パラダイムチェンジ

2005年12月31日(土) 言葉の力

さて、引き続き言葉の力という事を考えながら、今年の自分を振り返って
みたいと思う。
言葉が他人に対し影響力を与えるのと同様に、その言葉を発した
自分自身にも影響を与える、と私も思う。

それは自分の今年を振り返ってみてもよくわかる。
今年の初め、私は今年の抱負として、「身体をつかう」という言葉をこの
日記
に書いた。

そして、まさに今年は、昨年に比べても身体をよくつかった年であったと
思うのである。

まず一つ目は、2月の沖縄をはじめとして、今年はよく旅行をしたり、
出かけた年だった。
4月には伊勢・鳥羽に行き、9月にはアメリカ旅行までしてきた。
また、それ以外にも鎌倉に行ったり、また様々なワークショップや講演会
にも行ってきたし。

もう一つ、身体を使うという意味で今年大きかったのは、フィットネス
クラブに通いだしたことかもしれない。
最初の頃は週に2、3回、最近は寒いせいもあるけど週に1回(爆)程度、
何とか身体を動かす習慣を維持してきた。

これは今年の初めでは、想像もしていなかったことなのだ。
ある時、あ、身体を動かしたい、と猛烈に思ったわけですね。
で、そのことを日記に書いて、その後三日坊主で終わったら格好悪い、と
思って、この日記には書いてこなかったんだけど、何とか今年いっぱいは
続けてこられたようだ。
来年はもう少し頻繁に通いたいと思っているけど。

それもこれも、今年の初めにただ漠然と、「今年は身体をつかう年にした
いなあ」と思い、日記に書いた結果のような気がする。
でも、それはただ心の中で思うだけだと弱い気がするんだよね。

自分の中で実現するか、達成するか分からないような事でも、例えば
手帳に書いたり、またこうして日記にアップしたりと、アウトプットする
事で、その言葉が力を持って、自分の無意識に働きかける、なんて事が、
実際に起こっているんじゃないかな、なんて思うのである。

言葉には、たましい、があるという言霊なんて言葉もあるけれど、それも
やっぱりアウトプットすることが大切なんじゃないかな、と思うのである。
そしてもう一つ、自分に言葉の魔力をかけたいと思うのであれば、自分が
その時、本気で思っていることを書いてみる、ということが大切なのかも
しれない。

そうすると、そのことを忘れてしまったとしても、その後、いつか振り
返って見た時に、あ、あの時あんな言葉を書いていたのか、と思い出すと
意外とその通りになっている事って、あったりするものなのだ。

自分も、時々、偶然自分の日記を読み返してみた時に、俺ってこんな事を
書いていたっけ?なんて思ったりもするけれど、その言葉がその時の自分
に役に立つ言葉だったりすることもあったりする。

だから今の私は、日記に書いたり、また自分の手帳に書く事がそのうち
実現する、ということを馬鹿にしていない、というか割と真剣に考えて
いたりするのである。

また例えば、今年意識してやっていたのは、例えばネガティブな言葉、
「自分ってダメだなあ」なんて独り言を言いたくなった時には、
「自分ってダメ・・・・・・じゃないよな」と語尾だけ変えてみる、という事で
ある。

そのことによって、直ちにポジティブな気持ちに変わる、なんて事はない
けれど、少なくともマイナスの気持ちは相殺されて、ゼロに近くなるよう
な気がする。
そのおかげで今年は、極端に落ち込む事は少なかったような気もするので
ある。
そして来年は、ネガティブな独り言がつい出てしまう機会自体が、
もっと少なく出来ればなあ、なんて思ってみたり。


という事をふまえて、私の来年の抱負をここに書いてみると、
来年は、「もっと身体と頭をつかう」にしたいと思う。
今年のいい流れというのを、中断することなく、もっと身体と頭を使う
機会をつくることで、自分の器が大きくなってほしいなあ、と思うし。

また、来年はもっと、「間の抜けた人間ではなく、間に合う人間になりた
い」な、と思う。
実際、それがどういうことなのか、を説明するのは、それが実現できたか
どうかも含めて、また来年の年末にでも。

あ、あと来年こそはもっと人に会いたい、と思っていますので、
私の知り合いの方々は、来年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
それでは、よいお年をお迎え下さい。



2005年12月26日(月) 言葉の黒魔術・白魔術

最近、言葉の黒魔術と白魔術、ということをちょっと考えている。
といって、オカルト的な話をしたい、という訳ではない。
今回の考えるベースになっているのは、ちょっと前の糸井重里のこんな
エッセイ
である。

以前に、呪いの言葉 、について考えてみたこともあったんだけど、今回は
その延長で。
普段、私たちが何気なく使っている言葉の中にも、黒魔術的なもの、
白魔術的なものってあるんじゃないかな、なんて最近思うのである。


たしかに某占い番組で、人気カリスマ占い師の何とかさんが、
「あんた地獄に落ちるわよ」と言っているのは、占いというよりはむしろ
呪いなんじゃないかな、なんて思ったりする。

ただし、その呪いというか、占い通りに芸名を変えた芸人さんよりも、
占いを拒否して、今まで通りの芸名でいる芸人さんたちの方をTVでよく
見かける気がするのは、気のせいなのかも知れないが。

また例えば、母親が、うちの子はバカなんだから、と本人や、周りの人に
広言してはばからないのも、一つの呪いというか、黒魔術的なものの様な
気がする。

やっぱりね、バカだバカだ言われながら、なにくそーと思う子よりは、
バカなんだからしょうがないじゃん、と開き直ってしまう子の方が多い
ような気がするし。

それだったら、たとえ実際に頭はそんなによくなくても、うちの子は頭が
よくてー、とか親バカぶりを発揮している親の方が、実害が少なくていい
のかも、しれない。


で、私の仕事に関係することでいうならば、例えば、お医者さんがガン
患者さんに余命を宣告するときにも、黒魔術的なものの言い方と、白魔術
的なものの言い方って、あるような気がするのだ。

事実、余命宣告をされた末期がん患者の自殺率は、一般の自殺率よりは
高いらしい。
かといって、ガンの宣告をするべきではない、と言いたいのではない。
物には言い方っていうものがあるんじゃないか、と言いたいのである。

例えば、聖路加病院の92歳の日野原医師は、もう何10年も前からガンの
宣告をしているらしいけれど、人によっては半年以上時間をかけることも
あるらしい。

うちの鍼治療院に来る患者さんでも、例えば膝が痛む人なんていうのは、
整形外科の先生から、これは年のせいで軟骨が磨り減っているからで、
もう治りませんね、なんて宣告をされて、うちにやってくる人も多い。

そういう人に対して、黒魔術的に同じ事を断言してもしょうがない訳で。
じゃ、まあとりあえず本当に年のせいなのかどうなのか、やってみましょ
うか、といいながら施術を行なうことが多い。

で、事実、症状が完全に取れることは稀であっても、日常生活を満足に
送れる位まで寛快する事はよくあることで。
ただし、絶対うちだったら治りますよ、なんて事は言えない。
それは、白魔術的なものの言い方とはちょっと違うような気がする。


でね、仕事に限らず、普段の日常生活でも、黒魔術的なものの言い方
よりは、白魔術的なものの言い方のほうが、上手くいくことって多い
ような気がするのである。

まあ、ズバッと斬ってほしい、断言してもらうことの快感って言うのも
あるとは思うんだけど、人生なんて何が起こるかわからないんだし。
だったら、白魔術的なものに包まれている人のほうが、トータルで考えた
ら、幸せな人生を送れるんじゃないのかな、なんて思うのである。



2005年12月23日(金) 最後の恋のはじめ方

今回は、クリスマス向けのDVDネタ。
今年見た映画で、クリスマスに一番オススメのDVDは、「皇帝ペンギン」
なんだけど、これは私と同じく一人で寂しいクリスマスを送る男性に
オススメのDVD。
いや、何も独身男性に限った話でもないんだけど。

取り上げるのは「最後の恋のはじめ方」
ちなみに原題はシンプルに「hitch」これは主人公の名前であるとともに
動詞としては引っ掛けるという意味もある。また英英辞典によれば、
結婚する、高い位置に押し上げる、という意味もあるようで。

この映画を一言でいうと「脚本がものすごくしっかりとしたいい映画」
である。
やっぱり、構造のしっかりとした、いい脚本の映画に駄作は少ないと
思うんだよね。

その脚本の出来栄えは、脚本を読んだ途端にウィルスミスが主演と製作
を買って出てしまったほど。
物語の冒頭のセリフはたしかこうである。


基本ルール
"いい男なんか要らないわ"と願う女は、まずいない

"今はタイミングがイマイチだわ"と言う女はいる
または、"存分に自由を楽しみたい"って女も
もしくは、"男よりキャリアが大切なの"って女もいる

君は信じないだろ?
そんなことを言う女は嘘をついてる
わかるかい?大嘘だ

"タイミングが悪い?"
"自由が欲しい?"

確かにキャリアは大事
でも本音は"私をほっといて"
もしくは、"このクドき下手!"
思い当たる?

人間の意志伝達の60%は言葉ではなくボディランゲージ
30%は声のトーン
つまり90%の"会話"は、言葉じゃない

彼女は相手を傷つけまいと嘘をつく
知らない相手だから当然

幸いにも相手がどんな美女でも、すべてはクドき方次第
だから僕の職業が成り立つ



こういうセリフが冒頭にある映画なら、面白くならないわけがない、
とウィルスミスは思ったそうで。
その他にもこの映画には、素敵?なプリンシプルがいっぱい出てくるの
である。

そしてこの映画がうまいな、と思うのは、そういう基本ルールを教える
相手にとびきりキュートな俳優を持ってきたことである。
それが会計士役のケヴィンジェームス。

彼はいわゆるデブで、ちょっとMr.インクレディブル(結婚後)似のモテ
ない君なんだけど、あろうことかセレブに恋をしてしまい、デートコン
サルタントのウィルスミスに相談を持ちかける。

そのウィルスミス演じるヒッチ自身もそのセレブを追っかけている
ゴシップ誌記者のエヴァメンデスと恋に落ちる、というかスマートに
エスコートをする。

彼のエスコートテクニックは、ホイチョイプロダクションも真っ青位、
デキすぎなんだけど、どうしても最後の詰めが甘いあたりが憎めなくて
自然と顔がほころんでしまうのである。

そしてヒッチの対極に、セックスだけしたら後でやり捨てする男(SEX
AND THE CITYでは敵呼ばわりされてそうな独身貴族)を持ってきたこと。
そう、あくまでヒッチが手助けするのは、彼女と本気でつき合いたいと
思っているけど、自信のない男性のみなのだ。

そして最もうまいな、と思うのは、最後の決め手がヒッチのテクニック
だけではない、という風になっていること。

そう、どんなにエスコートがスマートでクールだったとしても、やっぱ
り最後の決め手になるのは、その人の気持ちなんだと思うんだよね。
逆に気持ちを貫けず、どこかで臆病さが顔を出してしまうから失敗して
しまうことって、よくあると思うのである。

だから、実は告白がうまくいくかどうかって、相手に対して「I Love
You」というシンプルな言葉が、相手の心に届くかどうかなんだと思う
のだ。
そしてこの映画でもいうとおりに、その要素の60%はボディランゲージ
であり、30%は声のトーンなのかもしれない。

そういえば、以前ビートたけしが、筑紫哲也の対談本「このくにの行
方」
の中でこんな発言をしていた。


「昨日、浜崎あゆみと話したけれど、やっぱりあの子はいい感覚して
いるな、と思ったんですよ。というのは、『お互いを好きになって、
結婚とか愛とかいうときには、よく知り合ってとかいうけれど、よく
知り合うその前は、一瞬の判断で決めているんじゃないの?』という。
『心なんかぜんぜん見えていないのに、好きになる。どうして話し合っ
たあと、好きになるの?』というんだ。

会った瞬間に好きになって、それを確認するために話し合っていて、
もっと好きになるか、話してみたらいやな人だったということになる
のに、どうしてお互いを知るところから始まるのか。それは恋ではない
というから、いい感覚しているなあと思ったんです。

おれもそうで、人間というのは社会をつくって、そこにいろんな人間が
いるんだけれど、相変わらずわれわれはごく一瞬の判断で、いろんな
人間を好きになっているだけなんじゃないかな」



自分の経験でいっても、どんなに最初に会った印象がよかったとしても
その後の態度がダメダメすぎたら、百年の恋も一気に冷めてしまったり
する。そのためには多少のテクニックは必要なんだと思う。
だけど、最後にモノをいうのは、その人の気持ちの熱さなんじゃないの
かな。
それは例えば、「59番目のプロポーズ」の59番さんしかり。
そういえば、結婚が決まったそうで、おめでとうございます。
(読んではいないだろうけど)


だからこの映画を見て、告白する勇気と、洗練されたスマートさを
身につける男性が増えたらいいのにな、なんて思うのである。



2005年12月18日(日) TOEICテストモニター参加

日曜日、TOEICのETSスピーキング&ライティングテストというのに参加
してきた。
なにやら、TOEICの新方式のテストについて、モニターとして参加して
ほしい、ということらしい。
ついでに、図書券とTOEICの問題集までもらえるらしい。
ということで、赤坂まで行ってきた。

今回のテストは、コンピューター端末を使う試験で、ヘッドセットを装着
してコンピューターから聞こえてくる、例えばテレフォンセンターの係員
としてお客に説明しなさい、とか、またライティングの試験では、架空の
Eメールに対して、返事を送るとか、与えられた話題に対して、エッセイ
をキーボードで打ち込め、という試験で。

果たして結果が返ってくるのかどうかは知らないけれど、惨憺たる有様で
ございましたorz。

でも、この辺の能力が、今自分に必要とされながら、最も足りない部分
でもあり。
そういう意味では、こういう事を伸ばしてくれる問題集やコンピューター
ソフトができたら、無条件で買うんですけど。

いずれにせよ、来年はもう少し英語の能力も伸びるように、悪戦苦闘を
前向きに続けていくしかないんだろうなあ、という感じの年の暮れで
ございました。



2005年12月16日(金) ALWAYS 三丁目の夕日

今回は映画ネタ。見てきたのは「ALWAYS 三丁目の夕日」
この映画を一言でいうと、「すみません、泣けませんでした」である。
だがしかし、泣けなかったからつまらない、と言いたい訳ではなく。

物語は昭和33年の東京。夕日町という架空の街角に住む、鈴木オートの
家族と、その向かいに住む駄菓子屋の茶川一家?を中心にして進む物語。
遠景には建設途中の東京タワー、大通り(桜田通りか外苑東通り?)には
都電が走る町並み。それらのほとんどがCGである事にまず驚かされる。

鈴木オート所有のオート三輪にせよ、はたまた初めてTVや冷蔵庫が来た
エピソードなんていうのは、演出が上手いなあ、と思うし(当時って、
メーカーの補償制度ってなかったのかな)。

また例えば、夏に扇風機に向かって、あ〜って声を出してみたりとか、
大掃除の時に障子を破くのが快感だったり、また意味も無く家と家の
間の狭い隙間を通り抜けて、「探検ごっこ」をするなんてのは、自分が
小っちゃかった時にもやっていた事で、懐かしい気がしたり。

また、堤真一演じる頑固オヤジぶりとか、また薬師丸ひろ子のお母さんも
そして堀北真希演じる住み込みの六ちゃんあたりも、キャストが当時の
雰囲気を上手く出している感じがしたし。

なんだけど、なんとなく、どこか書き割りっぽい感じがしちゃうので
ある。
ラーメン博物館とか、ナンジャタウンとかの、レトロっぽいものを
並べてみました、って感じが否めないというか。
多分、その辺が泣けなかった理由の一つなのかなあ。

自分が泣けなかった理由としてもう一つ考えられるのは、この映画の誰か
に感情移入できなかったっていうのもあるかもしれない。
立場的には、多分、吉岡秀隆演じる茶川龍之介が身につまされるし、
一番近いんだと思うけど何となく、生活感がないというか。

だから個人的には、三浦良和演じるタクマ先生が一番近い感じなのかも。
その人々の暮らしをまぶしくは見られるけれど、決してそこには加われ
ない寂しさというか、切なさというか。

多分ね、この当時を生きていた人たちにとっては、同じような話は沢山
あったろうし、その人それぞれの物語があったことを、この映画は思い
出させてくれるんだろうな、と思うのだよね。

また例えば、家族みんなでコタツに入って、今だったらおじいちゃん、
おばあちゃんの若い頃の事を思い出しながら、この映画を見て一家団欒を
するっていうのが、この映画の正しい見方なんだろうな、と思うのだ。

同じく自分にも、小さい頃のエピソードなんていうのは沢山あるけれど、
それを一緒に語る相手と見ていない、というのが一番の問題なのかも
しれない。
やっぱりね、小さくてもあったかい我が家っていいなあ、なんて思うし。


ついでながら、この映画に描かれた人々がもし、現実に生きていたら、
なんて事を考えてみる。

映画の中で彼らが住んでいたと思われる場所は、東京タワーの近さ、また
都電が走っていたことを考えると、港区の赤羽橋とか、東麻布あたり?
(パンフを読んでいないので詳しくは知らないんだけど)なのかも。
近くに狸穴とかあるし。

その5年後、東京オリンピックの頃には、彼らのすぐ近くの頭上を、首都
高速が横切るようになり。
そしてまもなくして、都電が廃線になり、モーターリゼーションが発展
する頃には、鈴木オートも大発展を遂げているのかもしれない。

そして、もし今も彼らが生きているとしたら、六ちゃんが66歳くらい
だから孫は当然いるんだろうし、茶川龍之介は当時35歳だとすれば、
今頃は82歳くらい。鈴木オートの社長はそれより年上に見えたから、
今なら84〜86歳くらいなんだろうか。
いい余生を送ってほしいものである。

そしてあの悪がきたちが、団塊の世代だから、今頃54位なんだろうなあ。
彼らの何人かは、学生運動に参加したりもしたのかも。

そう考えると、決して遠い昔のことではないんだよね。
その時代を生きた人にはあっという間の出来事なのかもしれないけれど、
そのあっという間の風景の変化、というのが後から生まれた人間に
とっては、やっぱり一番の驚きなのかもしれない。



2005年12月11日(日) サイン会行脚の旅

日曜日、古田選手のサイン会に行った後、もう一件、内田樹×精神科医
春日武彦のトーク&サイン会。に行ってきた。
「健全な肉体に狂気は宿る」という本の販促を兼ねたトークショーである。

今回のトークテーマは「自分探しはやめよう」だったんだけど、ご本人たち
が述べていたようにそれは本を読めば分かる、ということでトークテーマ
は、色々とあっちこっちへと動いていったのであった。

内容の一部については、ウチダ先生のブログに載っているので、
興味のある方は、そちらを参考にしていただいて。

全体的な流れとしては、最近の現象について、ウチダ先生が気になった
事を、精神科医のカスガ先生がどう思うかについて聞いていく、という
感じであった。

で、ウチダ先生としては、今後日本の社会が階層化していくこと、
また、例えば改憲運動によって、戦争を外交の一手段にしようという
流れがある事に対して、その想像力の欠如や、コミュニケーションの
不全状態を嘆いているようだった。


最近、内田樹や、橋本治、そして糸井重里の本や話を聞いていて思うのは
その団塊の世代の人たちの、美意識の問題?である。

個人的には、あまり世代論というくくりは好きではないし、例えば団塊の
世代のほかの人たちは全く違う意見を持っているとも思うのだが、彼らに
共通して言えるのは、「今後の日本は果たしてこのままでいいのか(いや、
よくない)」という危機意識のような気がする。

今まで、自分達が大切にしてきた価値観みたいなものが、これからの日本
からはなくなってしまうんじゃないか、のような気分が漂っているという
か。

まあ確かに、最近のホリエモンにしろ、村上ファンドにせよ、今の日本の
趨勢は、古い価値観は壊して、生き馬の目を射ぬけ、というか、グレー
ゾーンというか、曖昧なゾーンがどんどんなくなっていってるし、それ
より若い世代は、何を考えているのか分からないようにも(メディア的に
は)見える。

個人的には、その美意識というか、価値観に共感するんだけど、でも
その一方では、全面的に何もかもが悪くなっている訳でもないんじゃ
ないかな、という気持ちもあったりする。
その辺についてうまくはいえないんだけど、まだまだ一筋の希望みたい
なものはあるんじゃないかな、という気もしていて。

もちろん、彼らも特に糸井重里などは、全面的に悪くなってる、なんて
絶望することからは、ほど遠い人たちであると思っているんだけど。

これが、仕事柄接することの多い、うちの父親世代でもある、70代位に
なってくると、感覚が違ってくるんだよね。
彼らは、敗戦による価値観の大幅な変化、というのを経験しているせいな
のか、この先、日本がどんどん悪くなったって、それが元で死ぬ訳じゃ
ないし、貧乏に戻ったって生きていけるみたいな開き直りが感じられて。

ま、もっともそんなに長生きする訳じゃなくて自分が生きている間がよけ
ればいいや、なんて気持ちも、もしかするとあるのかも知れないけれど。

で、じゃあ、自分と同じ世代になってくるとどうなるのか、といえば
今度はバリバリに仕事している人は忙しすぎて、それどころじゃない、
という感じになってきて。
そんな先のことを悠長に考えられて、(お前は暇で)いいなあ、位の嫌味は
言われてしまいそうである。

社会の階層化とか、下流社会とか、最近はいろんな言われ方をしている
けれど、私の近くの世代に関して言うならば、忙しく働いている人は
忙しすぎるけど、自分の仕事については不満だったり、一方そこから
零れ落ちて自分らしさを求めている人との間では、価値観が微妙にずれて
きている格差みたいなものが一番大きいような気もするのである。

でも自分は今のままだと下手するとキリギリスの生活だしなあ。
その辺、もう少し真剣に考えていった方がいいのかも。いやマジで。



2005年12月10日(土) 舞台「白夜行」

金曜日の夜、友人に誘われて演劇を見に行ってきた。
見てきたのはStudio Lifeの「白夜行・第2部」
もともと、自分が見に行く予定は全然なかったんだけど、友人が関係して
いる劇団の公演で、チケットが1枚急に余ってしまったために誘われて。
その友人に会うのも久しぶりだし、いいかと思い、行ってみる。

その劇団が、女性の役も含めて全員男性が演じている、という事と、
今回の舞台が第2部だということは事前に聞いていたんだけど、「白夜行」
が、東野圭吾の「白夜行」だとは予想していなくて。

ミステリーというか、サスペンスを途中から見てしまうのってどうなのよ
とか、原作読んでないのに、ネタバレかよ、とか、そういやこの話って
来年1月からドラマになるんじゃなかったっけ?とか、開演のベルが鳴る
直前に思考がグルグルと回転したんだけど、実際に劇が始まってしまうと
思いのほか面白くて。

2部構成で3時間超の舞台なんだけど、飽きずに最後まで見ることができ
ました。
演出・構成も上手かったと思います。

物語の内容に関しては、途中から見た人間がアレコレ言える資格はないし
ドラマや原作本を読んでください、という事で。
この舞台を見た後で、へー、あの主人公2人を山田孝行と綾瀬はるかが
やるんだとしたらどうなるんだろう?と興味を持ったので、見なかった
前半部分を特に楽しみにして、ドラマを観ようかな、と思ってみたり。

で、この舞台に関していうと、女性役も男性が演じる、というのがこの
劇団の特徴らしい、と書いた通りに、この作品のヒロインも、男性が演じ
ている。
日本には歌舞伎の伝統もある通りに、男性が女性を演じるのもそんなに
珍しくはないのかもしれないけれど、実際に見るのは初めてだったので、
どんな感じなのかなあ、と興味をひかれていたわけですね。

で、舞台の冒頭、ヒロイン・雪穂役の人が出てきたときは、本当に男性?
と思うくらいに綺麗な女性が出てきたので驚いたけど、段々とそれにも
慣れてきて。

ただ、今度はこの役を男性が演じるのは、何故だろうというか、女性が
演じたらどうなるんだろう、なんて事を考えながら舞台を見ていた訳だけ
ど、たぶん、女性が演じるともっと生々しくなってしまう事をこの演出家
は嫌っているのかなあ、なんて事を考えていたのである。

友達に聞いたところ、この劇団の演出家は女性らしい。
だからなのかもしれないけれど、男性役の方は、やっぱり女性が見た男性
像っぽいところがあるように思う。
それは例えば、少女マンガ(というか女性の作家が書くマンガ)に出てくる
男性像が、結構女性から見た、理想像になっていたり、その他の人は結構
ステレオタイプに描かれていたりするのと同じように。

もちろん、それは男性が描く、女性像にも同様のものがあると思うんだけ
ど、その辺は私が男性なので、本当の部分では何ともいえなかったりする。
だから、何も女性が描く男性は嘘くさいなんて糾弾するつもりは全くない。

ただ、何と言うかこの演出家さんは、生々しさというのはあまり好きでは
ないのか、もしくは題材自体が生々しいものだから、あえて生々しくない
ような味付けをしたのかな、と思ったのである。

お話自体は、結構重い、というか友人曰く昭和的な話だから、これを大映
的な味付けにもできてしまうんだけど、この舞台では、女主人公雪穂と、
男主人公亮司、そしてそれを追う刑事の笹垣の3人を縦糸に、下品になら
ずに上手くまとめている印象があったし。

救いのない話にもできるのを、男性が女性を演じ、女性演出家が男性を
演出することで、ちょっと人工的な味付けにすることが上手くあっている
ような気がするのだ。
原作がどんな味付けになっているのかは、読んでみないと分からないんだ
けど。
とりあえず、貴重で面白い体験でした。

本当にTVドラマはどんな感じになるんだろう。
「砂の器」みたいな感じになるのかな。



2005年12月09日(金) ほぼ日手帳の秘密

今回紹介するのは、一冊の本と手帳。
それが「ほぼ日手帳の秘密」 と、「ほぼ日手帳」
実は、私もこの1年、ほぼ日手帳を使い続けていたのである。

この日記をお読みになられた方はたぶん気付くように、私は「ほぼ日刊
イトイ新聞」の愛読者である。もしかするとファンなのかもしれない。
ただし、ファンだから無条件にほぼ日手帳を(グッズを買うように)
買って愛用している、という訳ではなく。

ただ単純に、この手帳、使いやすいのである。
私は、結構文房具が大好きな人間で、時々、用もないのに東急ハンズや
ロフトや、銀座の伊東屋をぶらついたりしている。

そこで気になった文具はまず、使ってみるし、またノートとか、手帳や
リフィルなんかにも、ちょっといいかも、と思うと思わず手を伸ばして
しまう。大半は使い切らずにそのまんまになってしまったりもするんだ
けど。

私がほぼ日手帳を使う前は、5穴のA6だっけ?のミニシステム手帳を
ずっと使っていた。
月間スケジュールと、週間スケジュールのお気に入りのリフィルを使って
それに、同じサイズのメモパッドを持ち歩き、気がついた事はメモして、
そのままバインダーにはさむ、という使い方をしていたのである。

この方式、一番大変なのは、毎年毎年、リフィルを入れ替えて整理しな
きゃいけない事である。
そのまんま、捨てるのはもったいないし、かといって見返したりするほど
有効に使えていた訳ではないし。
その度に、整理用のバインダーを買うのも、何だかなあ、と思っていた訳
ですね。

ただしそれが昨年になって、ちょっと変わってしまったのは、その自分が
気に入っていたリフィルと、メモパッドが発売中止になってしまったらし
く、今年の分が手に入らなくなってしまった事だった。

そこで、来年の手帳はどうしようかなあ、いっそのこと携帯をPDA代わり
に使えばそれでいいかなあ、と思っていたときに、ロフトでほぼ日手帳を
実際に手に取るチャンスがあり。

で、あ、結構使いやすいかも、と思い、今年1年試してみよう、と思って
今に至る。
でもね、ほぼ1年間使ってみて、本当にこの手帳、使いやすいのである。

ほぼ日手帳の特徴については、サイトの方が詳しいので、興味を持たれた
方はそちらを参考にしていただくとして。

個人的に気に入ったポイントは、3つある。
一つは、バタフライストッパーといって、二つに分かれたリングにペンを
さす事で手帳が開かなくなること。ペンの持ち運びに便利だし、また
かばんの中で手帳が勝手に開くこともなくなる。

もう一つは、やっぱり、180度パタンと開くこと。
ほぼ日手帳は、1日1ページという構成になっているんだけど、パタンと
開くことで、いつでも使いやすいし、参照しやすくなっていること。

そして3番目は、そのデイリーページが、薄い方眼のメモリがついている
ことと、予定を書き込むスペースと、フリーのメモスペースに分かれて
いること。

だから左側の予定スペースには、その日のスケジュールが書き込めて、
右側のフリースペースには、その日に思ったことや、本やTV番組を見て
印象に残ったこと、はたまたお店の連絡先など、その日の活動が書きこめ
るようになっていて。

で、このその日に思ったことをそこに自由に(充分なスペースに)書きこ
める、というのが結構重要なポイントで。

「ほぼ日手帳の秘密」の中でも、糸井重里が語っている事と重なるんだけど
人間、後からメモに走り書きした事を思い出したり、それがどこに書いて
あったか、ということを思い出すときに、時系列で検索できるのが一番
早いんだ、ということがこの手帳を使うようになって改めて感じることで
あり。
また、手帳自体がある程度の大きさを持っているので、後からパラパラと
振り返って見るときでも、どこに何が書いてあるのかが、すぐに見つけ
やすいのである。

これまた「ほぼ日手帳の秘密」の中でも、糸井重里が語っているように、
私もこの手帳を使うようになってから、読み返すことが多くなったので
ある。

ついでにその日食べたものを、上のTo Doリストを使って書き込んだり、
はたまた読んだ本のタイトルを書いたり、簡易出費メモに使ったりして
いるので、この1年の私の赤裸々な行動を、この手帳は全て知っていると
いうことにもなり。

そう考えると、この手帳は誰にも見せられないし、知られちゃいけない
もののような気もしてきたが。
まあ、別にそんな秘密の生活を送っている訳ではないけどね。

でも、その意味で言えば、この手帳はもう一人の自分みたいなものかも
しれないし、手帳を使うこと自体が、自分とのコミュニケーションの一つ
の方法なのかもしれない。

糸井重里自身は、「ほぼ日手帳の秘密」の中で、こう語る。


手帳のよさっていうのは、自転車のようなものだと思うんです。

自転車って、自動車ほど遠くには行けないけれど、自分の行動範囲は、
軽く倍くらいにはなりますよね。子どものとき、自転車が自分のものに
なったときのショックってすごかったでしょう?隣町まで行けちゃうし、
隣町を通り越してその隣の町くらいまで平気で行けちゃう(略)。

大げさにいうと、それは生きる範囲を変えてしまう。ネットワークを
変えるわけだし、発想そのものを変えることだと思うんです。行ける範囲
が延びる。出会う人が増える。それを前提に、また新しいものごとを考え
ることができる。(略)

人と道具の関わりについて考えるとき、「子どもにとっての自転車」という
のは理想のひとつだと思うんです。見る景色の新しさとか、爽快感とか、
「オレは速い!」って思う感じとか、感覚の部分まで含めて、道具が、人力
の枠を広げるっていうのかな。そういうことが、ぼくの手帳やメモについ
ての考え方の根本としてあります。



「ほぼ日手帳の秘密」は、ほぼ日手帳についての本で、ほぼ日手帳を実際に
使っている人たちのサンプルを多数掲載している。それは、人の秘密を
のぞく、みたいにちょっと楽しい事である。

現在、書店に行くと、仕事ができる人の手帳術、みたいな本が沢山並んで
いるけれど、この「ほぼ日手帳の秘密」に、そういう仕事が出来るための
ノウハウを学ぼうとしても、徒労に終わってしまうかもしれない。

でも、手帳との付き合い方は、人それぞれの一番使いやすいやり方があれ
ばいいんだと思う。
人それぞれ、こだわりがあるからこそ、手帳に何かを書き込むことが
楽しかったりするような気がするし。

私の場合、今後このほぼ日手帳が何冊かたまった時に、文庫本の本棚の
秘密の場所に置いといて、時々読み返してみるのも面白いかなあ、なんて
考えて、来年もまたこの手帳を使ってみようと思っている。

ちなみにほぼ日のサイトで、今日より「ほぼ日手帳」の追加販売が開始
されているので興味を持たれた方は是非。
もしくは、まだ、全国のロフトでもあるかもしれないので、一度
手にとってみたいと思う人は、行ってみてもいいかもしれない。



2005年12月08日(木) エリザベスタウン

今回は映画ネタ。観てきたのは「エリザベスタウン」
この映画を一言で言うなら「東京ラブストーリーの赤名リカと、アメリカ
の変な濃さが好きな人は結構好きかも」である。そしてその両方が好きな
私は「結構好き」

物語の冒頭、自分が8年間も心血を注いで開発したスニーカーが、1000億
円もの損失を与えてしまい、会社をクビになったオーランド・ブルーム演
じるドリューは、自殺をしようと思うんだけど、その直前、自分の携帯
電話が鳴る。彼の父親が、旅先で突然死んでしまったので、遺体を引き
取ってきてほしい、と家族に頼まれるのだ。

そして彼は父親の生まれ故郷、ケンタッキー州のエリザベスタウンへと
向かう。
その途中、自分ひとりしかいない機内の中で、ドリューはキルスティン・
ダンスト演じるキャビンアテンダントのクレアと出会い・・・という話。

予告編を見た感じだと、その後、彼が父親の遺骨と共にアメリカの土地を
ドライブすることがメインのロードムービーなのかと思っていたら、さに
あらず。

この映画の大半は、彼の父、ミッチの葬式の話だし、その彼の生まれ故郷
アメリカ南部の田舎町の、強烈な人々との出会いとふれあいの話である。
そして、その彼らが、なんというか無茶苦茶濃くて、変なのである。

そしてこの映画の主人公、ドリューがそうであるように、観客の私たちも
ストレンジャーとして、この映画の間中、そのアメリカ南部を疑似体験
することができる。
だからある意味では、この映画、「ロストイントランスレーション」の
南部版といえるかもしれない。

彼らが、話の折々に「カリフォルニアが」というのがなんと言うか、面白
くて。つまり同じアメリカといっても、一生その小さな田舎町で過ごす人
たちにとってみれば、カリフォルニアは、というより都会的なものは、
全然違うんだなあ、ということがわかったり。

この映画は、そんな小さな描写やエピソードの集まりで構成されており、
そのおかげで私たちは、田舎町をリアルに体験できるだけでなく、彼の
父親がどれだけその架空の世界で愛されていたのか、という事もまさに
体験させてくれるように思う。

で、なぜそこに東京ラブストーリーの赤名リカが?というと、キルスティ
ン・ダンスト演じるヒロインのキャラクターが何に似ているかな、と思っ
たら、赤名リカに似ているんじゃないかな、と思ったわけですね。
もっとも、彼女ほど性に奔放ではないとも思うけど。

映画の中での彼女は、はっきり言って出来過ぎ・・・だとは思うんだけど、
でも、深い悲しみに囚われてしまった人には、彼女のようにいい感じで
感情をかき混ぜてくれる人って必要だよね、と思うわけで。

また、彼女の性格を現わすデティール作りもうまいな、と思うのは、
たぶん、彼女自身が普段から自分の寂しさを感じている人だから、人の
寂しさや、悲しさに対して敏感だったんだろうな、という風に感じられる
キャラクターになっていて。
そうでなかったら、自分の事をsubstitusion=代用品なんて言わない
だろうし。

自分の人生の中でも、心を揺さぶられるような女の子って、彼女みたいな
タイプが多かった私にとっては、なんとなく、わかるわかる、みたいな
気持ちになったわけですね。
この映画を観て、個人的にキルスティン・ダンストの好感度はアップした
のである。

また、今回自分がアメリカを旅行していた時でも、ホテルに帰って一人に
なってホッとした瞬間に、無性に誰かに話したくなる時ってあったりした
し。幸い向こうで知り合いの人がいたおかげで、ほんのつかの間、話相手
になってもらって助かったし。

で、この映画に関して言えば、その彼女が、ドリューに対して行なう様々
なアイデアがすごいな、というか、監督と脚本家はよくもこれだけのアイ
デアを思いついたな、というのがすごいと思うのだ。

最近、日本のドラマがいまいちつまらない、と感じられるのは、もしかす
ると、それだけのアイデアやデティールを詰め込んでいないからなのかも
しれない、なんて思ったり。細部に神は宿る、というし。

そしてこの映画では、それらの細かな描写が、映画を観終わった後では
必要だったよな、と思うのである。
それらの濃密なデティールがあったからこそ、この映画のラストが受け入
れやすくなっている、というか。

また、この映画の中で流れる音楽の選曲が素晴らしい。さすがは元音楽
ライター(@あの頃ペニーレインと)のキャメロン・クロウ監督だけあると
いうか、知っている曲から知らない曲まで、場面場面にあった選曲が上手
いなあ、と思うのである。

できればね、このサントラを買って、そして一人でドライブをしてみたい
なあ、なんて気になってみたり。
いや、予想していた以上に面白かったっす。
映画を観て元気が出たし、またアメリカに行きたいな、という気になり
ました。
DVDでたら、もしかすると買っちゃうかも。



2005年12月06日(火) 城島選手のできるまで

我が家では、東京新聞をとっているんだけど、火曜日特報欄に載っている
スポーツライター吉井妙子のコラム「スポーツ招待席」は、ひそかな楽しみ
の一つである。
今回のテーマは、ソフトバンクホークスからシアトルマリナーズへと移籍
を果たしたメジャー初の日本人捕手、城島健司選手についてであった。

中でも、特に興味をひかれたのは、入団早々のエピソード。
以下引用させていただくと、


来季からマリナーズ入りする城島健司が今、英語の特訓中という。最近は
日本人選手のメジャー移籍も珍しくないせいか、彼の移籍はそれほどの
ビッグニュースとして語られていない(略)

入団当時、エースだった工藤公康や武田一浩のブルペンキャッチャーをし
ていたが「お前は下手すぎて投げる気がしない」と拒否されても、「お願い
します。受けさせてください」と何度も頭を下げた。夜は毎日のように工
藤の部屋を訪ね、投手の心理を聞き出そうとした。城島が苦笑いしながら
話したことがある。

「もうストーカー状態。部屋にいるのは分かっているのに居留守を使われ
る。でもあきらめなかった。工藤さんに認めてもらえなければマスクはか
ぶれないので、開けてくれるまで部屋の前で待っていた」

そんな必死さが通じ、しばらくすると食事にも誘われるようになる。そこ
で、バッターを打ち取る術や投手の心理を教えてもらった。(略)



城島捕手が、日本でも有数のキャッチャーになった陰には、工藤投手の
コーチがあったことは割と有名な話だけど、簡単に教えてもらった訳
ではない、というのは、結構ビックリする話で。
工藤投手も何も居留守まで使わなくても(笑)とも思うけど、それだけ
食いついていこうというガッツがなければ、いかに才能に恵まれていたと
しても、メジャーに挑戦できるほどの実力はつかなかったのかもしれない。
でもそのおかげで城島選手の成長と共に、ここ2年は惜しくも日本シリー
ズに出場はできなかったけど、ホークスは99年以降、常にパリーグの優勝
争いに関われる球団になった訳で。

城島選手のメジャー挑戦に関しては、言葉の壁ももちろんあるけど、
千葉ロッテマリーンズのボビーバレンタイン監督が、成功する条件として
真っ先にあげていたのは、向こうの投手のクセとか、習慣になじむことを
条件に挙げていたようである。

でも城島選手は、昨年のアテネ五輪に参加したとき、自分たちの試合が
オフの時には、次に対戦するチームの試合をわざわざ観戦し、自分の目で
対戦チームの傾向と対策を探っていたらしいし、そのおかげで日本チーム
は、銅メダルを獲得できた、ともいえるわけで。

だから、この記事中にもあるように「プロ中のプロと言えるほど24時間を
野球にささげている」と評される彼の熱心さがあれば、きっとメジャーリ
ーグでも活躍できるんじゃないだろうか。

行った先が今季最下位のシアトルマリナーズで、しかも今年まで所属して
いた長谷川滋利投手がいなくなってしまったのは残念だけど、あの弱かっ
た(失礼)福岡ダイエーホークスを常勝軍団に変えていったように、イチロ
ー選手共々、来季の活躍を期待したいな、と思うのである。



2005年12月04日(日) 「話を聞く技術!」

今回は読書ネタ。紹介するのは「話を聞く技術!」
「インタビュー術!」の著書もある永江朗が、各界の名インタビュアーや、
人に話を聞く事を職業にしている人たちに、人に話を聞く技術について
インタビューをしている対談本である。
「インタビュー術!」とは、重なる部分もあるので、併せて読んでみるのも
面白いかもしれない。

この本に登場するのは、黒柳徹子、田原総一郎、糸井重里、小松成美、
河合隼雄などなど、TVや活字の世界で数多くの対談をしている達人たち
である。

本書で興味深かったのは、普段はインタビュイー(取材を受ける人)に脚光
があたるインタビューの名人たちが、一体何に気をつけて、また何にこだ
わっているのか、といういわば舞台裏の世界を少しだけ見せてくれる所に
ある。

例えば「徹子の部屋」が一切編集をしない事について、黒柳徹子はこう述べる。

 編集して面白いところだけ集めてしまうと、その方がどういう方か
わからないでしょう。だって同じ言葉でも、「うーん」と考えこんで返事し
たことかもしれないし、即答だったかもしれない。編集で「うーん」を切っ
ちゃったら、その方がどういう方か伝わらないでしょう?(略)
それともうひとつ、毎日編集したら絶対に雑になりますよね。

――そうなんですか。

 それはそうでしょう。あんな長いものを編集したら。40分の番組を作る
のに、60分撮って20分カットするのは並大抵のことではありません。そん
なことを毎日やっていたら絶対に雑になっちゃう。



また面白いのは、彼らが口を揃えて言うのは、取材対象者に対する配慮や
信頼関係を築くか、ということである。
それは、きつい突っ込みや仕切りの田原総一郎でもそうだし、また元警視
庁捜査一課の刑事が容疑者を自供に追い込む時であっても、である。

そんな風に、様々な立場の人に話を聞く技術について聞いているのにも
関わらず、並べて眺めてみると共通する部分が気付かされたり。
そして、おそらくそれは普段私たちが人に話を聞くときにも役に立つ知恵
のように思うのである。

もう一つ、この本の中で特に印象に残った部分は、糸井重里の項だった。
その中でインタビュアーの永江朗は、インタビューの技術だけでなく、
広告という仕事の中での、糸井重里の役割について掘り下げていく。

それは、例えば単にコピーを考え出して、プレゼンテーションを行なう、
といった単純なものではなく、もっとクライアントとのコミュニケーショ
ンという大きさを持っている事がわかる。

そしてその上で、糸井重里はこう述べる。

――それは最終的には、この会社をよくしてあげよう、というのが目標
ですか。

 かつてはそう思っていたんです。でもいまは、その会社がよくなること
で、その会社に関わる人だとか、大げさに言えば社会全体にいいことが
あるということがないと。その会社がよくなることが結局みんなのために
なるというようなね。古くさい言葉でいうと徳に結びつかないというか、
それがないと説得力がないんですよ、いまは。サラ金なんかでも、本気で
サラ金にできる本当にいいことって何だろう、といちばん真剣に考えたサ
ラ金がいちばんうまくいきますよ。そこまで突っ込んでいかないと、僕ら
の仕事も今はうまくいかないでしょうね。



例えば、マンション耐震強度偽装の関係者も、そんな意識があればよかっ
たのかもしれないのにね、なんて思うのである。



2005年12月02日(金) 大人になるっていうことは

少し前のほぼ日刊イトイ新聞の「おとなの小論文教室」に次のような
内容が載っていた。「おとな」というシステム

その中で、特に共感した部分を、備忘録的に引用しておく。


子どもはおとなから愛を与えられ、
おとなは、自分で愛の循環をつくり出す。
そう仮定したら、やっぱり、そのしくみが入れ替わる、
思春期は、精神的にきついなあ。

いま表参道で暮らしていると、
ここは恋人たちの街なのか、いやでも
手をつないだカップルに、次々でくわす。

以前は、あつくるしいと思っていたカップルを、
いまは、「うまくいけよ」と祈るような目で見ている。

カップルは、愛の製造機。

一組の好きあった男女が一緒にいるというのは、
つくづくよくできたシステムだな、と思う。
愛し、愛され、そこでは、愛が製造され、循環する。
恋人たちが幸せになってもらわないと困る。

いっぱい幸せになって、いっぱい愛を製造して
周囲におすそわけしていってほしい。

そうか、おすそわけする分を、
生まれた子どもに注ぐのだな、
そう考えたら、結婚というのも、
すごくよくできたシステムだ。

父さん、母さんで愛をつくり、
つくり出した分を、
自分ではまだ食っていけない子どもに与える。

結婚という形をとっても、この、
愛の循環がつくれなかったら、
おとなになりきれず。

結婚ではなく、
友情とか、ご近所とか、その他の人間関係や、
仕事でも、愛し、愛され、つむぎだした愛を
必要な人に注ぐ、という循環がつくれたら、
おとな、ということになる。

『大人というものはどんなに苦労が多くても、
 自分のほうから
 人を愛していける人間になることなんだ
 と思います。』

私は、ここへ来て、重要なことに気づいた。

おとなになったら、「愛する対象がいる」ということだ。
それは、男女の愛には限らないのだけど。

愛されたくても愛を与えてもらえない子供と、
愛したくとも、愛を注ぐ対称がないおとなと、
どっちが苦しいのだろう?

すきっ腹もカリカリするが、
出るものが出せない、というのも、閉塞感がある。

「愛されるよりは愛したい」という人が、
出しどころをまちがうと、
一人っ子を溺愛しすぎる、というような、
過剰になったり、いびつになったりする。

「おとな」になるっていうことは、
自分に必要な愛は、自分でとってきつつ、
ちゃんと自分から愛を注ぐ対象を見つけ、
そこに必要な愛を注いで、
細々とでも、それを、
循環して続けていけるっていうことだ。

おとなになるって、やっぱりすごいことなんだ。



うん、そうなんだろうと思うんだよね。

「おとなになったら、『愛する対象がいる』ということだ」というのは、
まさしくその通りだと思うのだ。
そしてその「愛する対象」との距離感というのが一番重要なことでもあり。
それが近すぎても、また遠すぎてもいけなくて。

無関心にも溺愛にもならず、適度な距離感を保ち、そして見返りを相手に
求めないような愛し方ができるのが、「いい大人」なのかもしれないし、
できればそんな大人になりたいな、と私も思うのである。



2005年12月01日(木) はっぴばぁすで


そんな訳で本日、めでたくも36歳になった。
36歳という年齢は、私にとっては一つの区切りの年齢になる。

母親が亡くなったのが18のときだったので、これからは母親がいなく
なった時間の方が長くなる訳ですね。
といっても、生後2〜3年の記憶はほとんどないわけで、その意味ではもう
母親のいない人生の方が長い訳だけど。

今でも時々、母親の事は思い出したりはするけれど、でももう面影とかは
ぼんやりとしてしまったように、18年前の自分が、何をどう感じていたの
かっていうのは、今はもう思い出すのも結構難しかったりする。

でも、18歳の自分にとって、18年後がこうなっているとは、全く予想も
つかなかっただろう。
そう考えると18年前なんて、ほんのちょっと前のことのような気がする
けれど、随分といろんなことがあったんだなあ、なんて事を思う。

同じように、36歳の自分にとって、例えば18年後の自分がどうなっている
のかなんて事はまるで想像がつかなかったりする。
18年後は54歳かあ。その時の私は一体どんな暮らしをしているんだろう。

でも、36歳の自分は、18年前のまだ、これから何が起こるかもわからない
自分にとっては、自信をもってこう言える。
これからの君の人生には、想像もつかないようないろんなことが起きる
けど、でも大丈夫、元気に生きてはこれたから。だから頑張れと。

そして私自身は、次の区切りに向けて、元気に足を一歩踏み出していこう
と、区切りの日に思ったのである。


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