ディリー?闇鍋アラカルト
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2002年11月25日(月) 心の座

 心というのはどこにあるんだろう?
 現代では多くの人は心は脳にあると思っているのではないだろうか?脳の働きが心なのだと。けれども、その昔には心は心臓にあると考えられても居た。
 僕は自分自身の心を観察して、心は脳にあるとは思わなくなった。
 心は脳の働きでもあるのだけれど、脳だけの働きではないように思える。そして、体に対しても司令塔のようにあるのでなく、むしろ対等の関係に有るように思っている。

 心というのが何をさしているのかという事は結構無頓着に語られる事が多いのだけど、悲しいと感じているのが心だというような捉え方は多いと思う。怒りも喜びも心の働きと考えられよう。では、痛い・痒いはどうだろう?眠たい・食べたい・性交したいというのは?
 僕には勿論心の働きに含めて考えている。

 さて、では、性欲という心の働きに付いて考えてみよう。
 避妊手術をした犬や猫はマーキングなどの行動が少なくなる事が報告されているが、それは性欲が脳だけによって演出されていない事の証であるように思える。
 意識的な部分に「異性と近付いて性交せよ。」と囁きかけるのは、性器であるのかも知れない。だから、避妊手術で性器を取り去ると性欲が減退してしまうのだ。
 つまり、性器もまた、心の座の一部を成していると考えられないだろうか?


2002年11月21日(木) 楽器

 最近は殆ど練習しないけど、僕の部屋には電気ピアノとリコーダーがある。
 楽器が商売道具だった時もあった。元ミュージシャンだからね。

 ピアノは姉が弾いていたので、大学時代はバイエル60番くらいは弾けたけど、実際に練習しようと思ったのは20代の後半。下手なピアノ弾きを見て、これくらいだったら僕でも出来るなと思ったら、ほんとに下手なピアノ弾きになってしまった。
 それでも、「よく子供の頃からやってた訳でもないのにピアノで仕事出来るようになりましたね。」と言われたことも多い。実際僕は練習をはじめて2年でピアノの仕事を始めてしまった。僕のピアノの仕事場は酒場だった。
 ピアノを子供の頃から練習していた人でも酒場のピアノ弾きになれない人は沢山いる。それは教えられた事だけ練習しているから。
 音大ピアノ科卒でも、コードやリズムの勉強をしているとは限らないし、名月赤城山なんて知らない人は多いし、演歌のリズムやロック・スイング・ラテン・・・となると難しいというより慣れない人が多いと思う。それに移調読みも必要になるし・・・
 酒場のコンパニオンの中には子供の頃からピアノを練習していたという人たちも結構いたのだけど、僕がやっているようにはなかなか出来ない。でも、ベートーベンやショパンを弾けば僕よりうまい人は幾らでも居た。

 僕の場合は弾き語りだったから、歌の能力も必要だ。ピアノの下手な分は歌でカバーしていたような所があるな。単純にコードとリズムを覚えて、歌っていればそれで済む場合もある。お客様のリクエストにも答えなくちゃならないんだけど、僕の場合メロディとコードの初見演奏はまずまず出来たから、初めての曲でもそれなりに出来た。この辺は運動神経の問題かな?
 おとなになってから練習してもピアノって出来ますか?と聞かれる事があるけど、僕の返事は「ピアノで何をやりたいかなんだよね。」という事になる。名人になろうとか、金を取るようになりたいというなら難しいけど、自分で簡単な弾き語りを楽しむ程度なら簡単!一時間で「夢は夜開く」の弾き語りが出来ますよ。でも、こういう事を教えてくれる人はあんまり居ないと思う。
 子供にピアノを習わせて、ピアノ嫌いにさせちゃう事も多いけれど、ピアノも遊びのように扱えれば嫌いにはならないと思うよ。


2002年11月14日(木)

 うーん。大分サボってしまった。書くネタはあるんだけどね・・・

 最近免疫学関係の本を読んでいる。読んだ本は、安保徹さんの本・福田稔さんの本・西原克成さんの本。この辺の人たちにはノーベル賞を上げても良いのじゃないかと思えるほどだ。その点に付いてはいずれ書くことにして、安保さんの「未来免疫学(インターメディカル刊)の後書きが印象に残っている。

「尊敬するダーウィンが、南米のガラパゴス諸島に滞在していた時、父親に宛てて手紙を書いたという。
 それは、イギリスにいたときは一キロメートル歩くのに、道草を食いながら一時間もかかっていたが、ガラパゴスでは見るもの聞くものがあまりに面白すぎて、一歩たりとも歩けないという内容の手紙だった。
 彼の研究に対するこんな姿勢に、私は非常に感銘を受ける。自分の目で観察する事の大切さを、あらためて思い知らされる・・・。」

 僕と合羽橋まで歩いた人なら知っているはずだけど、僕は歩くのが速い。しかし、アロエやローズマリーやダチュラなど途中にあるものを良く見て歩いている。でも、ダーウィンみたいにしてたら、2次会が出来なくなっちゃうな。

 アメリカンインディアンの言葉で「私の前に美がある。後ろにも美がある。私は光の中を美に囲まれながら歩く」とかいうような言葉も思い出す。

 まごまごしている子供、グズグズしている子供・・・美を見ているのかも知れないなどと思う。

 もし時代が切羽詰ってないのなら、ダーウィンのような生き方も選んだのかも知れない。


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