑え目だったから、今度是非一緒に飲みに行きたいもので〜す。
 
 さっちゃんが、登場したところで、再度乾杯!
 さっちゃん、いやぁ〜若くて可愛くて・・・お酒を呑むと楽しくて・・・
 hideさんなんか最初から最後までずーと見惚れてましたよ〜
 hideさんファンクラブの会長としては・・・ρ(。。)イヂイヂ
 こんなに、可愛いのに、何故か写真嫌いみたい。
 写真を撮ろうとすると「ダメ〜」って、逃げまくって・・・
 そんなわけで・・・皆さんに、お見せ出来なくて残念無念。

 hideさんは、皆曰く「アイコンにそっくり!」だそうです。
 う〜ん、アイコンより渋めの落ち着いた大人の男性って感じかなぁ(笑)
 頼りになりそう・・・っていうか、既に頼りにしているんだけど(笑)
 そして、女性ばかりのオフ会に、参加してくれた事に敬意を表します。
 ン?もしかして、だから、参加したのかも・・・(笑)

 かりんちゃんは、最終の高速バスに乗れないと、大変な事になっちゃう。
 皆より一足先に、お帰りの時間になり、渋谷駅までmokkoちゃんとさっちゃんが
 送っていてくれました。
 何しろ、幹事の腰が重たいから・・・
 かりんちゃんが帰った後も盛り上がった雰囲気はそのまま・・・。

 でも、何事にも終わりがあるのよね。
 「時間が止まればいい」と思っても、時間は皆平等に流れている。
 そして、特に楽しい時は、時間の流れが早く感じてしまう。

 時間が短すぎて、あれもしたかった、これもしたかったという想い。
 2週間も過ぎているのに、まだその余韻に浸ったまんまでーす。
 

          


日本語

2004年05月06日(木)


 子供の頃、祖母から「ご苦労さま」と言う言葉は、目上の人に対して使っては、失礼になるので、
 「お疲れさま」という言葉を使うように教えて貰った覚えがある。
 多分、その時に理由も教えてくれたのだろうけど、それはすっかり忘れてしまった。
 只、自分より明らかに年下の人に「ご苦労さま」と言われると不愉快に感じ、私自身は、
 誰に対しても「お疲れさま」と言うようにしてきた。
 しかし、最近、若い人たちに「ご苦労さま」と言われる回数が増えて、私が反対に記憶してしまった
 のかと自信を失っていた。

 何故こんな話を突然するかというと、某新聞に掲載されている「日本語の現場」の番外編として
 「ご苦労さま」について載っていたからである。

 以下、新聞の引用。
 「ご苦労さま」は、「ご苦労であった」から転じた言い回しで、主君が家来をねぎらう言葉だったと
 言われている。
 ただ、「かつては目上にも自然に使われていたのではないか」と考える研究者もいる。 
 旧日本軍では、上官に対して「ご苦労さまです」という挨拶を用いており、自衛隊の部隊や 
 救急隊なので、この伝統を受け継いでいる地域もある。が、この言い回しが使えるのは公的な
 仕事に関してだけ。
 私的なことに骨を折ってくれた上官に「ご苦労さまです」といえば、失礼に当たる。


 私の記憶は間違っていなかった。

 ところが、この事に関して、ネットで調べてみたら、「お疲れさま」も目上には使っては
 いけない、という説も出てきた。
 現に、そのように上司から教わったという人も多い。
 「ご苦労さま」「お疲れさま」のようなねぎらいの言葉は、基本的には目上の人には使わない
 そうだ。
 但し「お疲れさま」は、「お疲れさま“でした”」だったら良いという人もいる。
 
 だったら、代わりに何というか?
 「ありがとうございました」だそうだ。
 確かに「ありがとうございました」は、日本語で一番美しい言葉と言った人がいたけれど、
 それも状況に応じて変な時があるように思う。

 例えば、私は結婚前法律事務所に勤めていたが、毎日のように弁護士は外出する。
 その弁護士が「ただいま」と事務所に戻ってきた時に
 「お帰りなさい(ませ)。ありがとうございました。」ではなく、やっぱり「お疲れ様でした」
 が、適当だと思う。

 では、出かける時はどうか?
 これは、某サイトで問いかけがあった。
 「行ってきます」と言って出かける上司に何と行ったらよいか?
 これから疲れる事をしに行くのであって、まだ終わっていないのでから、「お疲れ様です」と言うのは
 変ではないか?
 この様な場面に限っては相手が上司であっても「ご苦労様です」でよいのではないか?
 というものである。
 上記の新聞記事に寄れば、公的な仕事なのだから、「ご苦労さまです」でも良いような気がするが、
 それでも上司によっては、「失礼だ」と感じる人もいるかもしれない。
 私は「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」と言っていたけど・・・。

 それにしても、日本語って難しい。
 
 

 
 
 
 


麻原三女の大学入学拒否問題

2004年05月02日(日)


 オウム真理教の麻原の三女は2月6日に文教大学人間科学部臨床心理学科の入学試験に合格
 した。
 しかし、今年3月に三女が和光大学から合格を取り消されたとの報道をきっかけに、文教大でも
 合格者名簿をチェックしたところ、人間科学部臨床心理学科の合格者に三女が含まれていることが
 判明。
 同学部の教授会は同月24日、「学生や地域住民への配慮」を理由に、入学許可を取り消し、
 三女に文書で通知した。(本人からの事情は聞いていない)
 同月31日、東京地裁に地位保全の仮処分を申し立て、同地裁が4月28日、「入学取り消しを認め
 る特別の事情や正当な理由があるとは考えられない」として、申し立てを認めた。 
 三女は、大学に入学の意思を伝えているといい、大学側は対応を協議している。

 確かに、三女はアーチャリーと呼ばれ、麻原の後継者と目され、教団の中では特別な地位にあり、
 我侭放題に育てられた時期もあった。
 そして、今、社会の責任ばかりを言い募る”支援者”に守られ、自宅に籠もっているのならば、
 松本家の子どもたちと教団には、強い関わりが疑われても仕方がない。
 また、麻原の妻でもあった母親は、裁判で「遺産はすべて被害者に渡した」として、刑期を
 短縮してもらっている。
 ならば、私立大に行かせるほどの金銭は、何処から出ているのか?
 財政面から教団との関わりについて疑問が湧くのは、当然だろう。
 だから、大学側の不安もわからない事はない。
 
 しかし、麻原の娘として生まれた不幸は、彼女の責任ではない。
 なのに、大学に進学する事によって、幅広い価値観や知識を学ぼうとしても拒絶され、教団外の
 人々と交わる機会を奪われるという事が、許されるのであろうか?

 今回の地裁の三女の学生としての地位を認める仮処分決定に対して、文教大学長は
 「本人の履歴から本学の建学の精神に相応しくないと判断した」と、述べている。
 
 「学生や地域住民への配慮」とか「本人の履歴から本学の建学の精神に相応しくない」という
 裏には、面倒な事には巻き込まれたくない、煩わされたくないといった気持ちがあった
 のではないだろうか。

 しかし、文教大学の教育理念は「人間愛」である。
 文教大学のHPには、
 「学生と教職員との人間的なふれあいを大事にしながら、豊かな人間形成をめざしています。
 そして学生ひとりひとりが自己実現の道を求めながら、同時に他者の身になって、すべての人を
 尊重し、世界に向かって開かれていくことを基本としています。」
 という、立派な学長のメッセージが掲載されている。
 そして、教育方針として
 「どのような領域に進むにせよ、学習や生活の根底には、人間を人間として大切にする気持、
 すべての人に対する温かい思いやりが大切です。(中略)
 他者の立場に立って、どのような人も「かけがえのない人間」として尊重することをモットーと
 します。」と掲げているのである。
 
 麻原の三女もこの「かけがえのない人間」の一人ではないだろうか。
 「学生や地域住民」ばかりが他者ではない筈である。
 彼女の麻原の娘として生まれた不幸を「他者の身になって」考える事ができないのであろうか。
 大学の教育方針通り、彼女が大学生活を通して「豊かな人間形成」される事を願う。

 それにしても、他の大学も和光大学から合格を取り消されたとの報道をきっかけに合格者名簿を
 チェックしたのだろうか。。。。


 




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