店主雑感
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2002年06月10日(月) 神様って?

 子供の頃、神様の存在を考えてみなかった
者はいないだろう。

 いままで、子供が聞いても納得できそうな
説明はたった一つしかなかったように思う。
 カート・ヴォネガットというドイツ系アメ
リカ人作家が書いたものだ。

 喫茶店の親爺のうけうり知識だから、どこ
か間違っていても笑って聞き流してくれると
有難いが、おおよそはこんな感じであった。

 「いままでに、一回でも神様の姿を見たこ
とがある者」
 「いままでに、一回でも神様の声を聞いた
ことがある者」
 「これはもうしょうがないから、全員除外
する」
 「しかし、それ以外のまだ一回も神様の姿
や声に接したことのない者が、神様を念頭に
置いて生きているとしたら、これ程危険な事
はない」
 「何故なら、もし仮に死んで神様の前に引
き出された場合、会ったことも指示を受けた
こともないのに、貴方を信じ、貴方の教えに
従って、これこれのことをしました、あるい
は、しませんでしたと言うことになる」
 「自分なら本物の神様を前に、絶対、そん
な立場に置かれたくはない」

 世界中の子供達にこれこれの部分を「キリ
スト教徒を何人も殺しました」とか「イスラ
ム教徒を大勢血祭りにあげました」とかいっ
た言葉に置き換えて説明し、その上で、何時
神様と出会っても、はじめましてと挨拶でき
るような生き方さえしていれば、それまでは
むしろ神様のことを計算に入れて行動しない
方が良いと教えてあげるのはどうだろう。

 どうせメディアの発達した今日、世界中の
大人が実は神の存在などこれっぽっちも信じ
ていないことは日々のニュースの中で、いや
でも子供に見えてしまう。

 神父の身でありながら小さな子供に性的虐
待を加えるような人間が、分かっているだけ
で、何百人もいるのである。
 いつか、本当の神様と遭遇するかもしれな
いという心配が頭のほんの片隅にでもあれば、
金輪際できっこない舐めたまねである。

 核兵器を左右する立場にある大統領が聖書
に手を置いて、執務中女子大生と性的行為に
及んだかどうかを証言したかと思えば、今度
はカウボーイ気取りで正義の裁きを下すと言
って、お尋ね者の首に賞金を懸けて見せる。
 生死は問わないし、密告するだけでも良い
らしい。

 一方、聖戦を叫んでいた兵士も実は給料で
雇われていたに過ぎず、失業して解散してし
まえば、瓦礫の街にはいつのまにかテレビが
出現している。

 これではどうしたって、大人達が本気で神
を恐れている様には見えない。


2002年06月09日(日) 神の領域

 無期とは期間をあらかじめ定めないという
だけの意味で、10年もすれば仮出獄の可能
性がある現在の無期懲役にかえて終身刑を導
入し、段階的に死刑廃止を目指そうという動
きがある。

 文字通り一生刑務所に入ってなさいという
終身刑の導入は大いに賛成だが、ひきかえの
死刑廃止はいただけない。

 「汝の隣人を愛せ」とは神の教えである。
 しかし、神が人間に求めるのはつねに困難
な途である。
 人間が容易く行い得るようなことを神様が
わざわざ教えはしない筈である。
 非常に難しいことだからこそ神様も説くの
のであろう。
 それをいとも簡単に安請け合いして、他人
の子供を惨殺したような人間に「罪を憎んで
人を憎まず」などと得意顔で慈悲を垂れるの
は、むしろ神を恐れぬ不遜な行為と言える。

 わけの分からぬ妄想や身勝手な動機から殺
人を犯すような人間に一切の容赦があっては
ならない。当然極刑をもって臨み、その執行
に際して言えるのは「たとえどんなに恐怖と
苦痛の伴った死を与えてもなお充分とは言い
難いが、もしも、心の底から悔いて赦しを乞
うなら、ひょっとして、神様だけは赦して下
さるかもしれない」という事である。

 人間が赦すことができる範囲は限られてお
り、これを超えてしまえば社会を逐われるの
は当然である。この厳しさがあってこそ、は
じめて愛や慈悲を論じる余地もでてくる。

 人が人を裁く事など出来ぬというのは偽善
者のたわごとに過ぎない。

 人が人を裁かなくてどうするというのか。
 無論人間は過ちを犯す存在である。
 そんなことは百も二百も承知の上で、断固
として人が人を裁くのである。
 又、人間が赦すことのできる範囲とは一体
どこまでで、一体誰がそんな線をひけるのか
と問われたら、「もちろん私がだ」と誰でも
が答えられるようでなくてはいけない。

 神に代わって裁くのではない。
 あくまでも人間として裁くのである。
 神と違って、ちっぽけな人間にはとうてい
赦し難い隣人はたくさんいる。
 たとえ神の教えに背くことになろうとも、
人間の責任において断罪し、その上で神の裁
きに我が身をゆだねれば良い。

 人間は間違えるから神の裁きに任せるとい
うのではなく、人間が最善を尽くし、なをそ
れでも間違えてしまった場合、そこから先を
神の手にゆだねるのである。

 おそらく、世の中には罪を逃れてほくそ笑
む者が数えきれないほどいるだろう。不幸に
して冤罪に恨みを呑んで死んでいく者も後を
絶たないだろう。
 しかし、そこは神様がご存じで悪いように
はしないはずだと思えばそれで良い。
 誰でも一度はそんなふうに子供の頃、考え
てみたことがあるはずだ。


2002年06月01日(土) 近代

 歴史上どの時点から近代と呼ぶのか自信は
ないが、普通はフランス革命、人権宣言、産
業革命以降を言うのではないかと思う。

 産業革命以前の世界というのは簡単に言っ
てしまえば、より多くの人間を食べさせるこ
とが出来るグループが他のグループより優位
に立つという構造であり、そのための食料増
産と領土の保全拡張であった。

 おりしも、数の上では多数派の食料増産チ
ームが少数特権階級の領土保全拡張チームの
腐敗と搾取に対して、いい加減うんざりしは
じめた矢先に産業革命は起る。

 技術革新によって食料や生活物資の生産に
専門的職人技を必要としなくなったのと同様、
近代兵器の出現は領土の保全や拡張に必ずし
も、かつての武力担当者を必要としない状況
を生み出した。

 以後、ヨーロッパの強国は国民皆兵による
動員力と自給量を凌駕した生産力にものをい
わせ、市場獲得と産業資源獲得の一挙両得を
狙い、アフリカ、アジアへ争って植民地支配
を押し進める。

 やがて後発の新興勢力も市場獲得に動き出
し、二度に渡る世界大戦が起こる。

 そして、この二度とも、国外に市場が欲し
いてんでは本来新興勢力であるはずのアメリ
カは途中まで中立を決め込み、新旧両勢力が
ある程度ラウンドを消化して疲労する頃合い
を見計らっては、口実(一度目はドイツ潜水
艦による客船撃沈、二度目は言わずと知れた
パール・ハーバー)を設け、旧勢力に恩を売
りつつリングに乱入、新興勢力のライバル達
を一掃してしまうという、ギャングでもちょ
っと顔が赤くなるような汚い手をつかい、ど
さくさまぎれにソビエトが手を出そうとする
と、今度はいきなり、禁じ技原子爆弾を炸裂
させて、ゴング終了である。

 世界がようやくダメージから回復して、起
き上がってくる頃には、アメリカ一人がすっ
かり水をあけており、その差は容易に挽回で
きない。

 そうこうするうちに、アフリカ、アジアも
次々と独立を果たし、民俗自決、内政不干渉
を唱えるようになる。

 技術の進歩は更なる余剰製品の供給を促す。

 最早、そうそう都合の良い新規市場獲得が
望めない以上、市場内の需要を拡大しないか
ぎり供給過多に陥り、製品価格は暴落せざる
を得ない。

 市場の規模が同じままで、需要の拡大を計
るには人間一人一人に、いままでの五倍、十
倍消費してもらう他はない。

 そこで登場するのが個性的で自分らしい生
き方という手品か魔法のような解決策である。

 昨日、自分らしさを表現できたライフスタ
イルも今日は充分自分らしさを表現している
とはいえない。
 何故なら昨日のあなたと今日のあなたでは
すでにちがっているから。
 あなたという人間は常に新しく生まれ変わ
っているのだから。

 近代とは人生の減価償却項目に旧式化、陳
腐化という資産価値下落要素を盛り込んで、
つねに新たな投資を促すシステムが誕生し、
確立した時代といえる。


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