窓のそと(Diary by 久野那美)

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2008年10月09日(木) 「オウエンのために祈りを」

「なんにでも理由がある。」という考え方が私はとても好き。
もしかしたら言葉や論理ではなかなか説明できなかったりするかもしれないけれど、でも、確かにあるのだ。あると思いたい。よさそうなのが見当たらないなら作ればいいと思う。

「理由なんか無い、そういうものなんだ」

という言葉には説得力を感じない。

「ほんとうに大切なことには理由なんかないんだよね。」

とか、言われるとなんだか嫌な気持ちになる。
でも、その「嫌な気持ち」がうまく説明できない。

唯一無二の答を求めてるのとは違うのだ。
理由はいくつあったっていいし、万人が納得する事実に裏打ちされてなくたってかまわないとおもう。物語というのはそもそも、事実とが科学とか社会とかの制約をとりあえずおいといて、とにかく何が何でも「理由を説明する」ために発明されたものなんだとおもうし。

「理由なんか」という暴言に比べれば、その理由がほんとうなのか嘘なのかなんて、どうでもいい違いのような気さえする。


ジョン=アーヴィングの小説が好きで、読み始めたら一気に最後まで読んでしまう。絶対に、途中でやめられない。だけど彼の小説はものすごく大きくて重い。内容が、じゃなくて、本が重い。本が大きくてかさばる。持ち歩くのがたいへんだし、寝転んで何時間も読んでると腕が上がらなくなったりする。時間と体力に余裕がないとなかなか読み始められない。読むとものすごく疲れる。だけど、だいたいの小説やら映画やらお芝居は「長すぎる」と私は思うのだけれど、このひとの小説だけは、「長すぎる」と思ったことがない。必要なことが全部書かれるのに必要な長さだと思うから。

「演劇は誰のためにあるのか」という議論をよく聞くけれど、そして、それはたいてい「1観客のため」「2創り手のため」の2択から選ぶことになっていたりするんだけれど、私はいつも、「登場人物のためでしょう」と思っている。彼の小説は、全くそんなふうに作られているので、読んでいてとてもとても気持ちがいいのだ。

なんといっても、登場人物が生まれた瞬間(受精した瞬間からというのもある)から詳細に書き始め、死ぬまで責任を持って描き続ける。何もないところにどかんと物語がつくられて、おしまいになったら跡形も無くきれいに撤収される。ほんとうに気持ちがいい。
なにもなかったはずなのに、跡形も無くなるはずなのに、物語の間だけそこに存在するくせに、すべてのものにちゃんと理由がある。

「オウエンのために祈りを」は、中でも群を抜いておもいっきり、そのことを描いた物語だ。身体や家庭環境にハンディキャップをもつ主人公のオウエンは、「僕がこういう風に生まれてきたことには理由があるはずだ」と信じている。悲しい事件の当事者になっても、やっぱり「これには理由があるはずだ」と信じている。そして、その理由を知りたいと思っている。「理由なんかない」と先生も両親も思っている。だけど、オウエンはオウエンの人生を生きているので、そういうわけにはいかないのだ。彼は想像力と妄想力と、知識と行動力と、あらゆるものを総動員して、彼のいちばん知りたいことを知るために生きる。

自分が自分である理由を過去に求めるのはなんだか詮無いなと思うのだけれど、それを未来に求める生き方は生産的で魅力的だ。この先明らかにされるに違いないそれ、を知るために彼は生きている。「理由はある」のだから、過去になかったものは未来にあるはずなのだ。
彼が友達の半分くらいの大きさしかなくて、人間とは思えないような奇妙で甲高い声をしていることの理由。不幸な少年時代を送ることになった理由。

ものすごく大きくて重い本には、オウエンが「自分が生まれてきた理由を見届けるために」行ってきたたくさんのことが描かれている。オウエンは何があってもあきらめずにたくさんのたくさんのことをする。だからこの物語は例によってものすごく長くなっている。
ものすごく長いこの物語は、最後に「オウエンが生まれてきた理由」をすっかり余すところなく説明して終わる。オウエンがオウエンでなければならないこと疑うことなく信じ、絶対にあるはずの「その理由」を探し続けた結果、彼は彼の最も望んでいたものを手に入れるのだ。オウエンの悪あがきのように見えた荒唐無稽な人生は、一転して、彼が彼である理由を説明する物語に変わる。すとん、と胸のすく結末が用意されている。

それは他人にとってはとんでもなく「非現実的」で「観念的」で「正気の沙汰とは思えない」しかも「悲惨な」物語なのだけれど、オウエンにとっては何よりも確実で何よりもなくてはならない理由だった。

オウエンが自らに与えられたものを疎ましく思い、「もっと希望に満ちた理由のある」自分を求めて行動したりしたなら、とてもつまらないものになっただろうと思う。小説も、オウエンの人生も。でも、オウエンは自分に起きたどんな理不尽なことにも悩んだり迷ったり後悔したり反省したりしない。諦念というのは実は圧倒的に生産的なものだったりするのかもしれない。

「オウエンのために祈りを」はきっと、壮絶な悲劇なのだろうけれど、でもなぜだか悲しみというよりは切ないけれどきっちりとした優しさに満ちている。「なんにでも理由がある」というのはそういうことなのだと思う。

でも、きっとそれだけじゃなくて。
オウエンは小説の登場人物なので、オウエンのために祈ることのできるひとたちがいる。

語り手のジョンと、アーヴィングと読者だ。

そのことが、とても重要なことのような気がする。


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