脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 



もったいぶった言い回ししかしない馬鹿と、
額面通りの言葉しか理解しようとしない想像力の貧困な馬鹿


自分だけの世界で完結する自己中心人間と、
他者の世界を巻き込まないと気がすまない自己中心人間


磁石のプラスと、
磁石のマイナス


水と、





2006年12月31日(日)



 




「容易にできること」に、タラタラ時間をかけていても仕方ない



2006年12月30日(土)



 


まだガキなのに、いっちょ前に体裁を気にして安っぽい見栄を張りたがって
「みんなこうだから、私もこうしたい」と言ったり思ったりしたとき
周りに流されて「わたし」が埋もれそうになっていたとき

いけないことをしたのに 黙っていたとき

家族にさえ、嘘をついていたとき

しょうもないことで、ひどく人をねたんだとき

くだらないことで、思い上がっていたとき

その行為が他人であればすぐに信用を失くしてしまいそうなことをしたとき

子供のくせに、親の力を見限って、大事なときに頼らなかったとき

私が私自身を見限って、物事に必死になってあたらなかったとき

家族なのに他人のような取引をしようとしたとき

自分のことをちゃんと自分で考えなかったとき

自分を大事にしようとしなかったとき



両親は、真剣に私を叱った。




でも、自分たちが大変になったり損害を被ったり不利になったりすることを私がしたことに対しては、
叱らなかった。


手のかかる時期にそのぶんだけ一人の人として育てて叱って、
ある程度手が離れだしたら、一人の大人として意見を聞いてくれた。



そうやって私はできてきたから、
こうやって生きていこうと思えている。



2006年12月26日(火)



 聖楽


空の光と色をうつした、妙なる色の水面が、幾重にも重なるような
重なり合って声の波が、波が、波が
空に刷かれた薄い雲が、淡い紫や桜色とまばゆい光をまとって

声が 音が 古楽というアンティークにいのちを吹き込んで
神の域まで 魂が とどく

天を突き抜けて魂を持っていかれるような

ああ 連れていかれる



安らかなるかな  聖なるかな

大いなるかな  届きたまえ




(N○K音楽祭 ハイライト)
(混声合唱+古楽団)
(ニコラウス・アーノンクール指揮)


(あーそれにしてもあの黒いバイオリンマジかっこよかったなぁ
五弦のコンバスもあった!!糸巻きが普通の金属製じゃなくて木製ぽかったけど、さすがにアレは古いやつじゃないんかなぁ)


2006年12月24日(日)



 





「世界はそんなに出し惜しみしなくてもいいと思いますよ」




2006年12月21日(木)



 



安心してハシャげるのはとても心地の良いもので、
とてもいとしいものである

そんな自分でいさせてくれてありがとうと、
そのひとたちをとても抱き締めたくなる

ときは、巡った

憂いは、安寧に変化しつつある






2006年12月16日(土)



 大人の防衛反応

大人になっていけばいくほど、臆病になっちゃうんだろうか?


大人の、ある程度の人生を歩んできてある程度のプライドとか領分とかを獲得してる人達とか、そういうのは、自己の存在を否定されたりちょっと脅かされたりするような事に対して、過剰に反応するように見える。

特に、大変だった若者時代を経て、もうあんまり誰にも否定されなくなってきたような、ちょっと偉いっぽい人達。

その人達が立っている位置は、もう「どうでもいい」位置じゃないんだろうな。
そういうのを守るのは大変なんだろうな。
でもたまに、めくじら立てすぎじゃね?って思うときもある。
防衛反応があんまり過剰だと、逆効果だぜ。って思う。




2006年12月09日(土)



 「死」と「こだわり」から

私たちは生きていく上で、色んなこだわりや執着を持っている。
○○が好きだとか、○○が欲しいだとか、○○でいるのは嫌だとか、
悩みに囚われる気持ちとか、
色々。


だが、この前チラ見したチベットの仏教の本では、
死ぬ瞬間にこだわりがなくなると。
最も仏だか何だかに近づけると。
書いてあった。


「死」は、この世のものを「手放して」あの世に行く出来事とも取れると思っている。
ということは、
「生」は、あの世のものを「手放して」この世にやってくるものなのだろうかと思っていた。
が、
本当に死が「こだわりをなくす」ということになるのなら、
死の世界では何も手にしない状態と変わらないことになる。
執着するものが何も無い世界。
当然、手放すものも何も無い。
手にするだとか手放すだとか、そんなものを超えた世界。


同じ未成年者でも、生きてる人は犯罪を犯しても名前が出ないのに、死んだ人は堂々と名前や写真を出される。
どうやって生きてたかとか、報道されまくりだ。
生きてないから、人権とかが無い。
人権があるように見えるのは、その死者の関係者がいるからだ。
これって一体どういうことだろうな、と、思っていた。


おそらく、もう死者は本当に違う次元にいってしまうのだ。
私たちの世界のきまりごとや概念なんて本当に関係なくて、
あちらにはあちら独自のものがきっとあるのだ。
そしてそれは、もしかしたら仏教が云わんとしていること。
仏教って本当に、こちら側の人間のための宗教なんだろうか?



やはり、こちらとあちらは根本的に違う世界なのかなと思った。
自分で勝手に妄想しておいてアレだが、
私はそれにどうしようもなく惹かれる。


今まで、全く自分の概念にない世界に埋もれたことがなかった。
生きている限り、この世に存在しているものはある程度イメージ可能なものばかりだろうと思う。
その世界は、私の期待を裏切らないだろうか。
いや、裏切ってくれるだろうか。


2006年12月08日(金)



 いとしさの余韻


とても好きなものとか、

いとしいものとか、

楽しいと思ったこととか、

そういうものは80%くらいが、余韻でできているような気がする。


私たちは、その余韻で生きているような気がする。
一瞬の気持ちの余韻とか、思い出とか、
それはとても不確かだけれど、
意識にのぼらせた瞬間に確定性をもつ。

けれど不確かなのは気持ちとか思いとか、意識だけではなくて、
この存在たち(私たち)すらも不確かなものだと思う。
私たちの存在(椅子ひとつに至るまで)ですら、私たちが意識するからかたちを持つのだと思う。

無いと思ってるものだって、本当はあるかもしれない。
そういうところに、この世界のロマンに富んだ柔軟性があるような気がしてならない。

この世界はきっと、色んなものの余韻や意識でできている。

2006年12月07日(木)



 発音する美学

英会話学校にいたころ、よく先生が
「複数形のsとか、ちゃんと言葉の最後の部分も発音しなさい」
ってよく生徒に注意してたっけな。

そうだろうな、
英語が母国語とあまりにも離れてる人種が聞くと、
語尾って発音してないように聞こえるときがあるし、
発音しなくてもいいんだって思ってしまったり、
発音しないことが英語っぽいんだとか思ってしまったり、
ってこともあるかもしれなかったんだろうな。
でも多分、英語を話す人に、言葉の語尾をちゃんと発音せずに会話したら、
「エッ?」って聞き返されたり。意味が伝わんなかったり。するんだろうな。

発音しないように聞こえてもネイティブは発音してるかもしれないし、
発音してないにしても確固たる隠れた発音の概念があるんだろうな。


たぶん勉強もそうだろうな。
見えないようで存在するもの、
聞こえないようで存在するもの、
その正体を本当に分かってなかったら、
本当に分かっている相手に伝わるような答えは出せないんだろうな。


めんどくさがっちゃ駄目だし、
些細な事でも大事なことなんだろうし、
意味あるものには意味があるんだろうな。


また、それぞれの事柄は、記憶するための鋳型にハマる前に、
ちゃんとひとつの存在であるのだということも、
そこには明確な意思を持った事実が存在しているということも、
多分、忘れちゃいけないんだろうな。

まるで、ひとつの人格をもった人みたいに。ひとつひとつ、存在してるんだろうな。

知識という名のその人たちに、
握手を、
してみようか。
笑顔で。

2006年12月03日(日)
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