2007年05月21日(月) 【 中毒奇譚:9 】 |
【注意書き】
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【店主の経営メモ:本日のお客様──雲を探す子供】
少年は、少女の手を離さなかった。
開いた扉の隙間から入り込んできたのは埃混じりの湿った空気。慣れた様子で琥珀色が揺れるカップから顔を上げ、そしていつものように笑みを浮かべた。 「いらっしゃいませ」 言ってから僅かに黙り込む。店主はそのまま、真っ直ぐ前を向けていた視線をほんの少し落とした。 随分小さなお客様だ。カップを置きながらそう思う。 お世辞にも発育が良いとは言えない十歳位の少年と、五歳位の少女が手を繋いで立っていた。 「あの、ここって」 「店ですよ。お望みのものがあるならば、おおむねご期待に応える事が出来るかと」 それを聞いた少年は少女の顔をちらりと見遣る。ざんばらに切られた髪が揺れ、少年の付けていた首輪に付いたプレートがランプの光を受けて光った。 少年は再度店主を見る。 「道を、おしえてください」 「道?」 「──っていう所に行きたくて」 その名を頭の中で反芻する。聞き覚えは……あった。 「あぁ、──ですね。ええ、分かります」 「本当ですか!」 まるで詰め寄るようにして、少年は声を上げた。 「はい、ここからはまだかなりの距離があるので、ご案内は出来ませんが……地図がありますから、少々お待ち下さいね」 宜しければ椅子にどうぞと促すと、少年は一礼してから少女の側にあった椅子を引いた。先に少女を座らせてから、自分も座る。 少女は一言も言葉を発しない。ただ少年の手を握り続け、静かな表情で座っていた。少女の首にも同じ首輪がある事を視界の端で確認してから、店主は店の奥へと向かう。地図はすぐに見つかり、それを持って戻って行った。 「お待たせしました。ひとまず、お飲み物でもどうですか?」 地図をテーブルに置きながら店主は二人に促した。薄暗い店の中でも分かる程に、小さな彼らの顔には疲れが浮かんでいる。疲れの中に僅かに浮かぶ希望のみが彼らを動かしているように見えた。 「え、でも」 「蜂蜜を入れたホットミルクを入れましょう。疲れが和らぎますから」 悪いですと言いかけた少年をやんわりと制し、店主は棚からカップを二つ取る。マッチを擦りアルコールランプに火を点してから、そこにミルクを入れたティーケトルをセットした。 「ありがとう、ございます……」 「いえいえ」 準備をしている間にどうぞと地図を差し出せば、少年はそそくさとそれを受け取り、開いてから黙り込んだ。 「……」 「一応、一番簡単な地図なんですけど、ね」 案の定と言うべきか。少年の身なりは、きちんとした教養を受けているとは思えないものだった。地図に記された文字の羅列は少年にとって暗号にしか見えていないのだろう。 少年の反応に、少女がそっと手を伸ばして肩に手を置いた。目に浮かんだ不安に気付いたのか、少年は地図を閉じて笑う。 「大丈夫だよ、心配しないで」 きっと辿り着けるから。少年はそう言いながら少女の髪を撫でる。 「『カギ』を、壊してもらってしまったんだから。僕たちは助けてもらった。だから、約束を守らないと」 街に行かないと。緋色の煌きに会わないと。 まるで、それをしなければ自分が終わってしまうかのような声で少年は言った。その約束を忘れないように繰り返し、繰り返し、それだけを考えてここまでやって来たのだろう。 少年の言葉の意味を店主は知らない、理解をするつもりも無い。それは薄情な感情では無く、踏み込むべきでは無いと感じたからだ。 ケトルから湯気が立った。店主は火を消し、ミルクをカップに注ぐ。仕入れたばかりの蜂蜜の甘い香りは二人の不安をどれだけ和らげるのだろうかと考えてから、珍しい事だと思わず薄く微笑んだ。 「入りましたよ、どうぞ」 カップを差し出せば、二人は小さな手でそれを包むようにして受け取った。少女は黙ったまま、しかし店主に小さく一礼をし、カップにそっと口を付ける。 「……おいしい」 少年はまるで初めてこの味を知ったかのような反応を見せた。実際にそうなのかもしれないが、店主がそれを問う事は無い。二人がカップを空にするまで、ただ黙って見つめていた。 「……助けてもらったんです」 カップの中身が半分になった頃、まるで独り言のように少年は口を開いた。店主は黙って聞いている。 「どうしてかは分からないけど、助けてくれた人がいて。その人はカギを壊せる人と僕たちを会わせてくれて、僕たちを外に出してくれたんです」 少女を見て、再び髪を撫でる。 「カギは壊れたけど、僕は後悔してなくて。この子がここにいるから、それで良くて。だから行かないと。行けって言われたから、その約束を守らないと」 その感情はとても純粋なものであるように思えた。約束を守る事、少女を守る事。少年がまだ幼いせいで気付いていない深い部分を無意識で探っていた店主は、少年がカップを置いた音で我に返る。 「ごちそうさまでした。本当に、おいしかったです」 柔らかに笑いながら少年が言えば隣の少女もこくこくと頷いた。その反応に店主は満足そうに頷いて、立ち上がった。 「……少し待っていて下さい。今日は気が乗らないので、これで店仕舞いにします」 「えっ……」 思わず立ち上がっていた少年の口元を、店主は人差し指で押さえる。 「仕事の後は美味しいお酒ですよ。たまには少し遠い店も良いと思います。例えば、──という店とか」 「っ……!」 「ジュースでしたら奢りますよ?」 有無を言わさずに店主はカップを下げ、そして二人に店の外へと出るように促した。背中を押されるようにしながらも少年は振り返る。 「あのっ、ありが……ありがとうございます!」 「僕がこんな気分になるなど数年に一度ですから、運が良いですよ、お客様」 気が変わらないうちに行きましょう。 二人が外に出た後で店主はランプに手を伸ばし、その光を優しく消した。
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