バニラへの日々
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 2003年02月16日(日)   意味と強度 


 ある本を読んでいて,興味深い文章を見つけた.それは以下に示すようなもので,僕やあなたが人生や日常に対して漠然と抱いている気分をすくい取った表現かもしれない.

  (1) 「意味はないけど,そこそこ楽しい」
  (2) 「そこそこ楽しい.でも意味はない」

 あなたが自分の日常に対して抱いている気分はどちらだろうか? この2つの文章には一見大きな違いは存在しないように感じられるけれども,(1)が世の中に意味がないことを充分受け入れた上で日常を楽しんでいるのに対し,(2)は楽しさに十分シンクロできず,無意味さに耐えきれなくて絶望している感じがする.

 この2つの他にも例えば,自分の存在には(3)「意味はあるはず」だ,と考える立場がある.だけれども,僕らの人生や行動,出会いや目標といったものを含め,世の中のほとんどのことに実は大して意味がないというのは紛れもない事実で,今や多くの人に直感されていることだ.

 (3)の状態の人は,例えば自分を犠牲にして社会のために働いてみたり誰かのために生きてみたりしても,多くの場合期待はずれの結果を招き将来苦しいことになりそうだ.(2)の状態の人は一見日常を楽しんでいるように見えるが,実は内面は相当キツいことになっているはず.結局(1)の状態の人が歓びに満ちた幸せな人生を歩むのだと想像するね.だが幸せであっても,(3)の「意味」や「物語」を追求するロマンチシズムをまるで知らないまま生きていくのもちょっと寂しい.完全に(1)の境地に達した上で(3)の記憶を残しつつ生きる,といった振る舞いが,歓びに満ちた人生を陰影で彩った最も人生の楽しさを享受できる生き方かもしれないという気はしている.


 2003年02月15日(土)   お別れにむけて4 


(→続き)
 自分がなぜこのHPを始めたのかと言えば,ひとことで言うと「バンドやりたい気分と同じ」なのだと思う.

 例えばプロのミュージシャンなら,なぜその人が音楽を始めたのか,なぜ続けているのかと言えば,(a)それが好きで濃密な時間を過ごすことができるから,(b)生活の糧を得るために必要だから,(c)やらずにはいられない何かに駆り立てられているから,(d)他者からの承認を得るための資源であるから,などの理由があるのだろう.そして実際はこれらの複合した理由である場合が多いのだとも思う.そしてそうした理由はミュージシャンに限らず,お笑い芸人や研究者,格闘家,NGOのメンバー,ラーメン屋,映画監督,政治家など,突き詰めれば皆同じであるのかもしれない.振り返ってみて,自分がこのHPを始めた理由はほとんど(c),そして続けてきた理由はa:b:c:d = 3:0:4:3くらいかなと思っている.

 自分がなぜこのHPを終えるのかと言えば,ひとことで言うと「他のことに時間を使いたくなったから」だ.「ちょっと疲れた」という気分ではあるけれど,HPを続けていくのが嫌になったというわけではない.楽しい作業でもあるから1年間続けてきたのだと思うし,その気持ちは今も変わらない.

 ただ,(c)の自分を駆り立てていた「何か」が,別の方向にズレてきたような気がするのだ.それそのものは変わらないのだが,噴出する方向がズレてきた感じ.そして今,HPを続けてきたこの1年間は,そのことに気づいていく過程でもあったような気がしている.


 以上,このHPについてとりとめのないことをいろいろと書いてきましたが,この文章ももうすぐ終わります.そしてこの「バニラへの日々」も明日で終わりです.


 2003年02月14日(金)   お別れにむけて3 


(→続き)
 最初,このHPには掲示板やメールボックスを設置しないつもりだった.もちろん自分の文章を他人が読んでどう感じるのかを知りたかったけれど,可能な限りシンプルなHPにして「文章だけで勝負!」みたいな気分でいたからね.だが設置して本当に良かったと今あらためて思う.初めて日記の内容について感想をくれた「まあちゃん」さんの書き込みを目にしたときの嬉しさは今でも忘れられない.

 その後,少しづつ「いつも楽しみにしてますよ」といった便りをもらう機会が増えていって,何人かの人とは実際に会う機会にも恵まれた.HPを始めるまでは,自分が顔の見えない人たちとコミュニケーションを重ねて実際に会うことをなかなか想像することができなかった.また自分の文章に共鳴してくれる人は,自分と考え方や趣味,根っこなどに共通する部分を持つことがわかったのも収穫だった.

 寄せられた意見の中で興味深く感じたのは,人により面白さを感じてくれる文章が異なる点だった.多くの人が支持してくれた「次回W杯必勝戦術」や「ゲイ雑誌購入」のような例もあるのだけれど,そうしたもの以外では寄せられた好みの感想はバラバラだった.

 例えばこのHPにはテレビ番組に対して意見を述べていく形式の文章がしばしば登場してきたが,それに対してある人は否定的であったが別の人は強く支持してくれたりした.政治や教育の話がおもしろい,という声があればそっちの話は苦手だという声もあった.このHPには癒されるという声もあれば考えさせられるという声もあった.ある人が絶賛してくれた文章が他の人には全く響かないものであるという例も多かった.(続く→)


 2003年02月13日(木)   お別れにむけて2 


(→続き)
 この場に書いていく話の内容は特に限定するつもりはなかった.それはふとした思いつきや馬鹿げたアイデア,自意識の問題や社会の問題,音楽の話,言葉遊び,人と人との関係性についてだったり日常感じる違和感や怒りだったりした.それはすなわち日常を通して自分の中に自然と生まれてくるものたちだ.

 そして当然のことなのかもしれないが,そのようにして自分の中から外に出てくるものには,ほとんど1つ残らず自分の内面やカラーといったものが刻印されており,同時にその時々の自分の気分を色濃く反映してもいた.その中には,書くことによって以外は自分でもなかなか見出せないと思われるものもあったりした.

 しかしなんといっても一番キツかったのは「毎日更新」というルールだ.「漫画の週間連載は人間のやることじゃない」という話を聞いたことがあるが,そんな言葉を何度か思い出すほどに負担を感じることもあったよ.特に最近は更新が滞りがちになり,休日はその遅れを取り戻すためにただひたすら日記を書きまくるだけなんて日も珍しくなかったね.そんな状態に少々嫌気がさしていたのも事実だ.ただ,やっぱり手応えのあるものを書くことができたり何か感想を寄せられたりしたときは最高の気分だったね.(続く→)


 2003年02月12日(水)   お別れにむけて1 


 これから以下に書いていくことは独り言である.そのためとりとめもなく意味も通じにくいものになるかもしれない.

 この「バニラへの日々」というホームページ(HP)を始めたのは今からほぼ1年前のことだった.始めるにあたってぼんやりと意識していたルールは「自分が面白いと思うことを,原則として毎日1つのエピソードについて原稿用紙1枚ほどの量を書いていく」ということだった.いわゆる「日記」のように,その日起こったことや感じたことをただ書いていくだけでは読み手に楽しんでもらうことは難しい.たまにそんな奇跡のようなことを可能にしている文体を見かけてスゲえなと思うことはあるけれども,自分にはできそうにない.

 そこで心がけたのは,1つ1つのエピソードにできるだけ独自の視点を組み込んでいくことだった.それは内容そのものであったりその中の1行だったりしたが,目新しそうな発想をぶち込んでアイデアで勝負しよう,そんな意識が強かった.独自と思っていてもどこかで誰かが思いついているものもあるだろうけどね.もちろん自分のアイデアばかりではなく何か既存のものに触発されて書いた文章も数多いが,そうした場合は一度自分の中で消化した上で自分の色を付けてからこの場に出すようにしていた.

 こうしたことがどこまで達成できてどこまで読み手に楽しんでもらえたのかはわからないが,自分がなぜそうした独自の視点にこだわるアプローチで文章を書いてきたのかといえば,それが自分の「キャラ」だからなのだと思う.自分は小さい頃から,自分が何かアイデアを出したことで人が喜んだり意外な顔をしたりするのを見るのが無性に好きな性分であり,これまでそうしたコミュニケーションを通じて得られる承認を好物として育ってきたのだ.(続く→)


 2003年02月11日(火)   例えば薬物の話3 


(→続き)
 「アンタは麻薬を奨励するつもりか.アンタの意見のせいで青少年が麻薬を始めたらどうするつもりだ」という意見は一見もっともらしく,反論しにくい響きを持って僕らに近づいてくる.そしてこうした響きを持つ言葉は身の回りにいくらでもあふれかえっている.「青少年に害があるからエロ漫画の出版を差し止めろ」「差別的な言葉を出版物から削り取れ」「テロリストを殺せ」「飢餓に苦しんでいる子供を見てもなんとも思わないのか寄付をしろ」….

 青少年の麻薬,差別や飢餓の解消などの問題がそんな単純な戦略で解決するものならば,とっくの昔にどうにかなっている.こうした情緒的な意見の押しつけは真の問題を覆い隠し,むしろ解決への道筋を見えにくくさせてゆく.確かに人を問題解決へと駆り立てる衝動は,特にその初期においては情緒と無縁ではあり得ない.だが情緒に流されるがままに行動し,情緒に流されることの限界も見極めずカタルシスを得て満足するだけならば元も子もない.必要なのは論理によって方向付けられた情緒のエネルギーと,その実効性を常に自らに問い続ける姿勢であるはずだ.

追記.上に書いたことは社会問題に限らず,個人やその周囲の問題を解決へと向ける際にも当てはまると信じている.僕が現在感じている苛立ちは,実は,こうしたことを意識しながらもなかなか思い通りに行かず大して好転しない自分の姿勢や現状といったものに対して向けられているのかもしれない.


 2003年02月10日(月)   例えば薬物の話2 


(→続き)
 だがこうした意見は世間に対して,時として逮捕されたその著名人の行為よりも犯罪的に作用してゆく.例えば薬物に対する議論を深めようとする場合を考えよう.児童虐待などと同じように,麻薬は議論の余地なく許されない「ダメ.ゼッタイ」的な行為に当たるものなのだろうか? これは必ずしも自明なことではないと思うのだけれど,そんな当然の疑問を表明して議論しようとすると「アンタは麻薬を奨励するつもりか.アンタの意見のせいで青少年が麻薬を始めたらどうするつもりだ」などと極めて情緒的な理由で攻撃を始める連中が出てきて,それは多くの場合「ダメ.ゼッタイ」的な意見を強く主張する人だったりする.

 感情的にスローガンを連呼して青少年を麻薬から遠ざけることに成功したとしても,実際に彼らが何かのきっかけで薬物を摂取したとき,そうした動機付けにどこまで効力があるのだろうか? 欧米では「なぜ」麻薬をするべきでないかを彼らに議論させたり,あるいは立ち直った麻薬常習者の体験談を聞かせたりする教育を施しているという.直感で考えても,外側から動機を与える日本式よりも,内部に動機を生み出すように働きかける欧米式の方が現実レベルでより強固なものになるはずだと想像がつく.

 実際なぜそうしたアプローチが採用されたのかといえば,日本式や欧米式を含めたいくつかの選択肢について青少年をいくつかのグループに分けた上でそれぞれ実行し,どの手法が最も効果的かを検証してきた上で選び出されたのだそうだ.

 「目的の実現へと向かうために実行可能な選択肢を提示し,その効果や影響を検証してゆく」.こうした手続きは至極真っ当なもので,疑問や誤解の入り込む余地などあり得ない当然のことのように思える.だが麻薬教育に限らず例えば性教育などについても,日本ではこうした検証作業が行われているという動きすら耳にすることはない.(続く→)


 2003年02月09日(日)   例えば薬物の話1 


 最初の苛立ちは,的はずれな謝罪や償いの言葉に対して向けられたものだったかもしれない.例えば1年に何度か著名人が麻薬などの薬物所持で逮捕されるが,そんなときに逮捕された人間およびその周辺から出される謝罪の言葉.こういったものに対して「アホか」と感じる人も多いだろう.だがしばらく経つとそんなセリフにも大して腹は立たなくなった.

 次の苛立ちは,新聞やテレビなどから有識者とされる連中が発するコメントに触れたときに感じていたような気がする.例えばその著名人の薬物問題なら,「とにかく絶対にあってはならないことだ」といった意見などだ.同じ趣旨のものは麻薬撲滅を謳うCMやポスターなどにいくらでも見つけられて,それは「覚醒剤やめますか,それとも人間やめますか」や「ダメ.ゼッタイ」といったものだったりする.

 確かに精神的にも肉体的にも成熟する前の子供たちが薬物に溺れると取り返しのつかなくなることが多いのだろうし,それを避けるために手を打つべきなのは当然だ.社会的に影響力のある人間が薬物に手を染めることなど,絶対にあってはならないのかもしれない.青少年の行動には常に目配りをし「ダメ.ゼッタイ」と言い続けなければならないのかもしれない.(続く→)


 2003年02月08日(土)   誇りマッピング2 


(→続き)
 とはいっても「さまざまな職業や修羅場を経験してきて内側をたっぷり持っているが,会社をクビになって今はホームレス」という人は,本人は豊かな内面を持っていて不満はないのかもしれないが,少し寂しいというかもったいない気もする.僕は,比率で言うなら内側7割/外側3割くらいで誇りを持っていたいと願うね.

 以下おまけ.横軸に内側の誇りの度合いをとり,縦軸に外側の誇りの度合いを取ったグラフを考えてみよう.原点はこの空間の左下だ.誇りを「よりどころ」と読み替えると,「外側」とは例えば食事をする場を選ぶときに優れた口コミや質の高いマニュアルを選択し信頼する立場,「内側」とは自分で試行錯誤して研ぎ澄ましてきた嗅覚を強く信頼する立場などと解釈することもできそうだ.あなたやあなたの身の回りの人はこのグラフのどこに位置するのだろうか.


 2003年02月07日(金)   誇りマッピング1 


 誇りを自分の外側に置く人がいる.誇りを自分の内に秘めずに外に出してアピールするといった話ではなく,あくまで自分の誇りとするよりどころを自分の外部に求めるという意味だ.それは名門チームに所属していることを誇らしげに感じるスポーツ選手であったり,社会的に成功した子供に鼻高々な気分となる親の気持ちだったりする.

 一方で誇りを自分の内側に置く人もいる.それは例えばフリーのジャーナリストや腕利きのナンパ師といった人たちかもしれない.要は「いろいろと経験してきた自分ならこの先何があってもやっていけるはずだ」といった,場数を踏んだりして得てきたさまざまな経験に裏打ちされた自己信頼を誇りとする人のことだ.

 もちろん世の中の人は単に2種類の誇りのどちらかを持っているというわけではなく,実際はこの2つを組み合わせたものを自分の土台としているはず.どちらを多く持つのもその人の自由なのだが,外側に頼りすぎるのは「会社クビになった」ことで自殺に及んだりする可能性が高い分,不安定と言えそうだ.(続く→)


 2003年02月06日(木)   花粉の季節3 


(→続き)
 ここで提案.長い目で見れば,これからの子供たちへの小中学校の段階からの適切な教育が必要なんだろうが,それだけを待つ余裕はなく短期的な戦略も必要だ.例えば政治に関して僕らがウスい興味しか抱けないのは,自分たちが政治や社会の意思決定に関わっているという意識がとても持ちにくいことが一因であるように思う.たとえ投票したって手応えなんかないのだ.

 つまり社会の意思決定に関わるという意識を高めるには「投票への手応えを自分の手元に引き寄せること」.そのための一案は,冒頭に書いた「首都圏のスギ・ヒノキをすべて切り倒すか否か」といった,論点を明確に絞ったピンポイント型の住民投票的なものを増やすことだ.最初は自分たちのごくごく身近な利害に直結するものがいい.そうした住民投票をカンフル剤的に使用することで,僕らの感覚も訓練されていく.長野で田中康夫知事が誕生したときも,住民投票ではないがこれと同様の効果がもたらされたように思う.

 そうすれば僕のように一度しか選挙に行ったことがなく,しかもその理由が好きな女の子に「行かなきゃダメだよ」と諭されたからだという情けない奴は減って,将来の人材不足も解消に向かうかもしれないなあ.


 2003年02月05日(水)   花粉の季節2 


(→続き)
 僕らよりも下の世代ではこうした気分はますます加速しているようにも思えて,こうした「社会への使命や奉仕」の匂いのする,苦労の割にそれに見合う報酬が得にくいであろう面倒な仕事に首を突っ込む人間は今後目に見えて減少していくのではないだろうか? 政治家だろうが官僚だろうが医者や看護婦だろうが,マジメに誠意を持って仕事をしている人はかなりの数存在しているはず.だがメディアを通して聞こえてくるのは,何かにつけて彼らに向けられる感情的なバッシングであったり報酬に見合わない彼らの劣悪な労働環境であったりする.今時これじゃ,誰も苦労してその職に就こうなんて思わない.

 要は今後各ジャンルで深刻な後継者不足が予想されるのではないかということ.「うまくやってくれる誰か」が徐々に減少していくのだ.そしてそれは,この住み心地の良い社会の緩やかな崩壊を意味するのかもしれない.やばいぜ.(続く→)


 2003年02月04日(火)   花粉の季節1 


 ~僕が生活している東京近郊ではまもなく花粉の季節がやってくるのだが,そのことを考えると憂鬱な気分に支配される.涙が出そうだ.この涙は悲しみのためなのか,それとも既に花粉が飛び始めている証拠なのだろうか? これまでに選挙に行ったことは一度しかないんだが,「首都圏のスギ・ヒノキをすべて切り倒すか否か」という国民投票でもあったなら必ず投票所まで出かけるだろう.

 僕が選挙に出かけないのは「それほど興味もないし面倒くさいから」.政治・経済・社会のあり方などに関することは選挙で誰に投票したって大きく変わらないと思ってるし,そうした意味で正直どうでもいいと思っている.誰かがうまくやってくれるんじゃないか,っていう感じにね.そして,こうした感覚は僕らの世代の多くに共有されている気分ではないかとも感じている.

 しかし気づいてみれば,僕らは物心ついたときからこの結構住み心地のよい社会の有り難みを享受してきたにもかかわらず,自分がこの社会の形成・維持に関して投じたコストはほぼゼロだ.まあ税金は払っているけどさ,汗はほとんどかいていない.(続く→)


 2003年02月03日(月)   時間の矢 


 気がついてみれば今年が始まってからもう一月が経過していた.時間の矢は一時も止まることを知らず,その勢いは年齢を重ねるとともにますます加速していくようにも思える.僕に残された時間はあとどれほどなのだろう.今月中にこの「バニラへの日々」を終えます.


 2003年02月02日(日)   ブルーの円盤3 


(→続き)
 まず上半身を起こし,掛け布団の外側表面を隅から隅まで調べる.次に掛け布団からそーっと脱出し,コートを脱ぐ.表地から裏地,ポケットやファーの部分まで丹念に目と指で探ってゆく.次はコートの内側に着ていたセーターだ.セーターを脱ぎ,コートと同様に表裏とも丁寧に探索する.次はその内側に着ていたシャツを脱いで調べる.この時点で上半身裸.体表のどこかに張り付いている可能性もあるので,両手の平を使って自分の上半身を隅から隅までなで回してゆく.あん.次はジーパンを脱ぐ.ジーパンの生地を調べた後は,太ももから足首に沿ってをなで回す.あふ.

 この時点でパンツ一丁であり,次はパンツの中だと考え手を突っ込んで調べようとした瞬間,自分は早朝から他人の家で何をやっているのだろうああそうだコンタクトレンズを探しているのだなどと自問自答し,これは正当な行為であると結論づけた.それと同時に「頼むからまだ目覚めるな」と隣の部屋の友人夫婦に念を送った.そして身につけていたものを全て調べ終え,次に掛け布団の内側を調べようとして布団をめくり挙げたとき,それはそこにあった.

 直径10ミリほどの,湾曲した薄いブルーの円盤.それがあった場所は体を横たえたときに右足の膝が来るあたりであり,見る限りそれに損傷はまったくなかった.僕は声にならない雄叫びを上げ,大急ぎで服を身にまとい友人を叩き起こした.その勢いのまま帰ることを宣言し,自宅に到着した今これを書いている.その円盤は今も僕の眼の中に入って視界を確保し続けてくれており,ああ,何に向かってすべきかはわからないけど,とにかくたっぷり感謝はしてますぜ.


 2003年02月01日(土)   ブルーの円盤2 


(→続き)
 寝る支度といっても簡単なものでコンタクトレンズを外すだけ.服も着替えずコートも着たままで掛け布団を羽織って寝るのだ.ところが酔いのせいなのか,普段は滅多にやらない失敗「目から外した瞬間にレンズを見失う」ことをしてしまったのだ.場所は布団の上,下半身を掛け布団の中に突っ込み,上半身を起こしている状態での出来事だった.布団の上のどこかに落ちたのか? 袖の内側に入り込んだのか? 服のどこかに張り付いているのかそれともポケットの中に入ったか? と自問自答しながらひたすら探し続ける.だが30分ほどでギヴアップ.失意の中で布団に潜り込み,照明を落とした.

 しばらく経ってから尿意と共に目覚めたときには既に日は昇っていたんだが,不思議なことに体中に力が漲っていることに気づいた.なぜだろう? 3,4時間しか眠ってなくて,酒も疲れも体にたっぷり残ってるはずなんだけどね.しかし「絶対見つけてやる」という決意と,それが成功するはずという確信に近い予感を体中で感じていたのだ.隣の部屋の友人夫婦がまだ寝ていることを確認し,作業に入る.(続く→)


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■過去日記サンプル
東京タワー/ 写真嫌い/ 史上最高の尿意/ 中身と外見/ ほっぺにチュー/ 河原の魅力/ パチもん教授/ 16通りの告白/ アナウンサー賞賛/ 次回W杯必勝戦術/ チャンネル1995/ 緊張のアノミー/ 学歴社会という現実/ フジロック'02レポート/ 新しいかもしれない口説き文句/ 現役モラトリアム生/ ばったりしあう関係/ 黒髪という選択/ ゲイ雑誌購入/ ごきげんドライバー/ 結婚式に思う/ 味覚の手触り/ 変拍子の人/ 自己プロデュース
管理人: vanilla