脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 妄想の国のアリス

トイレで用を足してるときに、すぐ脇の外の廊下で足音がきこえた。
トイレの窓は、網戸を残して中途半端に空いている。

こんなときにもし、外から中を覗かれたらいやだな。こわいな。って思う。
いきなり知らない人の顔が窓のはしっこに映ってこっちを覗いてるんだ。怖くない方がへんだ。

けど、
外から中を覗くのだって、こわいよね。
だって、外から中を覗いた時には既に、中の人はこっちを目を見開いて見てるかもしれないんだよ。
既に気付かれていた。中の人がこっちをじっと見ている。
でも、叫びも表情を変えもしない。ただ見ているだけ。何も伺えない。不気味。
ただ見ているだけ。


 
わからないもの(unknown)ってのは、恐怖(afraid)になる。

中の人は極度の緊張状態にあるだけかもしれない。
外に人の気配を感じる。もしかしたらこっちを覗いてくるかもしれない。足音が聞こえる。足音が止まった。そこにいる。こっちを見てくるかもしれないこわいこわいこわい

そんな妄想を抱きながら、中の人はトイレの窓から視線をはずせなくなる。
たとえ中の人の妄想どおりに外の人が中を覗いても、
緊張状態にあって心臓ばかりはバクバク鳴ってる中の人は微動だにできない。
それだけかもしれない。


けど、そんなの外の人にはわからない。
中の人が何を考えているのか、本当に生きているのか、どうして最初からずっと窓のほうを凝視してたのか、もしかして俺に危害を加えるつもりだったのか(なんて大変な妄想!)、
そんなことわかりゃしない。




不思議だね、
お互いはとても強く見詰め合っていて、網戸一枚隔てて微動だにできない、
まるで鏡を見ているよう。
なのに、お互いの恐怖は交差することはない。
網戸一枚隔てて対峙しているのは、
壮大すぎるお互いの、妄想に囚われた意識。

次に生まれるものがあるとすれば…、
このあたりはつまらないから、やめておこう。
私が面白いと思ったのは、人ひとりの世界が持つ宇宙規模的な妄想のおそろしさ、と、おかしさ
そして、それぞれの世界によって、驚くほど世界が違うかもしれないという当たり前なのに滑稽な話だから。




2006年08月23日(水)



 死生学の授業より

部屋を整理していたら、死生学の授業で書かされたミニレポートみたいなんが出てきた。
当時書いたものをデータとして打ち込んで、捨てる。
このデータを載せようかと思ったが、色々考えが変わったので(私の中で)最新の考えのものを載せることにする。

今の考えが面白いとは思わないけれど、昔の考えは今のよりも面白くないので。
***************
死生学レポート

「Q1.病気や老いや死が人間にとって必要ですか」


(今の考え)
病気や老いや死が、人間にとって必要かどうかはよく判らないのが今の正直な感想だ。
人間にとってそれらが必要だとか、必要でないとか、人間が判断すべきものなのだろうか。
その人それぞれの主観に頼ったら、その人間にとって必要であったり必要であってほしくなかったり、様々な答えが得られることだろう。かつては私もその主観にのっとって、「必要である」と答えていた者の一人だ。

だが、我々の病気や老いや死というのは、本当は何にとって必要なプロセスなのだろうか?


いや、必要であるからそのプロセスは生じるのだろうか。
それとも、そのプロセスが存在することがまずはじめにあったのだろうか。


たとえば。
私達は生命活動を維持するために、食べ物を摂取したり排泄したりする。
病気はありていに言えば、外部からの刺激もしくは内部刺激によって一般状態が悪いほうに変化することの総称のように思うが、摂食行動などもこれに似ている。異化と同化だ。ミクロレベルでの「状態の変化」である。
これは、生命活動を維持するために必要だから人間というか生命が取っている行動である。
一見、病気や老い、死といった超自然的ともいえる「抗えない」ものにくらべて、摂食行動というのは自分でどうとでもできるような現象に見える。
が、これを極限を突き抜けて中断すれば、たいてい死ぬ。

たいてい私達は、生きる限り死を避けようと生きてくる。
そのために途方も無いエネルギーを費やして、費やして、費やし尽くしているといっても過言ではない。
どうして死を避けようとするのか?
私達は何をそんなに恐れているのか?
死がもたらすあらゆる意味での喪失を恐れているのか?

どうして私達は喪失を、本能的に恐れて避けようとしているのだろうか。
どうして喪うことは、痛みとなるのか?
この「恐れ」は何によって、何のために、得られた…いや、植えつけられたものなのだろうか。
私達は本当は、私達人間のためのみに生きているのではないのではなかろうか。

病気も、老いも、死も、次々変わる環境にその種が適応していくために踏まざるをえないステップである。
世代交代を以ってして、遺伝子の改良を以ってして、種がつながれていく。

…それは、一体何のために?


「病気や死や老いが、人間にとって必要か」という問いは、
主観的な考えを抜きに考えると、
結局はこう問うているのと同じことなのではなかろうか。


―――そんなの、こっちが知りたいもんだ。




「人間にとって」必要かどうかは、正直のところわからない。
なぜなら、この場合でいう「人間」の定義がよくわからないからだ。

どういう存在としての「人間」にとって、それらが必要であるとかないとか問いたいのか
その定義こそ、生老病死と併せて本当は問いたかった内容だったのだろうか?


私はもっと、問いたいことがある。
先生の云うことを聞かず、自分の興味の向いたおもちゃばっかりでしか遊ばない子どものように。


2006年08月22日(火)



 



とても好きなものはいつも、綿菓子のように気がついたら消えている。

あるのはただ、余韻だけ。

2006年08月21日(月)



 then, you may not find this

(if you want to be identiFied,
you have to identIfy someone

you have to see someoNe. it is not "anyone".

you neeD anyone of anypeople,
buT it is not enough.
wHat important is
to fInd onlyone of manypeople.

who iS your onlyone?
can you see your onlyone?
maybe, not.

that's why you're suffering from...)


「誰か」「誰か」と云う人に
周りは見えているのだろうか




君が云ってる「わかってほしい」ってのは
君の言葉だけを「わかってほしい」わけじゃないんだよね

ひと一人の存在は
ひとかけらの言葉だけで易々と理解してもらえるほど
かんたんなものじゃないよ   きっと


2006年08月15日(火)



 殴る

親が手加減をしようとしまいと、子どもにとっては殴られただけでものすごい心理的打撃があります
だって絶対的な力なんですもの
逆らうなんて、どうして考えることができるでしょう?



「ごめんなさい」は、私にとって「こわい」っていう叫びでした
本当に歯の根があわなくなるということを、7歳くらいのときから知っていました



―――シャレにならんな、すまんすまん

2006年08月01日(火)
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