窓のそと(Diary by 久野那美)

→タイトル一覧  過去へ← →未来へ

2001年12月28日(金) いろんなひとがいる

通っていた中学も高校も、とてもこじんまりした学校だった。
おなじ学年にしらないひとはいなかったし、全校生徒がだいたい顔見知りだった。
そこから、関西でいちばん大きな大学に進学した。
入学式の日。
立ち並ぶサークルの看板に驚いた。
「雅楽部」「奇術部」「探検部」「速記部」は序の口、「超文学研究会」「さだまさし研究会」、ほかにも聞いたことのない単語のついた研究会がひしめいていた。
180人の中ならひとり居れば多い方だったマニアックな嗜好も、サークルができるほどの人数を集めて普通に存在していた。
テニスをすることも、帽子から鳩を出すことも、防人の歌について語ることも、一定以上の支持を集めているという点で平等なのだった。サークル総会では同じく1票がもらえる団体なのだった。
そのまま計算すれば切り捨てられてしまう小数点以下3桁の数も1000倍すれば整数になる・・・。奇妙な感慨を覚えた。

インターネットでHPめぐりをしてると、あのときのことを想い出す。
「風船について」「紙飛行機について」「せんぷうきについて」嗜好を同じくするひとたちが集う場がある。そこでは当然のように会話が交わされ、イベントが企画され、定例会や会報誌が発行されている。おおきいと思っていた大学はそれでもたかが2万人だったけど、ネットはそんな規模じゃない。驚くと言うより感動的。

インターネットで世界につながる・・という表現をよく見る。
それって、大きな目的を大勢で共有することのようにみえるけど、実は反対なのねとつくづく思う。世界が大きくなるということは、小さくて見えなかったものが見えるようになることだった。1000倍して、10000倍してどんどん整数にしていくことだった。



2001年12月27日(木) にせもの

<ほんもの>ははじめからそこにあって、あるのがあたりまえだった。
<にせもの>ははじめはどこにもなかった。ないのがあたりまえだった。
だけどそれでは困ると思っただれかが、ほんとうはないはずのものを創ってしまった。

<にせもの>の出現によって、
「在る」ということは、そうそういつもあたりまえではなくなってしまった。
世界は「在ること」からはじまるときもあれば、「無いこと」からはじまることもあった。
あたりまえに「在る」のは<ほんもの>だけの特権になった。

何故在るのか。どこに在るのか。<にせもの>は問い続けた。
答が尽きれば<にせもの>はあたりまえの姿にもどる。
ないと困る誰かのところにだけ、ないと困る間だけ、「在る」ことができた。

「在ること」から始まる世界では何も問われなかった。
<ほんもの>はいつもはじめからそこに在った。

それ自体が答だった。


2001年12月09日(日) 雪の降ってない日

冬になると。
毎日が、<とっても寒い日>と<あんまり寒くない日>のどっちかになる。
<雪の降ってる日>と<雪の降ってない日>のどっちかになる。
<とっても寒い日>と<あんまり寒くない日>はおんなじシリーズ。
<雪の降ってる日>と<雪の降ってない日>は、おんなじシリーズ。

今日は雪の降ってない日。
あんまり寒くない日。

明日はどっちの日だろう。


2001年12月06日(木) その場所

お芝居を作るとき。
「客席」というのがいつもどうにも腑に落ちない。
あれは何のためにあるのか。
観客が舞台をみるためにある、というのはわかる。だから観客席というのだということも知っている。でも、物語の中の世界にとって客席は何のためにあるのか・・。
なぜ、そこに住むひとたちは、一定の方向から見えやすい角度や高さのところに立ち、しばしばその一定の方向を特別な場所として扱うのか。彼らが暗黙の了解で特別な場所にしている「その場所」にはいったい何かあるのか。それが解決しないと、非対称な空間になってしまう。

20歳のときはじめて作ったお芝居は、「その場所」は線路の向こう側であり、はるか下方だった。(宙を走る汽車だったので)線路を斜めに配置したので、観客は舞台を斜め下からしか見ることができなかった。物語の中のひとたちは、斜め下方の「その場所」のことをきっと何も知らずに物語の世界を生きていた。だからあのときはあんまり悩まなかった。
次にやったお芝居では、客席は、展望台の眼下に見える町の中にあった。
物語の中のひとたちは、ときどき展望台の柵にもたれて眼下にある「その場所」を見下ろした。展望台である以上、展望される眼下の町が最も特別な場所であることには違和感がなかった。
次にやったお芝居では、「その場所」は海の底にあった。物語は港の上にあったので、そこでもやはり、「その場所」が特別な場所であることには説明がいらなかった。

山羊の階の公演では、「その場所」は壁の向こう側にあった。
物語の中のひとたちと、壁の向こうの「その場所」が、見通しのいい関係であることに違和感を感じた。

そこで、客席と舞台の間に壁を造ることにした。

出演者からクレームがついた。
「そこに壁を作ると客席から私たちが見えなくなってしまいます。」
彼らにとって、それはとても大切なことのようだった。

壁に穴をあけることにした。

スタッフ側からクレームがついた。
「それでなくても<自閉的な作品>といわれているのに、観客との間に文字通り壁を作ってどうするんですか?」

客席を壁の上方に作ることにした。
みんなあせってきた。
「物理的に<見えればいい>というものでしょうか。それでは観客が精神的な閉塞感を感じてしまいます。」
「<奇をてらったことをして>とうけとられ、方法ばかりが注目されて意図を汲んでもらえない危険の方がはるかに高いです。」
「それでなくても久野さんはいつも、「何のアンチテーゼですか?」と言われるのに・・」
「観客が疎外感を感じる舞台ってどうでしょう?観客を無視した自己満足だと思われますよ。」
あまりにも必死になって全員がそれそれの事情から反対するので、そして、何よりもその壁に魅力を感じるひとが他にいなかったので、結局他の方法を考えることにした。
私にとって魅力的な方法が他の人にとっても魅力のあるものであるための説得力が、そのときの私にはないのだとおもったので。説得力なくひとを説得してはいけないなあと思った。
魅力的に合理的に、物語を楽しんでほしくてすることが、観客に苦痛を強いることになるのは嫌だなあと思った。きっと、私にはまだわからない世界の見方があるのだと思った。
自分の方法を確認するのは、それを知ってからでも遅くないなと思った。

けれど。
あれから1年経つけれど・・。
私の気持ちはあんまり変わっていない。
このところ、お芝居を見ていないというのもあるけど、そもそもどうしても客席から全部見えなければならないのか。狭いところから広いところを覗き見ることに、ひとは本当にどきどきしないものなのか・・・。却ってわからなくなってきた。

私は好きなんだけどな。
大好きなんだけどな。目の前のわずかの手がかりを媒介にして見えないもののことを考えること。ひとが話してる電話の向こうにある世界、自転車をあそこにあんな風にして捨てていった誰かの事情、昔、この家にすんでたはずのひとのこと、この落書きが誰かにここに書かれたときのこと・・・

疎外されてるとは思わないよ。
そういう形でしか、ひとは自分も他人も壊すことなく他人の世界に参加することはできないんじゃないかと思ってる。「誰かいる。何かしている。」と思いながら通り過ぎること・・・。

見てる場所と見られてる場所が非対称にならないお芝居を作りたい。
それはそんなに難しいことなのかなあ。


2001年12月05日(水) 「それ」

パソコンを買ったとき。フォーラム(電子会議室)というのに行ってみた。
そこではいろんな種類の同好のひとたちが集まって、好きなものについて話をしていた。
演劇フォーラムでは、みんなが演劇について話していた。
そこでは、観る人の半分以上が創るひとでもあったので、
「それ」は主に創ったひとのものだった。

次に文学フォーラムというのに行った。
文学フォーラムでは、みんなが文学について話していた。
そこでは、観る人の99パーセントは創る人ではなかったので、
「それ」は主にファンのひとのものだった。

その次に、スペースフォーラムというのに行った。
スペースフォーラムでは、みんなが宇宙について話していた。
そこでは観るひとの100パーセントが創る人ではなかったので、
「それ」は誰のものでもよかった。


2001年12月04日(火) 渋滞

いいことなのか悪いことなのかわからないけど、渋滞が分からない。
「そんなはずはない。」と言われるけど、でも、あれって結構難しいと思う。
「渋滞してる」ことを確認するためには、

 ー屬多く、道路が込んでいる。
◆,燭咾燭啝澆泙襦あるいは進んでいてもスピードが非常にゆっくりである。

 の2点を押さえなくてはいけない。

 さらに、

 △両態が一時的なもの、渋滞以外の理由に因るものではなく、長時間断続的に続いていなければならない。という条件がある。
乗り物に乗ってるときに、絶え間なくあたりを確認し、周りが 銑の状態にあるかどうかをチェックする余裕はなかなか作れない。

<動いた>とか<止まった>とかいう「出来事」について知るのはそう難しくない。その瞬間だけ注意を向ければいいから。でも、<常に動いている>とか<しばしば止まる>ということを知るためには、注意を常に一定の対象に向け続けていなくてはならない。油断すると途中でわからなくなる。けっこう複雑な知的作業だと思う。運転手以外のひとがみんなそんなに器用にできることだとは思えない。何度か挑戦してみたけど、そして、少しは分かるようになってきたけど、でもどうしても最後までは無理だった。

これは、でも、できないからといっても誰に迷惑をかけるわけでもないので、まあいいか、と思っている。それどころか渋滞の中何時間でも楽しそうに乗っているので喜ばれたりもする。ちゃんとできないことで喜ばれるのは複雑な気持ちもするけど、ちょっと嬉しい。

自分で運転できないからだと思うけど、乗り物に乗るのは大好きで、車なんか何時間でも機嫌良く乗っている。身体が静かにゆっくり振動するのは気持ちがいい。ついついぼおっとしてしまう。とっても楽しい。好きな時に外を見てもいいし、好きなときに別のことを考えていてもいい。バスとか電車に乗るのも好き。
特に、私は始めたことを短時間で中断したり、すぐに別のことにとりかかったりするのがかなり苦手な方なので、一定時間以上ぼおっとしてても「移動中」という名目がある状態ってすごく得した気分がする。

渋滞がわからないのは、嫌だと思わないからかもしれない。
急いて移動する機会がなかったからだと思うけど。


2001年12月03日(月) 猫がみてるもの

猫はいつも何か見ている。
猫の世界ではいつも何かが起こっていて、静かに何かが起こっていて、でもそれは突然ふと解決してしまったりする。静かに音もなく解決してしまったりする。
何かが起こると、猫は瞬時にそれを察知して静かに的確に注意を向ける。
やがてそれが突然前触れもなく解決すると、今度は静かに速やかにそっぽを向く。
猫の世界では、いつも何かが起こっている。
いつもなにかが解決している。
猫はいつも忙しい。


2001年12月02日(日) 11月のおわり

よく間違える。
違うと言われても、なんか納得がいかない。
実は31日があるんじゃないかと思っている。

だって次の日から12月だよ。
12月は冬だよ。
11月は秋だったんだよ。

30日までしかありません、というのは嘘に違いない。
隠してあるんだと思う。
こっそり使うんだと思う。

見えないところに実はある、秘密の1日を使って、
11月が終わってから12月が始まるまでの間に、
秋は人知れず冬に変わるのだ。


→タイトル一覧 過去へ← →未来へ


↑投票機能がついてるようです。よろしければ・・ ・・・My追加
日記作者へのメールホームゲストブック日記以外の作品