あお日記

2002年11月30日(土) 海水浴


 これも時期は前後すると思うが、まだ十代だった夏に2年連続で海水浴へ繰り出した。

 高校を卒業してすぐの夏は、ここで書いたように、嶋さんに対する自らの処遇を考えている時期だった。そんな折に舞い込んできたタケダの誘いで鎌倉へ行くことになった。
 実は当日のことについては余りよく覚えておらず、もちろん嶋さんとの因果なども含めた私の心の内の状況など説明のしようもないし、それが正確にこの年のことだったかすら記憶の中では特定できないでいる。

 早朝からラザとタケダの3人で電車を乗り継いで鎌倉駅に降り立ったのが10時頃だっただろうか。天候に恵まれて午前でも陽射しは強く、同じ目的の人間の列が断続的に海岸まで連なっていた。

 思い出せることは波が比較的強く、そのせいで妙にはしゃいでいる自分がバカみたいだったことと、早めに切り上げて帰宅の途に着いた列車内で泥のように眠りについたことくらい。
 私が世間を厭世的に見て自分の位置から一線を引きたがる心境の中に彼ら友人たちも同じ存在として埋没しなければならないその矛盾に、私はとても申し訳ない気持ちでいた。今振り返るから分かることなのだが、それはただ単に私の判断に誤りがあっただけだった。どうしようもなく自堕落な考え方を続けていた無気力な自分が、その自分に打った楔を忘れてはしゃぐことができたのも気を許せるであろう人間が側にいたからである。それはその後10年以上を経過してもなお続いている人間関係が証明している。


 逆に私の中で消えてしまった人間関係もあって、タケダたちと行った次の年は当時のそんな友人たちと一緒に車で伊豆まで出かけたのだった。当時よく遊んでいた勝くんと幼なじみのFである。
 あの日はまだ日の昇らない暗いうちから出発して、海岸に着いたのは早朝だった。海の風はまだ冷たくて、海の家で仮眠していても最初のうちはゴザに丸まって眠っていた。あの時は私が早々に飽きてしまって、昼過ぎには2人を促して早々と帰宅の途についたのだった。私以外はひと夏のアバンチュール的なものに思いを馳せていたようだが、それなら私を誘った時点で大失敗だ(笑)。


 あれから10年ぶりくらいに行った海水浴が彼女さんと娘さんの3人で行った伊豆旅行だった。それほどの時間が空いたのは、自分が痩せているため肌の露出が多い水辺のレジャーに消極的だったことが主な理由ではあるが、本当のところは単に人間関係が希薄になっていっただけのことだ。いや、自分でそうしていっただけのことだった。気付いた頃には恋愛に急ぎすぎる自分がいて、保険もかけずに玉砕を繰り返すようになった(笑)。とてもじゃないが海水浴に誘い出すまで至らないのである。まあそんな姿は自分を裏切れない様であるので特に悔恨を感じてもいないのだが、目の前の関係の保守を望むだけなら他にやりようがいくらでもあることは分かっていた。長いこと私はその方法を実践しなかった訳だが、ようは出来なかったのである。それは私が私だからだ、ということを教えてくれたのが彼女さんだった。


今年も海水浴を予定している。今から心待ちである。





2002年11月29日(金) ドライブ

 時期は前後するが、高校を卒業して数ヶ月たってから免許を取得したラザの運転で、ミルと私と3人で時折深夜のドライブに出かけたものだった。今思うと大抵が南に向かって繰り出しており、たまに浮気をして山方面に繰り出して中央高速を走行中に大雨に降られてマジで恐い思いをしたことを憶えている。

 申し合わせをした訳ではないが、これといって目的地を設定せずに車を転がしても、行き着く先はだいたい横浜だった。それは近い過去に我々がやり残したことを確認するような、自分に対する悔恨と、意思に関係なく流れていく周囲の時間に対応しきれないで戸惑っている若かりし頃の我々、その正直な姿だったのだろう。横浜という名と土地の持つ風が変化した訳ではないのに、電撃的に去っていったいっちゃんの存在が我々をその地に縛りつけたという物言いがあながち間違っているとは言い切れない。少なくともその蜜月が永遠に続くと勘違いしていた私は、彼女という個人が去った衝撃を一般的な人間に対する厭世観に結びつけることくらいしかできないまま、そうなったことの理由に興味が向くこともなく依然として高校時代に立ち止まった場所から動けずにいた。


 そういった具合のドライブも1年余りが過ぎ、そしてラザがいっちゃんから手を引いたと同時になくなっていった。その後もラザからは不定期に連絡があって周さんなどと一緒に外へ繰り出す誘いを受けたが、ことごとく私は断ったと思う。記憶の中にその理由を定める術はないが、いよいよもって私はそういう時期に差しかかってきたことは確かだった。それはこの時期の友人たちの記憶が極めて薄いという当時の自分の状況を現す何よりの証拠だ。




2002年11月28日(木) 告白を辞す


 ハマちゃんに会う目的を彼女自身は勘違いしていたので、結果的に私は救われた。いや、大人として社会で生きていくうえではどちらかといえば喜ばしいことではなかっただろう。自分の気持ちに対する責任の回避を繰り返していくうちに、まったく実行力の伴わない行動力ほどむなしいものはない。

 当時のハマちゃんはまだ我々の仲間内で起ったいくつかの事件について知らされていなかった。彼女としてはすでに仲間として認知もされそういった多少の自負もあったのだろうが、ポロッと口を滑らせたのが誰かは知らないが、そのおかげでたまたまそんな時期に連絡して割を食ったのがミルであったのだろう。ただそれがもし私であったなら彼女は私を同じように追及しただろうか? というとそうでもない。結局私はそういった対応の違いに無意味な嫉妬心を感じていたのだろう。今思うとそういった感情をぶつけ合ってこそ手に入れられるのが私自身が欲しかったものだったのだが、そこまでに至らない引き際というかあきらめの早さは褒められたもんじゃない。ハナから私の中で美化された嶋さんといっちゃんの存在は確実に私の中で有効だった。他の人間に目が向かない理由をそこへ求めたくなかった私が、何度か思い余って半端に行動した事例の記念すべき最初がハマちゃんだったのかもしれない、とっても失礼な話だが...。


 会う前は、彼女の応対次第では告白も辞さないような? くらいの強硬な鼻息だったのだが、意思も目的も手段も軟弱な上に、意に染まず部室に周さんと住吉の姿があっていっこうにサシの状況が作れないことに気持ちが萎えたのだった。この時ばかりは私と目を合わせようとしないハマちゃんの申し訳無さそうな態度に反発を感じることもなく、彼女自身がその話をしたくないという意図を十分理解した。そして何事もなくその日は去った。


 後日、ハマちゃんから詫びの電話があった。ここで話をしたことが色々と彼女と打ち解けていくことに繋がっていくのだが、残念なことに、私の無気力の加速度に抵抗できる気持ちにはならなかった。知れば知るほど彼女を見失いそうで、それは私自身を映す鏡でもあった。




2002年11月27日(水) 呼び出し


 私が高校を卒業して早二回目の文化祭がめぐってきた。今思うまでもなく、かなりの度合いで私はまだあの高校に、あの部活に依存していた。新しい環境、新しい人間関係など私の中で無いに等しく、持ち前の厭世的な性格も相まってか、目の前にある既存の人間関係にも手探り状態。結局私は長いこと周囲の異なった考え方に対して自分の意見を述べることも無く双方に顔が立つような妥協を繰り返してきた。そういった利害の衝突を避けてきた私が「無害」と呼ばれるのは当然といえばそうで、今振り返ってみるとあまり喜ばしいことでもない。

 この年の文化祭前に私はハマちゃんに電話をした。それほど頻繁ではないものの、彼女とは慢性的に連絡の取り合いをしていたように思う。ただ私はミルほどマメではない。彼に対して私が理解できないことのひとつがこの「女性だけには連絡マメ」といったところだった(笑)。本人によると「自分から連絡しないと向こうからは来ない」からであるらしい。まあ確かにそれは真実であって、当時は妙に納得もしていた。彼の無害性は私と同等と思っていたが、周囲が同じように感じていたかどうかは疑問である。彼に対するそういった誤解を信じていた当時の私はそれを快く思ってはいなかったが、本人の気にするようなことでもなかったようだ。彼から入ってくる情報は当然のように女性のものばかりであったが、信憑性においては間違いはなかったようだ。それはまあ語った女性本人が素直な人間たちばかりなのと同じ意味だ。

 私からの呼び出しに意を決めかねているハマちゃんの息遣いが受話器の向こうから伝わってきた。敏感な彼女はそれがただ事でないことを察してか珍しく口数が少なくなった。ただそれが的を射ていないのがハマちゃんたる所以だ。こうと決めるとひとつのことにとらわれがちで思考範囲が狭くなるのは当時の私と似ている部分もあったろう。だからこそ私は彼女に目が向いたのだろうなぁ。
 
 授業が終わってから部室で会う約束を取り付けて、受話器を置いた。もちろん私はハマちゃんとサシで話すつもりで会う日の来訪者の予定も彼女に確認したと思うのだが、そもそもあの部室で2人きりになるのは無理があるのだ。そのあたり、私はツメが甘い(笑)。




2002年11月26日(火) _/_/_/ 夢 _/_/_/


 幼い頃に経験した甘酸っぱい気持ちと同居していたほろ苦い無力感。どうしようもなく私は子供で、その人の前では言葉を発することさえままならない、視線を交差させることすらできないで終始うつむき気味な自己主張のない少年だった。人間の持っている基本がそれほど劇的に変化することなく体だけ成長したような私だが、とりあえずそんな傾向は嶋さんの頃あたりまでで、それ以降はささやかながら片思いの相手にコミュニケーションを求めるようになってきた。どちらかといえばそれはただ単に人間が大人になっていく過程で得られる「成長」というやつであって、社会生活を営む上で当然身につくべき能力なのだろう。


 彼女さんと付き合うようになってから早3年目に入った。私は就寝時にそれほど夢を見るほうではないが、2年目を過ぎたあたりから時折同じような夢を見るようになった。そこには私の望んでいる全てが凝縮されているかのように穏やかで、限りない幸福感で私の気持ちを満たしている。もちろん私は今現在自分が持っているその幸福を否定する気はないし、このままゆっくりと形を変えつつもその本質が意識の永遠まで続くことを望んでいる。

 実際のところ私はいまだに彼女の娘さんと上手くコミュニケーションがとれないでいる。その全ては彼女さんを介してしか機能していない。そんな状態に気持ちが落ち込んでいたころもあった。なんといってもこの恋愛で私が手に入れた財産はささやかながらも「前向き」な気持ちだと思っているのだが、そんなバカげた落ち込みを徐々に駆逐していこうと思ったあたりから、同じような夢を見るようになった。


 私の夢は他の人間からみれば他愛のない小さなものでしかない。ただ私はそういったものを確実に感じるようになった自分をとても誇りに思う。そういった穏やかな夢を手に入れるために頑張ろうと思う自分が存在する不思議はもうすでに過去のものだ。この日記を書いていく過程で感じた自分は昔も今もそれほど変化などしていない。結局のところ私はこの両手に自分の望む幸福をいっぱい欲しかった。大切な人を想うことの幸福を。大切な人に想われることの幸福を。




2002年11月25日(月) ミルの憂鬱


 徐々に交友の幅が狭くなった私があえて連絡を取って会っていたのが高3の頃同じクラスになった写真部のミルだった。ウマが合うというよりも当時の私が持っていた考え方と似たことを感じている彼とは話が通じ合いやすかったのだろう。もちろんその全てを受け入れたわけではないが、他の友人たちに比べれば当時は気楽に会える人間だったことは確かだ。それはきっとお互いが生きることに対して無責任だったという共通項に拠るものだろう、残念ながら。
 ミルは物知りで、私の知的好奇心を十分満たしてくれる存在でもあった。その点では周さんと似たような点もあったのだろうが、この頃の私はまだ周さんと懇意になるような心境ではなかった。おそらく彼は私のそういった一線を引く態度を知っていたのだろう。彼もまた他の人間たちと同様に私の扉が開くのを気長に待っていてくれた友人の一人だ。「熱く語り合う」そういった言葉を数えるほどの会う機会のたびに言われたことを覚えている。

 未成年最後の夏になるこの年も七夕祭りに行った以外は何事もなく過ぎていこうとしていた。水面下ではハマちゃんとミルのちょっとしたバトルがあったらしいのだが詳しくは憶えていない。思えば周囲の状況に疎い無邪気なハマちゃんが、彼女なりに大人への扉を開けた時期だったのかもしれない。理由は忘れたが、彼女がミルを責めるような態度を見せたことを私はとても不愉快に感じたのだった。それ以上に私は彼女に対して持っていた裏腹な期待感と不信感が訳も分からず自分の心の内で留めておけなくなった。勢い余った私は秋口になって2学期が始まった頃、ハマちゃんにアポを取って話をすることにした。

 ここまで自分本位な思考の導き方では恋愛のひとつもできなくて当然か(笑)。




2002年11月24日(日) ラザの変化


 4年余りに及ぶラザの片思いに決着がついたのがこの年の夏ごろだったようだ。もちろんそれだけのことならここに書く必要もないし、安易に彼のプライベートに触れる愚を恥じねばならない。ただこのことは私にとっても後々重要になってくる出来事だったように思う。

 当時ラザは百貨店で販売員をしており、そこで出会った女性と付き合うようになったようだ。そのことについてあらたまって彼から聞かされた時に「いっちゃんを諦めたから付き合い始めたわけじゃないんだ」と静かに重く口を開いた彼のその言葉がラザという男の性質をよく語っているように感じた。
 持っている性質は違うが、ラザも私も『恋愛』よりも相手そのものにのめり込む傾向があるようだ。まあ当然といえばそうなのだが、一途な未熟者ゆえに内包する危険性に気付かないで、いつまでも自分の中にある片方向な信念を後生大事に抱え込んでしまう。こんな私には当時の彼がとてもスマートな男に写った。未来の恋の行方はともかくとして、いっちゃんから離れて一歩踏み出した彼になにか安堵の気持ちを抱いたものだ。後から分かったことだが、ラザもおそらく私と同様に人間同士の悲哀と快楽を交互に経験しながら傷ついていったんだ。周さんもタケダもおんなじだ。再三言うように、私はそれに気付くのが遅いのだ(笑)。


 ラザの気持ちの変化を知ってから私の中もグラついてきた。いっちゃんが一方的に去ってから抱いていた彼女への嫌悪感が徐々に薄れていった。それと同時に、この間私が彼女に対してとってきた冷ややかな対応について後悔の念が大きくなっていくのだった。ということは要するにまたもやいっちゃんについて考えるような時間が多くなってきたように思われる。結局それは過去への憧憬でしかないのだろうが、私の気持ちの中にいっちゃんという呪縛をかけるような時期として記憶している。記憶というのは恐ろしいものだ。一途にそれを信じた私は将来、より盲目になって彼女と再会する羽目になる。

 ただ不思議なことに再開した日記をひも解くと、私が抱いてきた気持ちの裏づけと反した内容になっているのだ。端的に現せば「いっちゃん>嶋さん」だと思っていたのが日記では明確に「いっちゃん<嶋さん」となっているのだ。読み返した時は自分でもかなり混乱した。が、今ではそれがよく分かるのだ。まだ幼かった私自身が素直に感じていた気持ちが。私の欲しいものは何だったのか、私はずっと分かっていたんだ。


 なのになんでこんなに遠回りしたんだか(笑)。




2002年11月23日(土) 七夕祭り


 隣町で毎年8月に行なわれる七夕祭りへ行こうと仲間内で計画が持ち上がった。各方面への折衝役はもっぱら住吉の役目だったと思うが、よくは覚えていない。すでに集団行動が億劫になっていた私は、久々に仲間に会うというのに、別段気張ることもなく参加したように思う。それでいて参加してみるとそれなりに楽しむのが私の主体性の無さだ。

 久々に再開した日記で嶋さんの次に出てくる固有名詞がハマちゃんだ。当時の私が失った嶋さんの代わりを探していたといった道化にも似た気持ちでいたことをもはや隠すこともない。単純に考えて代わりなどいるはずがないのだし、そもそも自分で決意して縁切ったわけなので、ハマちゃんのことも全ては日記の上でサイコロを転がしているだけに過ぎない。まあ事実として当時の私にとって最も身近にいた女性がハマちゃんだった。


 何故かこの時期、私は住吉に手紙を書いた。その事実は覚えているのだが内容までは全く想像もつかない。間違っても愛の告白ではないが(笑)、周囲の心配をよそに無邪気にしている彼女を諌める目的だったと思うので、おそらく受験のことだろうと思う。だいたいそんなことは周さんがすでにやっていることだったろうから、全くもってでしゃばりなだけだ。私が手紙を書いたことについて住吉自身が周囲に吹聴しているのは気に入らなかったが、それを聞いたハマちゃんが羨望の意を私の目の前で表明するのはすでにお決まりのような彼女らの行動だった。そのたびに私は苦笑いするしかなく、珍しく周囲の目を気にする瞬間でもあっただろう。親しみをこめてくれるのは結構だが、私自身にとってはありがた迷惑な話だ、くらいにしか感じていなかった。
 もう彼女らにはじめて会った頃からなので2年ほどだろう。そろそろ私の堪忍袋が破裂しそうである。彼女らが私の外見をお気に入りなのは分かっていたし、イヤな言い方だが、彼女らに会う前からそうだったのでそれを持ち上げられることにも慣れていた。ただ彼女らの不幸は、私とある程度の長期間を同じ環境で過ごした点にあるだろう。私に彼女ら自身について考える時間を与え過ぎた(笑)。こんな風に考えてみたところで、結局は相手を本気で窺う気持ちに欠けているのである。ある程度のところで一線を引いて何人にも入り込ませない領域を作っているのは自分である。上面だけを平静装って窺いあうことで何が分かるというのか?
 

 そんなことを感じつつも場の雰囲気でどうにでもなる気分屋の私は、七夕祭りで終始ハマちゃんに腕を組まれたりしても気にしないで、したいようにさせるのだった。実はそれほど満更でもない気もあったが(笑)。




2002年11月22日(金) 日記再開


 92年の7月付けで再び日記を記すようになった。いっちゃんが私たちの目の前から去って以来だからだいたい1年半ぶりくらいである。というよりも、この日記をひも解くと分かるようにその年月にはいささかの意味もこもっていない。再開した意図は自分でも定かではないが、どちらかといえば『嶋さんと縁を切ることを考えて悩んでいた』、あれからだいたい1年が経過したのがこの頃だったようだ。その証拠に、初日に登場するのは相変わらず嶋さんだ。明らかに私は彼女の存在を美化しすぎていた。

 「社会的にみれば私は夢も希望もない人間だ。」こんなフレーズで始まるこの日記はその言葉だけで全体が要約できるくらい単純で画一的な自己完結の羅列だ。てゆうかお前いくつだよ! ってツっこみたくなるような内容満載。死ぬだ生きるだの云々はとりあえず童貞を捨ててからにしてもらいたいもんだまったく(笑)。世間知らずなのが子供たる所以なのではあるが、その成長を促す社会生活への参加はまだまだ先のことになりそうである。そういった精神上の変化がない自分を肯定するかのように、この日記は存在したのだろう。




2002年11月21日(木) 初月給


 仕事を始めてほぼ1ヶ月というところで初任給をもらった。金銭感覚に疎い私はそれが物に変わらないまでは実感として沸いてこないようで、見習いの分際で20枚以上の万札を毎月貰っていた訳だが、封筒に書いてある金額に目を通して中を確かめずに引き出しへそのまましまうような感じだった。

 これといった物欲も無く、当面欲しいものといえばCDコンポでビートルズのCDを聴きたかったくらいだ。高校を卒業したあたりから聴き始めたクラシックもこの時期は好みも確定してきており、モーツァルトのピアノ関係の楽曲以外はほとんど聴かなくなっていた。音楽の心得など皆無だが要は脳みそに心地よく響くものであれば何でもいいのだ。余談だが、天文に興味を持っていた頃の名残でその頃ホルストの組曲『惑星』をよく聴いていた。ご存知のように平原綾香のジュピターはこの中の「木星」の楽曲をカバーしたのだが、それで久々に思い出した。平原さんの歌声も素晴らしいのだろうが、あれはあの曲を選んだプロデュースの方を褒めるべきだろう。こうやって昔聴いた曲が新しく甦って再び耳にするのは歳をとった証だが(笑)、自分の趣向が肯定されたようで悪い気はしない。

 自動車免許を取ってからは父の自家用車を借りて乗っていたわけだが、これが姉との兼ね合いで使いたい時が重なる場合が多くその辺のネゴシエーションがすこぶる苦手な私は別の手段を考えた。
 当面車を使う用事はタケダの家に遊びに行くか部室に顔を出すかくらいで、どちらも電車で行けば事足りるのだが、もともと混み合ったところが嫌いで自転車通学をしていた私がそれを簡単に受け入れるわけもなく、自然と原チャリの購入が頭に浮かんだ。決断までに時間はかけたが、いざ購入を決意して地元の自転車屋に行ってからは話が早かった。店頭で即決して買ったのは黒のハイアップで税込み9万円ほど。これがはじめての高額商品の購入履歴である。




2002年11月20日(水) 建設業


 入院してから1年ほどたった五月の後半頃だろうか、父の仕事の手伝いで地元の病院の現場へアルバイトに行った。正に猫の手も借りたい時期だったか、父の仕事は世にいうバブル景気の真っ只中で順調そのものであった。実はそんな昇り調子も統計的に降下し始めていた時期なのだが、それに気付いたのはそれから6,7年後のことだろう。

 今思うと、受験もしないで毎日家でボケボケしている私を見かねた上での父の誘いだったのかもしれない。気がつけばプー太郎生活を1年もしており、そんな毎日に我ながら多少の危機感を感じたのだろうか。6月に入ってから自分で父に切り出して仕事を手伝うことになった。

 ただこの時の私の感覚からすると多分に転職を視野に入れた場当たり的な選択だった様に思う。きっかけはどうあれ今もその仕事をやっているのだから面白い。そんなわけで仕事に対する姿勢はすこぶるいい加減だったといっていい。性格的に仕事そのものをおろそかにはできなかったが、その分「対人間」のほうがいい加減になった。父の仕事は人間関係を父に任せられるので楽である反面、私をさらに閉じこもりがちにさせる環境でもあった。その様は友人たちも知らないもう一つの私の顔である。それを口にするのは今でも苦痛を伴うものだ。でもまあ事実なのでしょうがないか(笑)。

 こうして私はとりあえず毎日を無為に過ごす日々に終止符を打った。ただその後の日々が果たして建設的だったかどうかは疑わしいが。




2002年11月19日(火) 引越し


 1年前にはタケダの恋愛の本気度を目の当たりにしていた私は正直その報に接して多少の狼狽を感じていた。もちろん高校を卒業して都内に下宿中だったタケダの近況も断片的に知ってはいたが、まさかあれから1年足らずで入籍の報を受けるとは考えもしなかった。おそらく私が入院せずに彼と同様の生活を共にしていればこんなにも早く2人が接近することはなかっただろうと思う。その付き合いに反対する理由もなかったが、「結婚」という選択肢が果たして未成年の我々に背負い込める責任なのか、他人事ながら考えたものだ。ただ見た目はヘロヘロしていても中身はナイーブな(笑)タケダにとてもお似合いのしっかりした女性だった。私としては2人を応援し見守るくらいのことしかできない気がした。まあ私事ではあるが、タケダのそういった具体的な方向性によって彼に気兼ねなくハマちゃんと接することが出来る気楽さを感じていただろう。
 
 で、2人が1年の契約期間を終えて専売所を辞する日がやってきた。2人が選んだ新居は都内にも程近い郊外のアパートだった。奥さんになる『友』さんはタケダの専売所に程近い語学関係の専門学校に通っていたのでとりあえずそれは卒業させたいという言葉をタケダから聞いた覚えがある。なのでその引越しもそれほど大掛かりなものではない。幸いなことに私の父は建設業で軽トラックがあったので、暇に任せて手伝うことにした。免許取りたての私にとって初めて高速に乗った日でもあり、都内を初めて走行することになった。

 軽トラに3人は乗れないので友さんは電車で現地へ行って荷物引取りの段取りをお願いした。軽トラというのはバカにできず、2人分くらいの下宿生活の荷物なら1回で十分であった。思ったより私の運転も順調で、まだ4輪の免許がないタケダに羨ましがられたものだ。まあ彼らの新婚生活に自動車の必要性などなく、現実としてそんな余裕もなかった。

 ガソリン代だけ頂いて夕方家路に着いた。とても喜んでくれた2人を見て私は引越しの手伝いが好きになったのだろう。




2002年11月18日(月) 葬列


 1992年の春はいっちゃんと舞ちゃんが高校を卒業する時期だった。同時にハマちゃんや住吉などが最上級生となる必然に何か違和感を感じつつ、その3月に面々と再会したのは、我が部の顧問である国語教師が亡くなったからだ。
 19歳になりたての私は当然ながら喪服を持つ必要など感じずにやってきたので、着心地にむずがゆい違和感のある紺のスーツを着た。ネクタイの締め方が分からないので校門の前で住吉に締めてもらうその眼前を、生徒たちが先生の家に向かってゾロゾロと歩いていった。その姿は私の記憶に残っている普段の登下校風景と何ら変化はない。

 彼の自宅が学校に程近いので生徒が大勢やってきている。だださすがに現地は賑やかな雰囲気ではなかった。ラザや住吉ら2つ下の後輩たちと雑談しながら現地までやってきたのだが、嫌な事に(笑)、着いてすぐ私の目に飛び込んできたのは1つ下の後輩たち、言うまでもなくいっちゃんと舞ちゃんのツーショットだった。人間関係の利害に疎いハマちゃんが2人を見つけて一言声をかけたが、そんなものまるで興味がないように変に強がった感じで、彼女らと目の合った瞬間の一瞥以外は2人の姿を確認する気にならなかった。

 おそらくそれはいっちゃんが部から身を引くことを告げた日以来であっただろう。私たちが気付く前に彼女らはこちらに気付いていたのだろう。1年以上のギャップがあるいっちゃんのまっすぐな視線はあの秋と何ら変化なく、申し訳なさ気だった。3月ではあったが、快晴のとてもあたたかい陽気に不釣合いな時間だった。瞬間的に凍った自分の表情が分かったが、それでも自分ではせいいっぱい表情を変えまいとしたつもりだ(笑)。見覚えのないいっちゃんの伸びた髪の毛がとても不似合いだった。そんな主観的なことしか頭に浮かばないことが冷静でないことの証だ。

 
 思えば私が文章を書くきっかけになったのがこの国語教師の授業だった。高2の三学期、私のクラスだけ国語の授業は文章表現のテキストを進めることになった。なんでも彼かそれに参画しているらしく、その背表紙の裏にゴシック体で彼の名前が記してあった。もちろんそのテキストも手元にあって捨てられないでいる(笑)。
 その授業は私にとってとてもタイミングが良かった。嶋さんに書くことを思い止まるもどかしい日々の鬱屈を素直に吐露できるテーマが多くて、もちろん言葉は選んだのだが、有効な書き方の基本を楽しく学んだ。そんな結果、3学期の成績はすこぶる良かった。発表などはしたくないのだが、先生のご指名だから仕方がない(笑)。それまで全く範疇に無かった文芸部への入部が私の中で現実味を帯びてきたのがこの時期だ。そしておそらくはこの日々が無ければ今ここにいる私もその人間関係も変化していることだろう。幸福か不幸かの細かい判別はともかくとして、おおざっぱに言ってしまえば、この教師に出会ったことが私の学生生活で最も有意義に思う『先生』との出会いだろう。




2002年11月17日(日) 『1991』


 状況としては高校を卒業して新しい環境に身を置くようになった訳だが、高校入学時と同様、その3年後にはまた同じように目の前にある既成の人間関係だけを頼りにして心境的に何の変化も見られない日々を送っていた1年だった。決定的な違いがあるとすれば、前者は社会に対する漠然とした反発であり、後者は人間そのものに対する不振と反発からくる自己否定という悪循環の中に身を置いていた、そういった心境の根拠だろう。

 自己否定の行き着く先がどんなものであるか、私には分かっていた。その自覚が決意として最初に現れたのが嶋さんとの決別なのだと思う。この後徐々に交友の幅を狭めていくことになるのですが、その水際まで私に不定期ながらも連絡をよこしていたのがラザだった。そのおかげで私はこの後もしばらくの間部活関係の人間たちと会っていくことになります。

 この年はまだ滞っていた日記が再開しておらず非常に情報が少ないので、記憶に残っていないが重要だったこともあったかもしれない。ただ当時の私にとってはどのような出来事もさして重要に感じたりはしなかったことだろう。まあその分この日記がコンパクトにまとまって大いに結構だ(笑)。




2002年11月16日(土) 運転免許取得


 無気力な日々を送っているうちに月日はすでに冬になろうとしていた。第4段階の見極め印を半分ほど消化してすでに久しく通っていない自動車教習所へまたアタフタと通い詰める日々になった。12月の半ばあたりで教習期限の6ヶ月が終了してしまうためだ。ただ規則として実地教習は1日に2時間と決まっているのであせってもどうにもならない。逆算してかろうじて期限ギリギリのところでまた通い始めたので、その教習内容はかなり切羽詰ったものだったに違いない(笑)。さすがに4ヶ月ぶりに乗った日は路上に出してもらえず教習所内を流すだけで見極め印ももらえなかったが、それ以降はこれまでどおり順調にこなしていった。まあ教官に期限を説いて情けをもらった日もあったが(笑)。そんなことが出来る自分がこれまでの日々に比べてなんとも皮肉に満ちていることが可笑しかった。運動オンチの私でもこれなのだから自動車免許など誰でも取得できるのだと強く感じた。

 卒業検定も1回でパスして晴れて免許センターへの道が開けた。原付免許での時の教訓からかすでに勝手知ったる場所での試験はそれほど緊張もなく、満点の自信すらあった(笑)。とにかくこの免許センターは遠い。しかも免許がないので公共交通で行くしかなくさらに時間が掛かるので、そういった立地の要素も私に拍車をかけるに十分だったようだ。

とにかく出不精で自分から動く発想のない日々の象徴のようなエピソードである。




2002年11月15日(金) 出戻りカルテット


 卒業と同時にタケダと私は前述の通り新聞奨学生となり予備校へ、ラザとミルは揃って遠くの専門学校へとそれぞれ進んでいったのだが、そのうちタケダを除く3人が次の年の9月の時点で地元に戻ってきていた(笑)。そんな訳で暇を持て余していた3人で会う機会が多かった。発案者は決まってラザで、誘われた私がミルに連絡をするといったパターン。
 結局はタケダも目標を成就しないまま戻ってくるのでカルテットな訳だが、1年間の契約で新聞配達をやり終えた点では遥かに私なぞより根性持ちである。何回も彼の下宿先へ遊びに行ったが、夜は彼女の所へ行って不在がちなタケダの部屋やそのマンションの屋上で夕闇に染まる新宿の副都心を仰ぎながら心はチクチクとしていた。それは自分の置かれているべき場所であり環境であったからだ。その後なんの解決にもならない日々を自分が送っていたことを知っていたからだ。

 暇といっても毎日会うわけにもいくまい。それでかどうかは分からないが、この時期の私にはもうひとつ地元でよく会うメンバーがいた。中学まで一緒で高3時にバイトを紹介してくれた勝くんと幼なじみのFだ。
 勝くんは就職し自動車免許も在学中に取ったらしく、私と比べるととてもしっかりしている人だ。Fは我々の母校の伝統でもある「卒業→浪人」という道を当然のように歩んでいた。なので彼らと会うのは決まって夜だけだ。
 勝くんに久々に会った時、私は彼に平謝りをした。前年の夏にバイトを紹介してもらったのに他の楽しみを見出したおかげで無責任に行かなくなってしまったからだ。彼はちょっと難しい性格だが何故か私とは馬が合う。素直に謝ったのが良かったか、この時も勝くんは簡単に許してくれたのだ。


 タケダ以外はどいつもこいつも女性の香りを運んでこないヤツばかりだった(笑)。




2002年11月14日(木) 花火

 文化祭の準備を手伝う口実で、OBである私とラザは暇なのをいいことによく部室へ顔を出していたと思う。こういうこともあって8月まで順調だった私の教習所通いが滞ったことを今発見した(笑)。こういう風に私は同時進行で行動を進めるのが苦手だ。自分の中で優先順位を決めればそれを理由に別のことには手をつけずにいたようだ。これは器用不器用の問題ではなくて多分に決定的なモチベーションの欠如からくるものだった。

 幾度も重ねた夏であるが、90年のあの夏以外の記憶は私の中で長いこと記憶に留められずにいた。まあこれといって特別なことがあったわけでもないので仕方がないが、若さに伴う熱気が欠けていた。

 卒業してすぐの91年の夏で憶えているのは杏さんや舞ちゃんらと連れ立って学校近くの河川敷で花火をやったことくらいか。この当時もなおラザはいっちゃんにアタック継続中(今の若いモンはこうは言わないか/笑)であり、その他の方面からも依然として彼女の断片的な消息が私の耳まで届くような状態だった。この花火のメンバーは私とラザ以外はいっちゃんと穏やかに接触しえる人間たちだった。それがどうしたということもないのだが、置かれた場所の違いで何故人間の関係がこうも入り組んでしまうのか、当時の私には自分の場所がとても窮屈だったように思う。それは努めて中立でいたかった私がある意思を持った瞬間からはじまったのだろう。特定の人間との離別はある片方がそれを決意すればまことに呆気なく成就するものだ。それが付き合う人間を選ぶことに繋がるのなら、私はひとりでもいいと思うようになっていった。結局のところ私は周さんやラザに人選を押し付けた形で自分は手を汚さない位置にいただけの事だと後に気付くことになる。彼らの人間関係の末席に加えてもらった私はとても幸運だったのだ。そんなものにも気付かないでひとり前を向けないでいる私自身の事を今とても悔いている。

 その花火を見つめていて私が思い出したのはきっとそこから1年ほど前のまだ3年生だった頃のことだろう。
 文化祭が終わって部室の喧騒も一段落が着いた頃にやってきたいっちゃんらとの蜜月については以前にも触れた。あの1ヶ月余りの穏やかな毎日の中に4人で花火をやったことがあった。すでに日の暮れた部室でいつものように語り合っていた我々が思い出したように、それまでの懸案であった「残っている線香花火の処理」をまさにこの時にやってしまおうと思いついたのだった。

 静まり返った学校の裏庭で隠れるようにラザがロウソクに火をつけた。それを4人で囲んだ。おそらく部室前の廊下では風通しが良すぎて火が点かなかったのだろう。
 線香の発するオレンジの灯火に染まったいっちゃんの笑顔はとても綺麗だっただろう。舞ちゃんの微笑みはまだ幼げで少女っぽさの残ったものだ。ラザはそんな我々を見おろすように穏やかにその燈に染まっていたに違いない。4人で行なったこの花火は私の中できっといつまでも素敵な記憶になるのだろうと思っていたかもしれない。実際は今の今まで忘れていたが(笑)。

 91年の花火は全く対照的なものだった。この対がなければ思い出すことも叶わないような、私にとってはそこにいる自分ですら「過去形」のような気がしてならなかった。




2002年11月13日(水) _/_/_/ 返信 _/_/_/

『 前略
 あれからかなり時間が過ぎて私の考えもそろそろ変わった頃だと思い、返事を書いています。 ...同じような文句ではじまったあなたの手紙を当時は苦笑して眺めました(笑)。「申し訳ないが出口が見当たらん」って感じで。

 とてもまっすぐで優しい言葉で最後まで接してくれたあなたに対して、私も後悔しないように言い訳でも書いて(笑)あなたの記憶をその扉の向こうへしまおうかと思います。

 あなたがくれた最後の手紙はお互いにとってとてもタイミングの悪い時期に重なってしまったように思います。それは全て私が自分自身を信じられなかったことが原因で、そんな自分をあなたにさらす未来が怖かったのかもしれません。
 まあそんなお決まりの言い訳はどうでもいいとして、私が心配だったのは、その後のあなたの恋愛です。これ以上ない形で私はあなたに人間不信の姿をさらしてから去りました。それがあなたの優しい心根にどう響いたのかとても心配でした。強がりなあなたは私のように恋愛に頑なになってしまわないかと心配でした。

 残念ですが、当時の私はあなたが思ってくれているほどあなたに何でも話せるような存在ではなかったように思います。私の最も大きな危惧はこの点をあなたに知られることだったように思う。あなたに対して素直になれない自分がとても恨めしかった。私に欠けていたのは私やあなたという「個」を見つめるという気持ちでした。結局は全てを大局に埋没させてしか考えられなかった私自身の過失です。当時の自分は変に強がってそういった自分の足元を見ることの出来ない人間だったように思う。そしてそれを自覚した上で、そういった自分の弱みをそのままあなたに伝える勇気を持たなかった。

 ただあなたは、たとえそれが悲観的だったとはいえ、私に能動的なアクションを起こさせる気になる人でした。それが当時の私の中で「あなたが大切な存在だった」という証です。結局のところ私はあなたに感じたような新鮮で甘酸っぱい感覚をその後ほかの女性に感じぬまま年を重ねてしまいました。自身の望む恋愛とはかけ離れた女性ばかり好きになっていきましたね(笑)。

 あなたのことを思い出すきっかけをくれた私の彼女さんにとても感謝しています。嶋さんとの出会いがなければ、きっと私は今あるこの素敵な恋愛を陳腐にしてしまっていたかもしれない。嶋さんと手紙を交わした何年かの年月が今でも私の中で大切であることと同じように、私は今ある彼女さんとの時間を大切にしていきたい。きっと嶋さんはこんな風に思えるようになった私を喜んでくれるだろう。

 どのような結末を招こうと関係なく、あなたに伝えたかった言葉は

「あなたがとても好きでした」

ということを記憶の彼方から引っ張り出してここに書き記します。

                               草々 』

 嶋さんの記憶をとても素敵なものにしてくれた私の彼女さん、ありがとう。


 (最後は結局彼女自慢かい/笑)




2002年11月12日(火) 最後の手紙


 卒業してすぐの夏はそこにいっちゃんがいないこと以外は前年と状況においてあまり変化はないように思った。熱っぽさを失ったそれら友人たちの集いをどうしても比較してしまう自分がいた。もうすぐ1年が過ぎるというのに、相変わらず私はいっちゃんのいない環境に慣れることが出来なかったようだ。

 後輩たちが文化祭の準備に追われるであろう2学期の始め、残暑の厳しい日々だった。すでにOBとなった私がそれにどれだけ関与していたのか分からないが、おそらく何回かは部室へ足を運んだだろう。私の来訪を無邪気に喜んでくれるハマちゃんを初めとする後輩たちに対する私の笑みはとても乾いていた。


 結局は自分の中に閉じこもったままで周囲に本心を明かせずにいた自分自身がすでに彼女を痛めつける存在だった。物心ついたころからの願いであった自分の望む恋愛を具現できる相手であったと思う。ただそれに気付かなかった私は自分の中で彼女の存在を「友人」としておきたかった。特にいっちゃんが目の前に現れてからはその気持ちが強くなったように思う。了見の狭い身勝手で想像力に欠けた片付けようだ。

 
 嶋さんがくれた最後の手紙は、人見知りでシャイな彼女にとって最大の譲歩を書き記したものだった。当時の私は正直あそこまで書いて返事をくれるとは思ってもいなかっただろうが、その好意に対して私は反意することはなかった。私は嶋さんの好意に相応しい人間ではなかった。自分でそう思えばそこから先へは動けないのだ。

 その好意に対して私も最後の手紙を嶋さん宛てに書いた。人と縁を切るにはその人が呆れかえる位のバカバカしさ、多少の悪意をちらつかせた言葉で相手を攻撃すればいい。嶋さんがキズつくであろうその文面を書いている時の私にどれほどの良心があったのか分からないが、今ならそんな手の込んだことなどせずに自然消滅を図るだろう。まあ自分に多少の自信を持てるようになった現在ならそんな必要もないだろうが(笑)。

 夜の闇が深くなった時間に手紙を投函するため、なぜか本局へ自転車で行った。そのまま漕いでいけば嶋さんの家へはあっという間に着く距離だ。なかなか投函できずにポストを焦らす私の後ろを何台もの自動車がやってきては走り去っていったあの夏。




2002年11月11日(月) _/_/_/ 自分史年表 _/_/_/


 私自身、すでに混乱している。特に劇的な何があったわけでもない自分のそれはそれは蒼い青い時代(笑)をぼちぼちとした速度で書いてきた訳だが、後から書き忘れたことを思い出して悔しい思いをしたことがままある。そういった事柄はすでに日記上での旬を失っており、いくら自分の思い出と日記を照らし合わせてそれを組み込もうとしても自分の中が旬っぽい心地になるだけで、読者には無意味な描写でしかないように思われる。なのであまり思い出しても書かないようにしていた。ついでに言うとこれを書いていてつくづく自分の文才のなさを思い知るのだ、むかし取った杵柄などはもはやどこにも存在しない苦痛は私にしか分からない(笑)。そんなもの、あったっけか?

 で、今日は帰宅して一段落してからエクセルのワークシートを開いた。ファイル名は『あおいろ日記 プレビュー』。昨晩、新幹線での帰宅途中にふとこの方法を思いついたのだ。思えば今までの回顧は記憶だけを頼りに「点」だけで書き殴っていた。自分の書きたいことを列記してそれを「線」でまとめるにはどういった取材をし、それに関する新たな知識を得、どんな協力を周囲に望めるのか等を吟味してから書き始めるのが文書きとして当然のプロセスであり、自分もかつてそうしていたことを思い出した。急いては事を仕損じる、そんな作品をいくつも残してきた私には我ながら手厳しい(笑)。ただ資料集めと取材でおなかいっぱ〜いになったのがその後の私の本当の姿であるが...。


 色々なことを思い出す上で意外と有効だったのが「自動車の購入」という点。10年も前のことを思い出すのに自分の中でも内容の前後してしまう事柄が多かったのだが、この点に気付いてからは年表のはめ込みが多少楽になったようだ。まあそれだけ多感なオトコにとって存在感が大きいということだろう、こんな青くさい私であっても。

 しばらくはこの年表の作成に時間をつぶすと思われます。けっこうバカらしくて楽しい作業です(笑)。




2002年11月10日(日) 煮え切らない夏


 ここ数日の日記の傾向からすると、いかにも嶋さんのことを四六時中考えていたかのような書き方だが(笑)、事実は違う。どちらかといえば私の頭の中を支配していた女性は相変わらずいっちゃんの方で、彼女自身の存在を恋愛の範疇で片付けられればどれだけ楽だったか、その後の恋愛遍歴も彩りに満ちていたかもしれない?(←あり得ねぇ)
 最後に目にしたいっちゃんの黙して語らない姿は私の人間不信をあおるものでもあり、語られていない彼女の中にある言葉を信じたい自分の矛盾した感触も確かに存在していた。結局私はその矛盾を抱えたままその後を過ごし、10年越しにいっちゃんと再会する機会を迎えることになる。

 良くも悪くもいっちゃんの影響下にありすぎた私が嶋さんとの関係を健全に保っていくために必要な要素は、当時の自分の不器用さからすれば不可能なことであり、そういった発想すら思いつくものでもなかった。私は全く性質の違う二人の女性を自分の中で同じように扱うことは出来なかったし、一方を失ったからといってもう片方に擦り寄るようなことができる性格でもなかった。


 色々な何かを考えながら教習所に通った夏が過ぎていった。いっちゃんと過ごした前年の夏と同じ暑さを、ただ無機質に感じていただろう。

 
 嶋さんの最後の手紙はその夏が終わる間近、9月上旬に私の手元へ届いた。




2002年11月09日(土) 白いパーカー


 話は前に戻りますが、高3の秋から冬にかけての寒くなってきた時期、学ランの下に白のパーカーを着て行ったことがあった。まだ新しかったそれを着るという意味は単に「寒かったから」といった理由付けでおしまいなのだが、ちょっと違った。
 すでにご紹介したとおりの幼かった私は、自分でいうのもなんだがとても実直で素直だったので(笑)学校指定の制服以外のスタイルで登校したことがなかった。なので朝は毎日自分でワイシャツのアイロンがけをしてから家を出ていたのだが、このパーカーを着るようになってから朝がとても楽になったように記憶している。それは同時に自分の持つ既成の規格に対する反抗か、それともそれまで自分が貫いてきたバカげたこだわりに気付いたか、はたまた生活が怠惰に流されてそれまでの自分の窮屈さに着いていけなくなったか。

 あのパーカーはとても私に似合っていたようだ。2つ下の後輩であるハマちゃんにとても褒められた記憶が甦ったのは、それが10数年ぶりにタンスの奥から出てきたからだ。

「純白って先輩にとっても似合いますよね」

 そのハマちゃんの言葉をいつもどおり苦笑いで受け流した私は、額面どおりに受け止められない彼女の持つその私への評価に対し心の内で反発していた。そこへすかさず横やりを入れたのがハマちゃんと仲の良い電ちゃんだった。

「白ってすぐ汚れが目立つようになるからイヤなんですよね」

(ナ〜イスアシスト! 電ちゃん)と思った自分は残念だが今ここにいる私だ(笑)。どちらの少女の言葉も当時の私には苦いものでしかなく、素直に受け止められない自分がいた。


 出てきたパーカーはすでに色あせているが仕事くらいなら十分耐用できる。なので今シーズンはそれを活用させてもらってから用済みにさせてあげようと思う。




2002年11月08日(金) 自動車教習所


 嶋さんからの返事を待っている時間は思っていたより長かった。その間何をするでもなく家でボケボケしていた私を見かねたのか、母が運転免許の取得を進めてきた。この期に及んで新たな金銭負担を親に強いるのに気が引けたが、結局は自分で決めて地域で一番安価で取得できそうな隣町の教習所に行くようにした。何事にも全くやる気の出なかった当時の私が自分で動いたことは自身でも思いがけず不思議なことだった。

 とりあえず毎日の生活にやることができた。入所時に所内教習のスケジュールを全て組んでしまったのでその通りにほぼ隔日で通った。教習所までは5,6キロの道のりを自転車で通ったのだが、高校の通学路に比べればまったくの平坦な道中だったので、旧街道の杉並木の涼をむしろ楽しんでいたように記憶している。

 順調だった。最初の効果測定を侮ってしくじってからは学科もちゃんと復習してから試験に臨んだ。運転のほうは学科よりも順調で仮免までパーフェクトの出来栄え。持ち前の大人に受けのいい性格はこんなところで役に立つ(笑)。

 
 仮免を受ける直前、季節はすでに夏へと変わりつつあったよく晴れて青い空の遠くギラギラした日だったと思う。その日はキャンセル待ちか何かで、涼しい事務所の待合室で待機しながらぼんやりと外を眺めていた。そんな時ふと中学時代のクラスメートと居合わせ話をした。こういう場合、自分の言動に無責任に話が出来るとでも思ったか、それとも単に中学時代の自分を懐かしがっていただけか。そのとき私は友人には決して漏らさなかったような非現実的な自分の望みを彼に語った。「どこか遠くへ行きたい」と。

 今あるこの環境から自分を消してしまいたい。まだそういった望みを捨てていなかったあの頃の私は、根拠がなくとも変に自分の望みに楽観的だった。思い込みが激しいとも言う(笑)。




2002年11月07日(木) 1通目


 心根の素直な嶋さんと縁を切ることは、試みとしては簡単に行なえて目的を果たせるだろうと思っていた。そういった行為を難しくさせるものは全てそれを行なう人間の感情の中にある。1度目のそれは正に自らの意思で目の前の彼女との離別を拒んだ。元来持っていた意思決定の曖昧さが図らずも露呈してしまって苦々しくもあったし、それすらどうでもいいような気持ちになっていった。変な表現ではあるが、自分の気持ちがその気でいるうちに2度目を実行しないとまたダラダラと文通を続けていきそうな気がした。私が当時持っていた考え方は明らかに嶋さんには害だった。それが分かっていながら思考を改める気のない私の中でこの試みは正当化されたようだ。

 入院生活の明けた6月中に手紙を書いた。慎重に言葉を選びつつ同情を誘わないように気を使いながら、正直に当時の自分の置かれた状況説明と率直な挫折感を短い手紙にしたためたと思う。この手紙は明らかに次への伏線でしかないので普通に投函したが、それを読んで再び返事を書いてくれるであろう彼女自身を想う、キリキリとした日々が続いた。




2002年11月06日(水) 虚無感


 強烈な虚無感に襲われた高校2年の秋、あの時の私は嶋さんに対してとても加減して手紙を書いた。書くこと自体を控えたと思う。当時にしか伝えきれないことを隠蔽したのは、それを伝える意思に至らなかったという単純な気分のせいだった。当時から自分の感覚として持っていた「心から信頼し合える相手」、今思うと嶋さんは私が初めてその可能性を感じるような人だったのだろう。幼かった私はそれと恋愛とを混同することができなかった。奥底にある甘酸っぱい感覚に気付かないフリをしていたら、本当に彼女のことなど投げやりにしてしまった虚無感が強まってきて、手紙を書きたい衝動を簡単に押さえつけてしまった。そんな日々の繰り返しで過ぎていった高2の秋。

 卒業してすぐの初夏に襲ってきた虚無感は昔経験したものとはちょっと違った。嶋さんと久々に再開した文通で浪人生活の激励を受けた直後の状況変化にあっさり対応せず、己の矮小さを自らに知らしめた入院後の日々は、自分でもそれが分かっていながら改善する気力の沸いてこないような、今でいうところの自堕落なものだった。2週間余りの入院生活はまさにぬくぬくとした温室にこもったようなものだ。一度弛んだ緊張感を拠りどころに目の前にある面倒なことから逃げたがっている子供だ。

 ...とまあ年を取った今書くからこういった「自己逃避的」な自分のように書くわけで、実際あの頃の自分は冷静に振り返るとまさにそうだったのだから弁解はしない(笑)。ただ当時の自分がそれに気付いていなかったことが問題なのだ。正直どんな心境だったか昔のオレに聞いてみたいね。

 そしてさらにこれが大問題になっていくのは、それが長期化の様相を呈してきたからだ。嶋さんと縁を切ることは、残念ながらそういった日々の象徴的なプロローグになってしまった。




2002年11月05日(火) _/_/_/ 3年目 _/_/_/


 昨日付けで今年の仕事が終わったので、今日から大掃除に取り掛かった。もともと掃除は好きではないが彼女さんがキレイ好きで掃除マメなので、それを見て過ごしてきた2年余りの日々で私の傾向も変わってきたように思う。

 掃除中にふと思い出して、主に仕事のスケジュール管理に使っている手帳を来年用と交換した。ここ2年は同じメーカーの同じ書式のものを使っていた。来年もブックカバーの色が赤から黄色に変わるだけで中身は変わらない。中に挟んである写真もそのまま新しい手帳に挿しいれた。

 彼女さんと会った日はこの手帳に必ず印をつけることにしている。これといった意味は特にない。そういう記録は付けることではなくて長い年月が経過してそれを振り返ったときにはじめて何かしらの感触が得られるのだろう。

 確認すると今年は彼女さんと17回会った。数にしてこう書くと少ない気がする。試しに昨年の手帳をひも解くと同様に17回であった。それを見比べてみて私は思わず笑みが浮かんでしまった。そこに記してあるのは同じ17回ではあったが、限りなく「17日」に近い1年目と倍から3倍の日々を彼女さんの家で過ごした今年の日々を単純に比較するのはバカげていると思ったからだろう。それでもそこにははっきりと、私の恋愛のペースが書き記してある。

 振り返ってみて思うのは、昨年よりも今年のほうが会う日の予定をキャンセルする回数が多くなったこと。これは明らかに私の都合だけで行われるのだが、そのたびに彼女さんは「仕事じゃ仕方がないよ」と、とても理解のある返事をくれるのだ。双方の事情はお互いに伝え合っている。なので彼女さんの理解をありがたく思うと同時に、話を切り出すことに窮していたはじめの頃に比べて最近は心苦しくも、仕事を優先させる方向で自分の気持ちが慣れていた。そういった甘えが思わぬリアクションで返ってきた。

 「来てくれなきゃキライになるから」

そう繰り返す電話越しの声に正直私は困ったが、それを聞いた時はすでに私の中で予定をキャンセルする気持ちがなかったのでただ平謝りするしか手がなかった。

彼女さんは年に何回かとてもナイーヴになることがある。それが過ぎ去ると私は毎回とても幸福な気持ちになる。上手に表現はできないが、こんなにも私のことを考えて想ってくれる人がこの世に存在するこの幸福を確認することができるのだ。

その幸福を生活に埋没させてはいけない。結局のところ私は会っていようがいまいが彼女の存在に助けられて生きているのだ。そう強く思った今年のクリスマス週間でした。




2002年11月04日(月) 2度目


 はじめて嶋さんと縁を切ろうと思ったのが高校3年に進級する直前の春休みのことだった。あの時は結局自分の正直な気持ちに気付いて思いとどまった訳だった。あれから1年以上の月日が経過して、あの時感じた嶋さんへの淡い想いはあっけなく他の女性に向けられるようになった。嶋さんは私にとって友人であればそれでよかったのだと、常にそういった割り切りで彼女に対していた私はどちらにしろ前後不明瞭で、自分の気持ちもはっきり出来ない意気地なしでしかなかったのだろう。いっちゃんに心を奪われながら何ゆえ嶋さんのことを忘れることがなかったのか、今ならばその未練が手に取るように理解できる。

 結局は自分の矮小さを知られたくないためだったかもしれない。当時はこういた風に感じる器はなかっただろうが、高校を出たとはいえ世間知らずの18歳。まだまだ甘チョロの子供なのだよ(笑)。

 嶋さんから離れる理由は2度とも動機に変わりはない。ただいっちゃんという女性の出現で2度目のほうが思い切りよく自分の中で割り切れたはずだ。一連のいっちゃん騒動でダメージを受けていることを否定したい自分はそういったことを自分の挫折の理由にはしたくなかった。なので嶋さんといっちゃんを結びつけて考えるような瞬間は皆無だった。

 1度失敗していることもあったので、2度目はその轍を踏まないよう確実に縁を切らねばならない。今思うとかなり不自然でヘンテコなことを考える18歳である(笑)。その不自然さが、自分がどれだけその人との関係を大切に思っているか、その裏返しだった。




2002年11月03日(日) 交際発覚


 まだ奨学生だった頃は夕刊配達後にタケダと予備校で落ち合って勉強する習慣だったが、私が入院する2週間くらい前からタケダの付き合いが悪くなり、午後9時くらいにやっと顔を出して2人で街へ出向く日々が多くなった。今思うと、所在不明になりがちなあれは彼の恋愛過程によくある兆候(笑)。
 
 突然の私の入院は彼の恋愛にとって拍車をかけるものだったと思う。高校3年の頃はハマちゃんに夢中だった彼を見ていただけに、こうもコロっと方針が変わるといささか拍子抜けな気もした。が、環境も変わって単身で下宿して勉強をするということの孤独感は、人当たりのよい人間にとっては限りなく苦痛の日々であろう。

 そしてタケダは同じような境遇の女性と出会った。お相手は同い年で別の新聞会社の奨学生をやっていて、たまたまタケダと配達区域が重なる関係でお近づきになったらしい。いやね、私にも似たような境遇の女性がいたが、話しかけるバイタリティなんぞは持ってなかったが(笑)。

 そんなわけで交際の始まった2人が1年後に結婚するとは思わなかったが...。
 個人的にはタケダとハマちゃんの板ばさみから解放されて多少楽になったわけだった。




2002年11月02日(土) 幼なじみF


 親に金銭的な負担をさせたくないといいながら、結局奨学生を辞めることになったので予備校の学費を60万ほど一括で納めなくてはならなくなった。退院後の「やらなければならないことリスト」の最後にこれが組まれていた。私が通っていたのは新聞奨学生のための予備校なので、同じような境遇の生徒で相変わらずごった返していた。もっとも、ここでも友人など作る気もなかったので挨拶を交わすような人間はいなかった。職員室へ行って事務的な対応と気安めな激励を貰ったが、おそらくあの人たちは分かっていただろう。その通り私は二度とそこへ足を運ぶことはなかった。

 その帰りにタケダの下宿先へ寄ったが彼は留守だった。まあ普通に考えれば予備校に行っている時間だ。当時は携帯電話なんて気の利いたものはない。事前連絡もせずタケダの部屋で彼の帰宅を待つようなことがこの後も何回もあった。タケダの下宿先はマンションを改築して何人かで暮らしていたので、元の玄関は常時開いている。住人に断ればそれこそいつでも訪問は可能だった。
 
 その足で地元に帰ってくると偶然幼なじみのFに会った。すでにこの日記でも書いたが、彼は高校まで私と同じで陸上部の長距離でエースだった男だ。ただ仲が良かった時期は中学までで、高校時は彼の意に沿わず私が帰宅部を選択したので次第に時間を共有することがなくなっていった。
 私の高校は進学校だが現役で合格できない生徒がほとんどで、彼も同じく浪人生活を送っていた。あの時は予備校の帰りで、中学時代の友人何人かと歩いていた。
 奨学生の先輩からもらったCDラジカセは例の兄貴に貸したまま入院中に雲隠れされたので当然手元には存在しなかった。自宅では相変わらずカセットデッキしかないのでその時FにCDのダビングをお願いした。地元に戻ってきてからまたFや勝くんの中学時代の同級生と交流が始まった。




2002年11月01日(金) 引き際


 この頃の私は、自分がどこへ向かおうと心に思っているか、なんとなく分かっていた。今思うととんでもなく子供な挫折っぷりなわけだが(笑)、当時の自分の器には一杯いっぱいで何も考えたくないような状態だった。結局自分は高校2年の頃に感じた末期的な自分に逆戻りしてしまったようだった。その当時から悩んでいた嶋さんとの関係に終止符を打つ時が刻々と近づいてきたようだ。これは多分に自惚れも含まれていると思うが、私の持つ影響力が彼女に悪影響を及ぼすのなら私は彼女から離れないといけない、そう思っていた。彼女には私のような精神状況になってもらいたくはなかったし、彼女に私を救ってもらいたい訳でもなかった。いや、もしかしたらこのまま大人になっていく彼女を見ていくのがイヤだっただけかもしれない。

 事実として彼女は当時私が思い悩んでいたようなことを突き詰める学問への門戸を通っていった。彼女はとても聡明で素直な恥ずかしがり屋だったが、それでいて芯の強い女性だった。彼女はとても素敵な人だ。それを私が侵食する理由はどこにもない。


 筆の進まない日々を過ごしながら、そのことさえどうでもよいような気持ちになっていく自分に歯止めが掛からなくなっていった。結局私は薄っぺらい信頼関係が壊れたくらいで思い悩んで立ち止まってしまうような人間で、それを「世の中はこんなもんだ」と勝手に解釈して自分を納得させているだけの弱小な子供でしかなかった。自分の意志の固さを「社会からの逃避」に依存させているだけの意気地なしだった。簡単に言ってしまえば、「滅びの美学」に陶酔している青春時代だった(笑)。よっていっちゃん以外の女性に目を向ける暇もなく、当然嶋さんにそのかたがわりを求めるような発想もなかったわけだ。

けっこう頑固である(笑)。



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