脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 見 渡 せ

其処に恐ろしい闇が在るのなら、
私はその闇の支配者に。
其処に尤も忌わしいものが在るのなら、
私はそのものに向き合って。
其処に越え難い壁が在るのなら、
私は一歩引いてその壁を頭の内で捉えて。

まず己が内で全体を見渡す事を考えよ
そこでまずは支配しろ
呑み込まれるな
引いて見るのは遠ざかるのとは違う
近づく為に引いて見渡すのだ

捉えられたら混乱する事は無い
そして其処から全てがようやく始まりだす

2003年03月26日(水)



 性善・悪説

宇宙に善悪の概念が適用できないのと同じように、
人間としての存在にも善悪の概念は適用できないんじゃなかろうか。
性善説・性悪説どちらにも論がおさまりつかないのは、
そういうことなんじゃなかろうか。
生まれながらにして善であるとか、悪であるとか、
云えないんじゃなかろうか。
そもそも人としての存在が善か悪か、なんて、
論ずべき事じゃないんじゃないか?


人の行動の端々にあらわれてくるものが、それを見る人によって善であるか悪であるかと勝手に決定付けられているだけのような気がするのだが。

2003年03月25日(火)



 今日のは日記。

昨日、晴れていたので散歩に出た。
好きな風景を撮りまくってやろうと、デジカメ片手に勇んで出た。
目指すは庭園みたいのがあったりしてちょっと風情のある、近くの公園。そばにお寺さんもある。

いつも庭園内を流れている水は、流れていなかった。
ちょっとがっかりしつつも桜を撮る。
もう桜の時期か。
工事中のおじさん達がいた。
人が居なかったらよかったのにな、などと思いながら。

そこらへんを歩き回って、深緑の苔にも見とれながら、「展望台」と立て札のあるコースをずんずん上っていった。
こんなコース、ここに住んで十年以上になるけど、知らなかった。
距離はなかなかあった(ように感じられた)。
木の影から光が漏れて、なんともいえず美しい。
光と影が落ちる土道を撮りたくて、シャッターを押す。
が、撮れなかった。
・・・電池切れだ。
替えの電池を持ってこなかった事に後悔し、いい風景が撮れなくなる事にがっくりしつつも、歩を進めた。
出鼻からくじかれた思いだが、こうなったら散歩を思いっきり楽しんでやる、という気持ちで。
展望台というくらいだから、さぞかし心地よい開けた風景が見えるのだろうと先を行った。
ようやく辿り着くが、まわりに鬱蒼と木がはえすぎて、場所も狭すぎて、ただの休憩所にしか見えなかった。しかも行き止まりだ。
来る途中、少し向こうの方に濃い霧のような、もやのようなものがかかっていたのが見えた。こんな晴れてる日に。
もしかしたらこちらも霧がかかってるんだろうかと思ったが、別にそうでもない。
たどり着いたあとで辺りを見回すと、少し向こうの方に開けてるっぽい処があった。
・・・・・墓場だ。
行こうかなぁとも思ったが、なんだか怖かったので降りてしまった。

撮る事が出来なくなった以上、この公園内を散歩するにもたかがしれている。
近くの寺に行く事にした。
息をきらして上っていくと、そこには誰も居なかった。
さやさやという木の葉の擦れ合う音と、遠くで響く自動車の音と工事音だけが、あたりに響いていた。
ちょうどいい処にベンチがあったので、座ってぼうっと眼下の遠くの景色を見る。
・・こっちの方がよっぽど展望台だ。
十何分かぼうっとした後、立ち上がって賽銭箱の方を向いて手を合わせて目を閉じた。
せっかく寺に来たんだから、お参りだってしてみたい。
お賽銭はもってないけど(←財布をもってこなかった)、遠くからひそかに手を合わせるくらいなら赦してくれるだろう。
それに、手を合わせて目を閉じているとひどく落ち着く。
賽銭に関する謝罪しか思う事はなかったが。

気を取り直して寺の境内を出ると、一匹の猫と目が合った。
かなり太っている。
その猫は別段驚く事もなく、ぼてぼてぼてと目の前を通っていった。
えらく度胸の座った猫だ。
悪く言うと、ふてぶてしい、か。
猫の行く先が気になって、足音忍ばせて追ってみた。
ここの寺の神様の化身だったら面白いのに、などと思いながら。
猫は寺の奥へと姿を消すと、にゃぁと一鳴きして、どこぞかへ行った。
あまり奥まで追いはしなかったが。

今度こそ気を取り直して、寺を降りる。
目についた道を進むことにした。
ちょうど看板に「史跡散策コース 箭田大塚まであと3km」みたいな事が書いてある。
昔の人の墓なんてあまり行く気がしないけど、行ってみるかな。

ここは周りに小さな山が沢山ある。
てくてく歩きながら、少し向こうに見える山々に目をやった。
そういえば私、前々から行きたかったんだ。
家の窓から見える山のふもとに。
箭田大塚を横切って、目標とする山のふもと目指して黙々と歩く。
田んぼの中に民家が詰まっている。道はどんどん狭くなる。
このままいくとふもとに辿り着くまでに行き止まりになるんじゃなかろうか、と思った時、案の定、進めそうにない所に来てしまった。
前は田んぼだか畑だか。こりゃ誰かの土地だな。
向こうから小さな子供たちが自転車でやってきている。その後ろに母親と思しき人物も。
私はここの人間ではない。少なくとも知られてない。
・・・・子供はともかく、大人には不信がられるだろう。
そう思った私は踵を返し、もときた道を戻ることにした。
すると、すぐ後ろで自転車(コマつき)の音がする。
見ると、小さなオトコノコ。
ニコッと笑うと、あちらも顔を笑みの形に崩す。
かわいい子だなぁ。
これを機とばかりに、私は情報収集することに決めた。
「このへんに住んでるの?」
「うん」
「ふーん、そうなんだ。さっきまで向こうであそんでたの?」
「うん」
・・・ちょっと怪しいお姉さんであると思ったが、まぁいいとする。
「あの山のふもとに行ったことある?」
「うん」
これは何か判るかもしれない。
「ふもとには何があるかしってる?」
「んーとね、かいだんとか・・」
か、階段か。
「そっかぁ。私ねぇ、あの山のふもとや向こうに何があるのか知りたくて散歩してたんだぁ」
「そうなの?」
「うん」
どうやら私は見知らぬ子には饒舌になるようだ。
ほどなくしてその子が自転車のスピードをあげて角を曲がったので、家に帰ったんだなと思った。
が。
後ろで「てててて、てててて」と一定のリズムで足音がする。時々止まっているようだ。
まさかここの住民に不信がられてしまったんじゃあ・・と思い、内心少し怯えながら振り向くと、さっきの子が私の後をついてきていた。自転車はどうやら置いてきたようだ。
「あれ?帰ったんじゃなかったの??」
「ううん。家どこなん?遠いん?」
「ううん、結構近く。ていうか、いいの?お友達と遊んでたんじゃないの?」
「ううん、あれともだちじゃないよ」
あ、あれ(汗)。
一緒に居た子は友達じゃなかったのか。
「お家に帰らなくていいの?」
「うちが判るまで帰らない」
うち、とは、私の家の事か。
しばらく(私の家が何処にあるかについて等の)雑談したあと、その子は幼稚園を卒園したばかりの六歳だということが判った。
「あの山の向こうって、何があるか知ってる?」
「お墓があった」
「そっかぁ。お墓かぁ」
やっぱり何処にでも墓ってのはあるみたいだ。
そうか、墓か。
どっちにしろまた小さな集落でもあるのかもしれない。
にしても・・うーん、六歳と同レベルで話が出来た自分て。
でも見知らぬ幼児とお喋りするのはフシギな感覚がして楽しいもんだ。
駆け引きとかそんなものなど一切無い。
かわいいなぁ、この子。

その後、背後で何度か窓が開いたり閉じたりする音がしたので、大人に不審がられていると思ってちょっぴり怯え出した私は、やんわりとその子と別れた。
途中後ろを振り向くとまだ立ってこちらを見ていたので、にこ、と笑ってばいばいと手を振ったら振り返してくれた。ちっちゃな手が右に左に。

それからしばらく家に向かって歩き出した。
道すじの選択は勘である。
さびれた水上ゴルフ場(こんなのがあったなんて知らなかった)を横切りついでにぼうっと水のふちを眺めて、勘だけを頼りにジブンの団地を目指す。
そういえばさっきの子と私と、ひとまわり違うのか、同じ干支だな、なんて思いながら。

綺麗な若草色の草や竹薮が撮れない事を後悔しながら、竹薮の中の道路をひたすらぶらぶら進んでいく。シルバーセンターを横目に歩き、団地の近くにあるクリーンセンターまでたどり着いた。
思えばこのクリーンセンター、フシギな建物だ。
馬鹿でかいこの建物の中に、どれだけ大きな化学処理装置が動いているのだろうと少しだけわくわくしながら、人気の全く感じられない(でも中で大勢働いてる人間がいるのだろう)建物を眼下に横切った。
先程からやたら墓を目にする。人ある所には墓が在るんだな、などと思いながら歩いて行くと、やがて団地の裏に辿り着いた。

なかなか楽しい散歩だった。
デジカメの電池が切れたのは少々残念だったが。

2003年03月20日(木)



 好きな事辿り

「子供の頃、好きでたまらなかったことが、結局自分に一番向いているものだったりするものなのです」

という、記述を読んだ。


子供の頃。好きでたまらなかった事、楽しくて時を忘れてしまうほどの事って、何だったろう。
何せ今も子供だから、溯るのが簡単なようで難しい。

好きだった事。
自分の好きなもの(主にプリン)を描く事。
終わり。

幼児の頃を思い出してると、そのくらいしか思い出せない。

いや、まだあった。
新しいあそびを思い付いて、それで皆を楽しませる事。
これは楽しかった。私の新しい遊びにハマらせるのは、楽しかった。今でもこれは楽しい。
というか、人を楽しませるのは楽しいもんだ。なんでか知らんが。
あと、自分で色々作ること。
「わくわくナントカ」とかいうNHKの図工系の番組を見ちゃあ、つまようじで公園の遊具のミニチュアを作ったり、ティッシュの空箱で掃除機のミニチュアとか家のミニチュアとか作って、中で手作り人形で遊ばせた。
疑似教科書や疑似絵本を作るのも楽しかった。「ポプラ社」とか、裏表紙に書いたりしてた。
NHKの宇宙の番組を見るのも何故か好きだった。
一種の「ふしぎなもの」を感じていて、それから目が離せなかったんだと思う。そういえば、小学生の頃は「怖い話」が大好きで、そんな本ばっかり読んだり話したりしていた。研修旅行の時とか、隣で友達が恋愛の話に花を咲かせている間、こっちはこっちで友達集めて寄り集まって、怖い話をしまくっていた・・。・・まぁ、これは子供がよく通る通り道のような好奇心だったのだろう。

音楽の魅力に魅了されたのは、中学に入ってからだった。
選択授業も音楽、クラブも音楽、部活も吹奏楽だった。
音楽に関われる部分は、関われるだけ関わりたかった。
音楽の授業や教科書も、大事な宝物であり、楽しみの一つだった。他の教科書は捨てても、これだけは捨てたくない。
吹奏楽部で楽器を演奏するのが楽しくて堪らなかった。わくわくどきどきしてた。そのために学校に行ってると言っても、過言ではなかった・・・とはあまりに使い古された言葉だが。
その分、転校することで部活が出来なくなるのはショックだった。
新しい生活地では、
文を書きなぐって短編のようなものをよく書いていた気がする。あの時は「何を書くか」というより、「どう描写するか」にとにかく力を入れていた・・・。綺麗だと思うものを綺麗に表現したい一心だった。後になって、「これじゃ意味ねぇじゃねぇか・・」とか思って書かなくなるんだがナ(爆)
描写するだけじゃ何処ぞの耽美小説と同じというか、明らかにそれ以下だ・・。
ちょっと恥ずかしくなったので、それはやめた。

あと、そこはFMのラジオが幸いよく入る処だったので、毎日暇があればずっとお気に入りの局の曲を聴いて、テープに録音しまくっていた。
絵は、お気に入りのもの(プリンが漫画の登場人物に変わっていた)の模写とかを、趣味程度だけど、やっぱり好きだから描いていた。
思えばずっと描いている。描きたい時に描きゃ、あれも楽しいよな・・。特に曲聴きながら描くと・・。

今小学生の妹を見てると、思い出すのだ。
自分が熱中していた事。
そして、改めて見つめ直す。
今、自分が熱中している事。

好きな曲を聴くのが好きだ。
好きな本を読むのが好きだ。
好きな曲を何かで演奏するのが、歌うのが。
好きな文を書くのが、考えるのが。
あとは、好きな声の声マネするのが好きだ(←?)。
ついでに身振り手振り加えてまんま再現するのとか、はっきり云ってカナリ楽しい。それで楽しんで貰えるのが楽しい。
やっぱり、楽しんで貰うのが楽しい。
今は模写とかマネとか引用しか使えないけど、いつか自分のオリジナルの何かで楽しませれるようになりたい。
音楽でも絵でも文でも遊びでも、何でもいい。

それから、もう一つ忘れてはいけない事があった。
随分欲張りだけど、
知りたい事を知るのが好きだ。
判らない未知のものを知るのが好きだ。
図書館行くと、どうしようもなくわくわくしてしまう。
借りるつもりは無かったのに、バッグの中にいつのまにか借りれる冊数限度ギリギリの本が詰まってて、ニコニコしながら家に向かってる。
バッグの中に、知らないけど知りたい事がいっぱい詰まってる事を考えると。

不思議なことに突っ込んでいく事に、
未知が「在る」ことを知る事に、
それが何につながるのかに思いを馳せる事に、
どうしようもなく魅力を感じるのは確かだ。
誰にでもある知識欲かもしれなくても、
私の中でこれは、昔からかなり大きいから、やっぱり。



こうして自分の適性を探っていくと。
探り方が中途半端なせいか、いらん事ばかり書き過ぎたせいか、結局あまり判らなかった。
が、
何も適性が仕事とかと直結していなくてもいいんだろう、という事は判った。
仕事の中でも十分、そういうものは生かせれる気がした。
自分の置かれている環境に関わらず、自分の好きなものは好きなのだ。だって、私が変わるわけではない。
むしろ、様々な環境の中にいても変わらぬものこそ、本当に自分の好きなものとして磨きがかかる事だろう。
好きな事は、どんな環境でもしてしまうし、何にでも生かしてしまうし、忘れないし、何より見つめる先を作る。心の拠り所になる。
そうであれば、自分のしたい筈の事と、今自分のしている事のギャップに戸惑う事も無いだろうと、思う。

何の事はない、自分に一番向いているものは、もうずっと前からちゃんとしてきているんだ。
気付かないなら気付かないで、それこそ良いんじゃなかろうか?
「一部」になって無意識の域に入っているんだ。
それでも探したい時は、
「わくわく」のキーワード片手に過去を溯ってみるといい。
「向いてるもの」は「向きあっていたいもの」だ。
そうすると、きっと見つかるんじゃないかと思う。
本来自分が向き合うべきものが。

2003年03月18日(火)



 大事な大事な脆いガラス

私が大事にしていたものを
どうして壊してしまうの

なんて
勝手なことは云えない

だって、相手も
人間だからね

それぞれの人が大切にしている脆い脆いガラスを
他の色んな人が簡単に壊して行く
壊した人にとってはあまりにも脆くて
きっと壊した事も判らないんだろうね

脆いから大切にするんだよ
でもその保護さえも、時としては意味を成さない

ガラスが割れたら
もう守るも何も無い
身体に無数に刺さるガラスの破片が
じくじくと傷口の中で疼くのを
ただひたすら感じるだけ

騙されたような情けないような
泣きたいような気持ちのまま
ガラスの破片を一人で抜く
でもなかなか取れなくて
傷口は広がるばかり
もう
入り込んじゃったよ

痛みは消えても
己の肉に入り込んだガラスの破片に
なんとも云えないものを感じて
常に気になりながら
過ごすんだ

壊した人と会うたびに
その破片をふと
思い出して
また、すっきりしない感じが蘇る

壊した人には警戒するようになるよ
でも本当は警戒なんかしたくなかったよ
ガラスを持っていても大丈夫だと思ってたんだ
傍にいても大丈夫だと思ってたんだ
そう思わせてほしかった


でも、キミはモノじゃなかったんだよね
だから壊れて当たり前だったんだ

そして私は
それでも傍に居たかったんだ



2003年03月10日(月)



 諦める

本当に望んでいる人に、積極的に乗り出している人に、
「諦める」なんて言葉はない。きっと無い。
やるだけやってみて駄目だった場合、出来なかった場合、もう「諦める」なんて言葉を使うのは・・・なんというか、遅い。
諦めてたら、やるだけやってみたりなんかしない。
人が諦めるのは、何かやる前だ。
「諦める」というのも時には賢明な選択となるだろう。
元々やる必要が無い場合や、もっと他に何かある場合だ。
でもあんまりその選択を取ってると、何かしたいと思ったときに周りに何も無いかもね・・。

自分への警告。



人間に一番足りないのは”意識的に最善を選択する判断能力”なんじゃないのか?
でも失敗しないと学習できないしな。
無意識的に働く潜在意識は皆イイの持ってるのにね。
それを扱うのがまた職人技入ってくるんだろうね。
皆うまく潜在意識を扱おうぜ。

2003年03月09日(日)



 潜在意識

脳の大部分は寝てる、という通説はもはやアタリマエという俗物となりつつあるが。


ほんとに寝てるのか?


知らないだけなんじゃないのか、私達は。
いやそれ以上の無知だからこんなことが云えるんだが私は。
もしかしたら今回のこの文は情報が確かでないため(←いつもだろ)後々抹消するような気がするんだが。

私達が使っている(と思っている)部分の脳。
計測器とか色々使って検出してみれば、動いてるところはほんの僅かかもしれないが。
もしその計測器でも検出できないモノが出てたらどうか。
発展する技術はある種感動的なものがあるが、そればかりを全面的に信頼し満足するのはあまりに危険だ。


これが一番言いたくて、これが一番不確かなのだが、
世に言われてる「使ってる脳の部分」の中に、「潜在意識として働いている部分」というのは入っているのか。

「潜在意識」の言葉を多用しすぎると怪しい新興宗教の信者とか新派の哲学家気取りのイカレ野郎とかに思われやしないかとちょっと心配なのだが、この言葉は好きだからやっぱり使う。
この文の書き手の正体は「どうでもいい処で立ち止まりたがる厄介な青少年(←ホントにな)」(説明的に言うと「考えるという行為にすらエネルギー制御が出来ないだけの未熟な青少年」)という何の変哲もない学生だからあまり気にする必要もないだろう。
いいなぁ。「何の変哲もない」って言葉(お前は”変”が入れば何でもいいのか)。
変哲もない・・・へんてつ・・哲学的に変わったところがない、という事なんだろうか。思えば妙な言葉だ。


話を戻そう。

「潜在意識」は一つのキーワードだと思う(戻ってねぇよ)。

感じないだろうか。潜在意識。
人はその思考の方向や生き方、動作の根本的な決定付け、思考の根本的な決定付けをすべて潜在意識でやっているんじゃなかろうか?
表面に出てくるのはごく僅かだ。
だが私達は表面しか目の当たりにしない。
表面しか見えない。
だからそれがすべてに思えてしまう。
だから人は驚く。脳は少しの部分しか活動していない、ということを聞くと。

そういえば、言語だってそうだ。
人は相手に意思疎通を図る時に使う言語は、実際為されている意思疎通の三割ほどしか役割を果たしていなかった(割合ウロ覚え)。あとは、ジェスチャーとか表情とか色々。実際声やコトバに出てこないモノで意思疎通の大部分をカバーしていたのだ。

意識だって。
実際意識に出てこないモノでその人の生きる道の大半を無意識(=潜在意識)が担っていたのではないか。
そしてその能力は「使われていない部分」と人々に呼ばれている部分が司っていたのではないか。
私達には確かに「使っている」証拠を特定できないでいるけれど、判らないでいるけれど。
ワカンナイからアクティブじゃない、なんてのは、あまりにも大雑把すぎやしませんか。や、ワカンナイ事にあーだこーだ云うより判りそうな事を先に解明していくのは当たり前のことかもしれないが。


私達の脳に、眠ってるところがそんなに沢山あるはずないよ。

未知のところにこそ可能性のスポットライトを。









*************
・・・・・「結果」から「それみたことか」と中を探っていくのはセコイやり方だと自分でも思います。


2003年03月08日(土)
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