kaorinのしょーじき日記
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2006年04月21日(金) 退院しました

医学の進歩にびっくりの日々でした。

退院の帰りに主人と二人松本城の桜をドライブしつつ花見しました。二人きりで出かけられるのはいったいいつになるでしょう。

夕飯もふたりきりでもう涙が出るくらいうれしかったです。

今日は雪が降る木曽、寒い真冬の温度にまいりました。

入院の日々はまた書きます。

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の下記アドレスに出品した写真が載りました。
よかったらご覧ください。


My life is my family



昨年聡志を出産した後の私です。太っています。まさか今年の4/12に子宮摘出で入院になるとは思ってませんでした。本当に生きていられたこと・・聡志を出産できたことは私の人生にとって武士にとっても主人にとってもよかったです。

My life is my birthdaycake



今年の誕生日・・京都のてすこさんに焼いてもらった抹茶シフォンケーキを長男とデコレーションしたものです。当時筋肉がおちて食べるものを体が受け付けずにとてもひどい状態でしたので彼女のケーキが本当に滋養があっておいしくいただけたこと・・今でも涙がでる思い出です。ありがとうございます。。

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今のところパソコンに向かう時間がとれないため不定期の更新になりそうです。やはり病人だったはらかおりでした。



2006年04月20日(木) 自分の携帯から

初めて自分のホームページみました。

携帯で更新ができるかお試しします。後は家でやってみます。(^-^)/


2006年04月09日(日) いちにち寝てました

一昨日くらいから気が遠くなるめまいがあったので20060409は一日寝ていました。私は母の相手が難しいので(母が苦手なんです)薬を飲んで横になっていました。

主人と息子たちには申し訳ないなあと思ったのですがとても起きていられない状態でした。

母は母なりのやり方でひとりで家事をすることが一番いいみたいです。だから私は半日に一度の割合で話をしてあとはひたすら横になっていました。

2日間で体重が減りました。食欲もないです。

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実の妹から昨日の夜電話があって”あんたには同居は無理よ”と言われました。私も同感です。

もし同居できるくらいなら18才で大学に出てそのまま死にたくなるくらいの結婚生活を維持しつつ諏訪にいることはなかったでしょう。離婚後さっさと茨城に帰ることは私の頭にはまったくなかったくらい母が苦手です。私を産んでいただいたことは感謝しますが母は私にとっては鬼門です。

しょーじき耳栓がないといられないです。

そんなことを思うと昨年まで同居生活をしていた妹夫婦(現在香港在住)の忍耐力と同居のために新居をかまえたことはとてもすごいことだと思います。いまだに私は妹のふところの深さが理解できずにいます。

同じ親からうまれてどうしてこうも違うのか。まったくの謎です。

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主人は次男を保育園(未満児保育)に入れて小学2年生になる武士と私の手術期間をのりきるようにしたいとのことでした。

でもなぜか私が思ったことは息子たちに祖父母と暮らす機会を与えてあげたかったこと、ここで両親に来てもらうことで自分の中のなにかを乗り越えることができるかもしれないということでした。

そんなことで茨城からわざわざ両親に来てもらいました。まったくわがままで自分勝手な娘です。

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明日一日なんとかやりすごせば病院です。でも痛いのはいやだなあ。逃げ出したいなあといまだに思っている私です。

痛いのがいいなんてマゾでしかないですよね。。

自分一人なら病院へ行かずひとりでひっそり死んでしまいたいくらい病院が嫌いです。でもそういうわけにもいきません。息子がふたりと愛しい夫のためにも。

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今日は長男が3年ほどかかって貯めていたお小遣いで私たち(私と主人と私の両親)にジュースを買ってくれました。ここ2日間で長男は貯めていた千円をジュースやがちゃがちゃをやるためにほとんどつかってしまいました。

長男はただただほめて欲しかったのかもしれません。私は長男におかねの数え方を教えてお小遣い帳をつけさせようとしていたところでした。

もちろん私と主人は”お金は使うとなくなっちゃうよ”と諭しましたが長男の心は傷ついたようです。長男は泣いていました。夕方までにお金の数え方とお小遣い帳の付け方を教えました。

お金は使い方によって価値がかわるということを学んでほしいところです。まだ小学2年生にはハードでしょうけれど。

ここ数年で義務教育も大きく変わる分岐点にあります。自分で生き抜くすべを身につけないと息子たちの将来もあやういと思います。

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さて明日は起きなくちゃなあ。。



2006年04月08日(土) 人生最後の痛み

に耐えています。生理痛。。なぜか陣痛のように痛い。固まりの出血があって七転八倒しております。

親戚まわりは昨日の1件だけで私は今日は自宅残留。とても1時間かけて塩尻に行ける状態ではありませんでした。

主人と息子たちと私の両親には申し訳ないといいつつ横になって痛みに耐えていました。

これも人生最後の生理痛だとおもって鎮痛剤のみません。痛い。痛いよ。。

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でもかんがえてみれば10才で初潮が来て以来、デリケートで受験の時は生理が1年ないことが2回(高校受験と大学受験のとき)。

それ以外は38日から40日周期でのんびりやってきては痛いという生理くんでした。

出産後は32日周期になったけれど痛みはひくことはありません。

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簡単にものごとを考えて一番成功する方法・・というとやはり今回の開腹手術が一番いいと思っています。あとは運命です。

きっと簡単には死ねないと思うから。

父の母と大叔母と母方のふたりの叔父と母の父の死で得たのは簡単に死ねないと言う事実です。心筋梗塞であっという間でない以外は長患いになること必至です。病院に入るということはそういうことです。

でも放っておくと痛いので今回は病院に賭けます。

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明日・明後日の朝に書いてしばらくお休みします。


2006年04月07日(金) 今日中に

今日中にしたいことが山づみですが・・もう23:51。。

珍しく起きています。

なんとか今日は読書日記をまとめました。

本はもっと読んでいますが書ききれない。

時間がもっと欲しいです。

でも眠らないとまずよな。

そろそろ寝よう。明日のためにも。

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親子って微妙です。私はかなり親に甘えていたし、家をでて下宿するまでは家事も掃除も洗濯も料理さえもしませんでした。

いるとやってもらうことが普通になってしまうのです。洗濯などは特に私は苦手ですが母は得意分野です。

汚いことが大嫌いなのでもうすごいです。痛いひざをかばいつつ動いている母をなだめたり、喧嘩したりで疲れました。20年一緒にいないことは大きいです。でも今彼らがいないと私は手術を受けることができません。

仲良くなるために私の奥の手は・・マッサージです。母はひざが悪いので背中と腰をマッサージしました。

もちろん作戦成功です。

いていただかないと困ります。今手術しないとだめって思うから。。

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聡志も武士も私の両親になれてうはうはです。武士は難しい面もありますがなんとかなるでしょう。彼は世渡り上手です。私は時々泣けるくらいいいこといいます。

でも口をつねりたくなるくらいひどいことも。それは私の子どもだからしょうがないです。

真実は時として残酷です。しかも痛い。


2006年04月06日(木) 母の誕生日

今日茨城の両親が来ました。
母の誕生日です。

嵐のような時間がすぎて
もう今日は・・7日です。

入院まであと3日です。

日記は入院中はお休みします。

適当にmixiに携帯から
様子をupしておいて後で
日記はまとめて書きます。


2006年04月05日(水) てんやわんや前日

どうも今日私の両親は茨城を出発し埼玉県の叔父の家にいるらしいです。

そして埼玉の叔父の家の修理の仕上げをしてから木曽に来る予定。

来るのかなあ、明日。


2006年04月04日(火) 春休み最終日

ようやく指の化膿がひいて指がつながってきました。。
思えば1ヶ月くらい傷の状態。

普通は医者に行くんですよ!by主人の言葉の通り行っていればよかったとしみじみしております。もし小指がなくなったらという恐怖心・・かなり精神的にも応えました。

まるでやくざみたいじゃないか。。なんて思ったり。

性格はやくざだからいいのかなんて納得してみたり。

でも音楽やパソコンをやるにおいて聴力とこの指と声は必須です。

息子の育児の間だけでも声をあげて歌うこと、かんたんな楽器で音をだしてあげること、息子たちの声に耳を傾けることが私の最重要の仕事です。

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春休みが最終日なので武士は一時間早く学童から帰って宿題の仕上げをしてました。もちろん文句多し。

でもさ・・普通は自分で勉強するのがあたりまえなんだという私の独自論で武士を説得してやってもらいました。というかやらせた。

勉強しない→楽しくて楽ちん→勉強がわからん→授業中ぼーっとしちゃう→さらに勉強がわからん→落ちこぼれる→本人のプライドもなくなる→粗暴になる→ニートの道へまっしぐら

短絡的にいうとそうなりそうなのです。だから国語が大事。わかっているんですよ。でも家族もいろいろあってみんながのんびりはしてません。

私は長男を自分の口は自分で養う人間としてしつけしています。いろいろ傷つくことの多かった長男ですがなんとか人間になりつつあります。

幼少時の心の傷なんてそれをのりこえなくちゃ人間やっていけません。これは自分も同じでしたのでそういえます。だから私は弱いの・・だれか助けて・・じゃ生きてはいけないのです。

過激にそういう母をもった長男は不憫かもしれませんが叱ってくれるうちが花でしょう。私は自分の体第一なのでこのエネルギーが手術後でるか不明です。

お互い鉄は熱いうちにうつということで。

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明日からは小学校開始です。さてどうなるか。


2006年04月02日(日) ようやく

指の腫れが引いてきています。夜な夜な膿をしぼって3週間。やはり医者へ早く行くべきという主人のアドバイスを聞けばよかったです。

あかちゃんのうんち、おしっこ、家事の間のつちいじり。家事にも危険がいっぱいです。

できる限りのことをしても裏目裏目にでていた数週間でした。気持ちもとても苦しかったし、体は微熱でくらくらしていました。でも母親としては横になっていられません。

昨日今日でいろんな問題が片付いてようやく少し元気になってきました。

入院の準備もほぼできました。

あとは両親のお布団を干したり簡単な作業でできる範囲のことをして入院と手術を待っています。

待つというので思い出すのが大学生だった1986年から1989年にかけて東京でみた第三舞台です。

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http://www.thirdstage.com/dsbt/step3.html
より下記引用。

1986年2月8日から「デジャ・ヴュ'86」を紀伊國屋ホール/近鉄小劇場で上演。初めて関西の劇場で公演。観客数が1万人を越える。
1986年6月5日から「スワンソングが聴こえる場所」を下北沢・本多劇場で上演。公演ポスターに「第三舞台結成5周年と1か月記念公演」とクレジットする。(同時期に劇団夢の遊眠社が「結成10周年記念公演」を上演中)
1986年12月4日から「ハッシャ・バイ」を池袋・サンシャイン劇場で上演。公演後、教師になった名越寿昭が劇団を離れる。入れ替わりに勝村政信が参加する。
 1987年7月22日から「朝日のような夕日をつれて'87」を東京・名古屋・大阪・札幌で上演。

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第三舞台と野田秀樹の夢の遊民社と落語と本を読むことが私の東京での4年間の学生生活でした。ちょうど同級生で第三舞台のおっかけをしているのがいたので彼女にいろんなことを教えてもらいました。

写真の取り方も彼女がおしえてくれたなあ。

あといろいろな場所へ行くこと。

欲しいものは自分の目で確認してきちんと代価を支払いことも。

整理整頓してものをかたづけることなんか・・全然できない私でした。いやはや世の中不思議です。今は二人の息子の母です。。





今はパソコン通信を経てインターネット世界となり海外で暮らす妹がいます。
不思議ですが


2006年04月01日(土) ここ数日

体力がかなり限界です。

主人は休んで良いよといってくれますが・・育児は24時間待ったなし。しかもあの聡志くんはいまスポンジ状態で武士や主人の行動や言葉を吸収しています。私は追いつくことよりそれを追いかけることで精一杯です。

今日は大桑村の図書室モモへ武士を連れていきました。とてもいい出会いになりました。

作りかけの書類にもかつがはいって名簿のメールが来れば提出ができます。

でもこの名簿のファイルがこない。。どうなっているのやら。


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