脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 ヒポクラテスの誓い



何から患者を救うのか
死からか、死の恐怖からか






2005年04月29日(金)



 例の列車事故


福知山線のニュースの直後に放送された入院保険のCMのどれほど皮肉なことか・・・!

「人生何があるかわかりませんからねー」


そうかもしれないけど、そのタイミングでその言葉を軽々しく言わないで欲しい

2005年04月27日(水)



 変わるということ(日本語)

おそらく物事には「流れ」というのがあって、
その「流れ」には基本的な法則が存在するのだ。

流れというのは変化であり、
変化していくのには法則がある。

日本語が変わってきた、失われているものがある、
言葉の幼稚化が進んでいる、嘆かわしいことだ
日本語を見つめなおせ 美しさが失われないように と

たしかにそうかもしれないけど、
私だってこの曖昧で不可解で美しい言葉は好きだけど、
嘆いたって変わっていくものは変わっていくのだ、おそらく。

高校のころ、古文で習った古語はあまりに今の言葉と違いすぎたように感じていた。
今の言葉よりも時制の一致に関することがすごくきちっとしていて(まるで英語のようだ)、
言葉の中の法則もかちっと決められていて、
形容する表現も微妙なニュアンスを表現分けできていて、
より、複雑でなおかつ補完された形に思えたものだ。むしろ進化してるくらいの衝撃だった。その衝撃は、一種の感動に似ていた。
しかし、言葉は変わった。勉強しないと理解できないほど変わった。
ひとつの言語がここまで変わるものなのかと目を瞠る。
おそらく変わっていく過程の中で嘆いた人は幾人もいたことだろう。
そのときの言葉を維持しようと頑張った人もいたかもしれない。
だが、言葉は変わってきた。そして今も変わり続けているのだ。
どちらかというと、よりシンプルに。
どちらかというと、もしかしたらどの世界の人でも使えるような言葉に、
近づいてきているのかもしれない。
普遍的なものを求めて変化していく、っていうのは変だけど、
そんな風に思える。
そしてその変化は、ある法則にもとづいているような気がする。
自然界のもつ法則のように、抗えないもの。



だからおそらく、どれだけ嘆いたところで変わっていくものは変わっていく、一定の法則に従って。
それを良しとするか悪しとするかは、人の決めるところではないのかもしれない。
これは、こういう現象なのだ。
おそらく物事が変化するということは、それだけ周りに影響を与える。
変わっていった日本語を、未来の人は素晴らしいと思うようになるかもしれない。そしてさらに変わるのを嘆いたりして。
そしてさらに次の未来の人は、そのときの自分たちの言葉を美しいと感じるかもしれない。
数え切れないほどの変容の後に、私たち地球人は同じ言葉を使ってるかもしれない。そして自分たちの星の言葉に誇りを持つかもしれない。
そして言葉はさらに変わっていく。嘆く人、喜ぶ人お構いなしに。
変わっていくとは、そういうことなんじゃないだろうかと、思うのだ。



2005年04月23日(土)



 difficulty of "help me!"

どんなことがあっても、そこに自分が今存在してるなら全て過去のものになる。
過ぎてしまえば「まあ、あれでもよかったな」と言えてしまう強さがある。

「たすけて」とよっぽど叫ぼうとして、
とうとう叫ばなかった自分に、まあ、あれでよかったと安堵している自分がいる。
辛かったら助けを求めろとよく人は云うけれど、
「助けを求める」という行為そのものがダメージでかい事だってある。
そもそも他の人にできることは限られている。
その限られた範疇で解決する問題なら、とっくに解決できているというものだ。
そもそも救いになるかどうかなんて、ほんとは誰にもわかりゃしない。
後々になってはじめて、「あれでよかったのかもしれない」と本人が思えるくらいだ。
周りにとっても自分にとっても、「たすけて」の難しさは存在する。
そしてその難しさは、過去のものになればなるほどいい意味でも悪い意味でもマイルドに味が調整されていく。
霞んで鮮やかに描かれ足されていく記憶と共に。



けど助けを求めたとしたら、それはそれで「まあ、あれでよかったな」と後に思う自分がいたかもしれない可能性は、それはそれで否定できない。

ぶっちゃけどっちでもいいってことか!



2005年04月22日(金)



 人は、人を

人は、人を救えない

人は、自らによってのみ自分に救いの余地を赦すのだ


それを嘆くのはお門違いかもしれない

けれど、それでは人に何ができる?

人というのは環境だ

環境は変わらず其処に在る

環境は、環境以上のものでも以下のものでもない

私たちは、人以上のものでも人以下のものでもない

ただ、結局は其処に在るだけなのだ


その環境を見て、その存在が自身に何を与えるのかは、

誰の知る由でもないのだろう

2005年04月17日(日)



 




君のとなりは おそらく僕じゃなくてもいいんだろう



2005年04月11日(月)



 ひとり

一人暮らしをしてから、家族に会うのは月に1度くらいと長期の休みのみになった。
普段の自分の周りには大学の友達がいて、それはこれから二年ほど変わらないだろう。
だから、家族に会うことが無くなったって実際のところ今までとそう変わらないんだろうと思うけれど、
この国にひとりぼっちになるんだなと思うと、
なんだか寂しくなった。

でも本当は私はひとりではないし、
寂しくったって何だって私は明日もその先も生きていくんだろうと思う。




私は元気に生きてるから

安心して、いってらっしゃい。

2005年04月10日(日)



 



ものを抱え込まないと、心残りもしがらみも、
なくて当たり前なんだよ




2005年04月09日(土)



 愚かしき好意の返報性

私はもともと仲良くなった子にはあからさまに愛情全開にして接してしまうある意味悪いクセがある。

いや、相手が与えるものをこっちも返そうとする「好意の返報性」で説明したほうがいいのかもしれない。

お菓子を与えられているのは、私なのだ。
毒が入っているかもしれないし、消費期限きれてるかもしれないし、袋の中身はカラかもしれないのに。



相手は、それを私が食べるかどうかじっと窺っている。

2005年04月08日(金)
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