■ 豆文 ■
 2006年10月22日(日) 【 中毒奇譚:7 】

【注意書き】

 初見の方はまずこちらをご覧下さい(『はじめに』のページです)

【店主の経営メモ:本日のお客様──儚き男性】

 キィ、と、やけに静かな音で扉は開いた。
「──いらっしゃい、ませ」
 仕入れたばかりの書籍にうっかり目を通してしまっていた店主は慌てて顔を上げる。そのまま、視線が止まった。
 感じたものは、何だったのか。
「お邪魔、するよ」
 男だった。少し細すぎるとも思える体躯に、日当たりの悪かったと思われる肌。耳を隠す程度の、褪せた枯草のような色の髪はそれでもさらりとしていて、男がかけていたサングラスに僅かにかかる。
 年齢は40代に差し掛かったほどだろうか。どこか、儚さを伴った男だった。まるで、儚さの中に身を委ねてしまっているような。
「は、い。あ、宜しければお茶のお好みを聞かせて下さい。お出ししますので」
「詳しく無いから、何か勧めてくれるのなら喜んで飲むよ」
 静かな動作で椅子を引き、男は座った。店主は最近入手した茶葉を思い浮かべ、棚の中からそれを探る。
「ミルクで沸かすと、美味しいらしいのですよね。寒くなってきましたし」
 茶葉と一緒に、アルコールランプの付属されたティーケトルを取り出した。簡易コンロなどを取り出しては情緒に欠けてしまうと思い、自分用に仕入れた道具だ。そこへミルクを注ぎ、マッチでつけた火にかける。
「本格的だね」
「お茶に関しては特に。ですが、品揃えも本格的と自負できる程には取り揃えておりますよ。……本日は何をお求めで?」
 男が入ってきた瞬間に僅かに乱された調子が戻ってきたのか、店主はいつものようにつらつらと話し始めた。アルコールランプの炎を眺めながら、男は小さく皺の浮かび始めた顔で薄く笑った。
「まだ、決めていないけれど……後に残るものを」
「……贈り物、でしょうか」
 お茶を用意する手は止めぬよう、けれど話を聞く事を優先にして店主は二度瞬いた。男は『そうだね』と呟くように言う。
「大切な人に、あげたくて」
「ふむ。失礼ですが、どのようなご関係の方で?」
「型にはめた言い方をすれば、恋人、だね」
 実際はそんな言葉も飛び越えてしまっているけれど。炎の揺らぎに目を細めた男の言葉に、店主は聞き返すよりも続きを待つ事を選ぶ。
 店の中を、普段よりも更に静謐な空気が包んでいるような感覚を覚えた。心がざわつく事もなく、どこか、とても心地よい温度の水の中をたゆたっているような。
「店の事は、知古が教えてくれてね、噂も聞いてる。まぁ、信じてしまったら可哀相だって笑っていたけれど。でも」
 それはこのまま、男と共に、
「願いが叶う店、というのが本当なら──」
「……本当、なら?」
「俺の命を確実に、彼女に託してくれと願うのだけれど」
 この空気、この世界に溶け出してしまいそうになるような。
 男は薄い笑みを浮かべたままで、それはとても儚くて。
 男のサングラスに映る炎が、ひとたびゆらりと揺らめいた。
「それ、は」
 店主は言葉の意味を考える。いや、とうに分かっているのだが、それを認めるには空気があまりにも穏やかで。
「ご病気か、何かで」
「厄介なものらしくてね、長くないって」
 友人が尽くせる手を尽くしてくれたのだけれどね、駄目だった。その知り合いに優秀な医師がいて、そこまで行ったりもしたのだけれど。男は穏やかな口調で語る。
「それでも長らえた方だと思うよ。判明してから数年粘った」
 と、男が喋る事を止める。男がじっと見ていた視線を追えば、沸騰しかけているミルクが目に入り、店主は慌てて火を消した。普段から薄暗い室内が更に暗くなったようで、消えた火はまるで、その様子を見てクスリと笑った男のようで。
 店主がお茶の用意を終えるまで、会話は休憩となった。やがて湯気の立つ白磁のカップを差し出すと、男はそれを両手に包み込みながら、再び話し始めた。
「……勿論願うよ、俺は。けれど、俺は弱いから、願いも弱くて届かないかもしれない。そうすると、彼女が無理矢理拾いに来るんだ。俺は、そうやってずっと、助けられてきたから」
 砂糖はある? と男が店主に問う。入れないと飲めなくてと笑った男に、店主はそっとザラメの入った容器を差し出した。男はそこから二杯をスプーンですくい、カップの中へと落とす。
「だから、最後は自分から、渡しに行けたらと、思うんだけれどね」
 くるくるとスプーンを回せば、甘い香りが広がった。男は穏やかに、けれど少しだけ寂しそうに目を細める。
「少しだけ、胸に置いている気持ちがあって」
「気持ち、ですか」
「……俺はもう、彼女を置いてゆかないと思うとね、実は少しだけ嬉しくて」
 それがどういう意味の言葉なのか、店主には分からなかった。けれど男は穏やかに笑っている。先立つという事は置いてゆくという事なのに、置いてゆかないと笑っている。嬉しそうに、そして寂しそうに。
 店主はその意味を問おうとはしなかった。分からずとも、目の前の男がそれでいいと言っているのならば、店主に聞く意味は無い。旅立ちの手伝いに、店主として、望むものを差し出すだけだ。
「──お求めの品が決まりましたら、遠慮無くお申し付け下さいね。……それと、お茶のお代わりをご所望の場合も同様に」
「有り難う。……美味しいね、これ」
 お茶を口に含んだ男は、嬉しそうに微笑んだ。もう一口飲んでから、お茶の中に落とすように呟く。
「……指輪、が欲しいね。俺と、彼女の」
「指輪、ですか」
 そう、と返した男は、カップを置いて自分の手の甲を見つめた。
「交換をするんだ。彼女の指輪を俺が貰って、俺は彼女に自分の指輪を渡す」
 固くなってきた自分の手を取って、はまる指が無いわと彼女はきっと笑う。銀鎖も貰って行こうか、それがあれば、すぐにネックレスに出来る。男は手を裏返し、軽く拳を作って頷いた。
「それも珍しい、ですね」
「それでも、きっと意義のある事だと、思ったから。もう、物で繋ぎ始めるしかないくらいにね、それ以外のところで繋がってしまっていて、それでもまだ証が欲しいとか、とても贅沢なのだけれど」
「いえ」
 自嘲を浮かべかけたそれを、店主は思わず遮っていた。男は顔を上げ、少し不思議そうに店主を見る。店主は一瞬言葉に詰まったが、それでも続いた言葉は正直な気持ちだった。
「……良いと、思いますよ」
「…………ありがとう」
「思ったままを言っただけですよ」
 店主は優雅な動作で立ち上がる。背後の扉に手をかけながら男に指輪のサイズを問うと、男は『一応しっかり合わせておくよ』と二つの数字を店主に告げた。
「かしこまりました。何種類か持ってきましょうか? それとも僕のお薦めで宜しければ、そうしますけれど」
「任せるよ」
「──仰せのままに」
 やがて戻ってきた店主は、男の目の前に小箱を置いた。開けてみて下さいと促され、男はそれを手に取る。蓋を開くと至ってシンプルな対の銀製の指輪が、ランプの光を取り込んでオレンジ色に光っていた。
「細かい装飾は、不要かと思いまして」
 きっとこの選択は間違っていない、自信たっぷりに笑む店主への男からの返答は、ただただ穏やかな笑みだった。
「ありがとう」
「……こちらこそ。では、お包みしま──」
「俺が死ぬ時に」
 小箱を愛おしそうに撫ぜながら、男がふと呟いた。
「俺が望んだ事を、彼女に謝らないといけないね。きみはそんな事を望まないのに、ごめんね、って」
 心の何処かで、ほんの少しでも嬉しいと感じた自分を、叱りつけながら。
「まだ生きながらえる事が出来るのならば、俺はいくらでも彼女と共にいたいのだけれど。でもきっと、とうに他人が得られる以上の幸せを、俺は得て」
 だから死ぬのかもしれないね、と、男は言った。生きている間じゃ抱えきれない程の幸せを得て、あぁ、あの時に聞いた話と逆の、けれどとても似ている事なのかもしれない。何かを思い出して笑った男に、店主は何も言わず、ただ差し出された小箱を包んでいた。
 渡してしまったら、全ての覚悟が終わるのだろう。けれど、渡さねばならないと思ったから。
「……贅沢だね、俺はもうすぐこの世から消えるのに、こんなにも幸せだ」
 男を、残された時間のうち一秒でも長く、『彼女』の傍へといさせてやりたいと、思ったからだった。

 やがて男は指輪と銀鎖を受け取り出ていった。
 空は曇り空だったが、その色は何故かとても明るく見えた。

 二人だけの晴れ間と無限の契りが、そこに存在するように。


 << 前  一覧  次 >>


[ 豆文感想フォーム / web拍手 ] [ bean junky:ex ]