窓のそと(Diary by 久野那美)

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2002年04月14日(日) 今日あったこと。

  今日何があったのか・何をしたのか、言葉にして書き留めるのはとてもむずかしい。
これは日記なので、「今日あったこと」を書いた方がいいんだろうなあと思いながら、ひとにもときどき指摘されたりしながら、未だ達せずにいる。
だけどそもそも、「今日あったこと」を今日記録することに無理があるんじゃないかしらと思ったりもする。

映画を見ている最中にストーリーについて説明するのはきっとずいぶんと難しいに違いない。
どのシーンについて話すべきで、どのシーンについて省略するべきか、何についてどれくらい話すべきか、誰についてそれくらい話すべきか、
「最後まで見ないとわからんでしょう。」
と思うのだ。

生きてる間のことをおわりまで見てから自分で記録することはできないので、「最後」というのは人生のおわりのことじゃない。だけど、24時間ごとに区切られる時間のおわりでもないような気がする。
<今日何があったのか>・・想い出して言葉にしようと思ってもなかなかできない。
だけど、ずいぶん時間がたってから突然想い出したりする。
今日あった「そのこと」が終わるのは今日のおわりではなく、そのときのような気がする。

おんなじできごとを何度も想い出すこともある。
全然違った言葉を使って想い出すこともある。
1回だけ起こる出来事だけど、何回でも終わることができる。
いろんな形で終わることができる。

だから、そのたびにいろんな言葉で記録すればいいんじゃないかと。


2002年04月02日(火) 人事の及ぶところについて祈ってはいけない

なにかが解決していく、その過程を描いたものがなんだか苦手だ。
そこに物語を見るのがどうしても嫌なのだ。

物語というのは、何かが解決していく過程にではなく、何かが解決し終わったあとに生まれる(残る)ものだと私はきっと思っている。誰が何をどうしようとも、もうどうしようもなくそこに残ってしまうもの。
具体的に解決できることは意外とたくさんあって、目の前のひとつからとりあえず手をつけていけば、けっこう片づいてしまうもののような気がする。解決不能に思えることのほとんどは、やってみればなんとかなるものだと思っている。
情緒的に全体を俯瞰するのはそれからでいい。どんなに効率よく、どんなに巧みにダイナミックに解決を図っても、それでも残ってしまうものは絶対にある。
どうにかすれば最終的にはどうにかなることをはじめはどうにかしないでおいて、それがどうにかなるまでの間を描いたものを物語と呼ぶことにどうにも興味が持てない。どうにかすればどうにかなることを、ドラマのためにわざわざ小出しにせんでも、だったらはじめからどうにかすればいいじゃん、と思ってしまう。

そんな具合だから。
「どうしようもないこと」にばっかり興味が向く。問題は、これから手をつけるものの中にではなく、手を尽くした後に残るものの中にあるような気がして。

・・と以前、制作の打ち合わせの時に言ったら、制作の中村くんに、
「・・どうしようもないことって・・・・それはたとえば秋が冬になるようなことですか・・?」
と言われた。・・・暴力的な例のようだけど、でも、それでも、そう。
「で、でも・・それは・・そうなのか・・・?」
と中村君は頭を抱えていた。

どこで聞いたのか忘れたんだけど、素敵な言葉がある。
<人事の及ぶところについて、祈ってはいけない。>
私は、物語というのは、「祈ること・そしてその方法のこと」だと思ってるのかもしれない・・。


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