度々旅
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2004年12月31日(金)

 あたくし、今起きました。午後1時半です。部屋に一人です。大晦日は雨って聞いてました。雨だと思ってカーテン開けました。雪ですよ・・・。それも、都心から外れている私の住処は、東京にしちゃあ大雪ですよ!一日たったら解けてなくなってしまうという降り方じゃないよ!あああ。
 どちらにせよ、正月も大晦日もアパートで一人過ごす予定だったのだけれど、友達と紅白のマツケンサンバくらい一緒に楽しみたかったよー。その夢は絶たれた。友達の車で、近くの温泉に行こうって企画もこりゃダメだ。
 今まで、大晦日にせよ正月にせよ実家に帰らず、ふらふら遊んでいたが、今年は実家には帰らないものの、部屋で一人ビデオ三昧のようです。そう、ビデオ!借りておいて良かったぁ。
 ということで、布団の中でひとりマツケンサンバを口ずさみます。

 2003年の大晦日の日記を読んだら、今年の目標は論文提出と書いてあったので、なんとか目標を果たせたようであります。来年の目標は、新しい道を負けずにへこたれずに歩くです。

 では、みなさま良いお年を。今年も一年、日記にお付き合いくださりありがとうございました♪


2004年12月28日(火) この人たちが大好きだ

 学生の頃のサークルの人との呑み。最近、多い。先輩達は就職後、地方に去ったりして、会えなかったけれども何人か戻ってきたことで、会う機会が増えた。職を辞めた人もいれば、新に職についた人もいる。この人たちと遊んでいるとき、私は一番安心しているかもしれない。
 一人の先輩がおっぱいおっぱいと言い出した。そして、お前早く帰れと言い出した。珍しく、女子は私のみの参加。ちきしょう。そんなにおっぱいの店に行きたいのか!私も連れて行けとゴネ、絶対帰らないと言い、呑み続け、そのオッパイ店の割引時間が過ぎ、男共は断念。うけけけけ
 この人たちの、そういうところが好きだ。帰れと普通に言ってくれるところが好きだ。そして、結局なんだかんだ文句言いつつ、付き合ってくれるのも好きだ。メールで飲み会の連絡をすると、無視したりうるせぇと言ってくるのに、必ず来てくれるところが好きだ。みんなひねくれ者だから、互いにヒドイこと言っているように見えるが、本当は寂しがりやなのだ。だから、優しい。あたしが一番ワガママになれる相手だ。


2004年12月26日(日)

 有馬記念。今年もはずした。ダメだぁ。ペリエ強いなぁ。
 その後、かつてのバイト先の友人とその上司と会う。新宿にて、だらだら呑む。上司のSさん、いつもスポンサーとしての参加ありがとうございます。また、おごってもらいました。なんだか、人さまのお金でばかり呑んでいる気が致します。
 しかしだ。あたしは、このバイトで知り合った友人と、こんなに長くお付き合いをすると思わなかった。毎年一度はこの3人で飲むようになっているのだけれど、この奇妙な関係はいつまでも続けていきたいものだ。
 


2004年12月25日(土)

 クリスマスということで、T氏にプレゼントをもらった。絵本である。タイトルは、『ねぎぼうずのあさたろう その2』。その2ということは、1もあるわけで、1は既に数年前の入院したときにお見舞いの品としてもらった。
 この絵本、かなりイカシテいるのであります。4まで出ている。本屋で見かけたら、手にとってみてくださいな。
 あとは、隣の駅まで足を伸ばしイルミネーションなるものを見て、ゲーセンでコインゲームを久しぶりにして、買い物をして帰ってきた。なかなか毎日忙しい。


2004年12月24日(金) クリスマスイヴ

 ということで、院生の先輩と同学年と3人で呑む。わけのわからない会。先輩が論文お疲れということで、プレゼントをくれた。嬉しい。こういう気遣いって本当に嬉しい。
 目立たずに院生生活を続けていたつもりが、なんだかんだ先輩方にかまってもらえた。最初は、呑み会など面倒くさいと思っていたのが、今や正規メンバーとして参加している感がある。院生になって、呑める量が増えたのは間違いないなぁ。


2004年12月23日(木)

 噺家になった後輩の落語会。先輩と出かける。最寄駅で同じパンフを手にしたおばさんに声を掛けられ、一緒に会場まで歩く。なんと、そのおばさん。うちの後輩のファンだとか。なんか、すごく嬉しくて、何度も何度もありがとうございますと繰り返してしまった。後輩はまだ前座なのだけれど、浅草演芸場で高座に上がったのを見て、これは伸びると思い、それから応援して下さって、いつも聞きに来て下さっているそうだ。私達がその知り合いということで、おばさんは、感激してくれて、今日はとっても良い日だわぁーと言ってくださった。これからも贔屓ににしてやって欲しいなぁ。
 そういえば、学生の頃も、毎回私達の落語会に来てくださるお客さんがいた。差し入れをくれたおばさんや、自分で作った木彫りの猫をくれたおじいさんもいた。いつも来ていたおじいさんが来なくなって、どうしたのだろうと思っていたら、奥様から、おじいさんが病気で最近会に行けなくて残念がっているという手紙と、私達を写した写真が送られてきた。あの時、ちゃんとお礼状書いたのだったかな。まだ元気でおられるのだろうか。
 学生のお遊びだけれど、たくさんの方が私達を育てて下さっていたと今思う。そして、後輩はこれから沢山のファンができるのだろう。その一人として私も彼を応援し続けて行きたいなぁ。


2004年12月22日(水) 母とお出かけ

 母とディズニーランドに行ってきた。母は、大興奮だった。あたしよりずっと、TDLの遊び方を熟知していた。まずは、ショーのための座席の抽選を朝一でして、その後ファストパスをとって、その待ち時間にパレード見てなどなと、次々と案が出て、あっちやこっち歩き回った。
 コーヒーカップなんか、あたしよりガンガン回してギャハハハハと笑ってた。スプラッシュマウンテンでは、最後の落ちるところで、しっかり手を上げて写真に写ってた。初めて、あの写真を買った。なんだか、母、すごいよ!若いよ!

 そんな母は、最近吹き矢を習い始めた。弓道か、長刀か、吹き矢どれにしようか悩んだって、あなた・・・。そういう姿を見ると、あたしの母だなぁとしみじみ思う。


2004年12月20日(月)

 同じ研究室のと某教授の最終講義。いつも通り手伝いに借り出される。目立たないように過ごしていたつもりが、こういう時にはいつも借り出されるようになっていた。そして、その度に「当日民族衣装は禁止です」だとか、「フォーマルな民族衣装、着物、スーツ等でお願いします」だとか、あたしだけ先輩に注文をつけられる。むぅー。

 講義の後の、パーティーにて、同学年の一人が論文提出直前で院をやめたことを知らされる。彼は、一番本気でやっている人だっただけに、ショック。本気だっただけに、書けなくなってしまったのだろうなぁと。院に入るときも、合格したのに、自分には力が足りないと言って、その年には入らず浪人してた。そういう本気さが、彼の首を絞めたのではないかと悲しくなった。うちの研究室は、そういう人が多すぎだ。

 パーティーには、私の指導教授も来ていて、久しぶりに会った。結局、パーティー中ずっと話していたよ。この人の良いところは、授業以外では殆ど学問の話をしないこと。するとしても、普段とは違った角度からなのでかなり面白い。うちの指導教授は、特殊分野だけに今まであまり学生を持ったことがない。同じ学年に2人も自分の担当学生がいたことは、あたし達が初めてらしい。そんなわけで、「来年寂しくなるから二人の論文を落とした方がいい」などと、先輩がわざわざうちの教授に言っていた。やめてくれー。
 その後、教授と私ともう一人の担当学生K氏と呑み屋へ。そこで思い出したかのように、「落とせって言ってたけど、落とさない方がいいんだよね。」なんて確認をされた。先生、そういう言葉は真に受けないでください。


2004年12月17日(金) 提出

 論文、提出致しました。けれど、いまいちスッキリしない!最後の最後までミス発見で、印刷後にも発覚。あぁー。急遽差し替え。紙の色が違うっす。卒論のときと違って、爽快!って感じじゃないんだよなぁー。理由を考えてみると、卒論のときは途中でだいぶ先生に原稿を見せた。見せたといっても、教授は出来上がったものを見てモノ申す人なので、特別何か言われたわけではないけれど、なんとなく見せている安心感があった。今回は夏に見せた以降、何も見せてない。こういう構成ですくらいしか言ってない。あとは、ちょっとバランスが悪い。後半をだいぶ削った。いらないなぁーと思って削ってたら、なんとなく尻つぼみになっていった。そこが悲しい。
 けれど、最終的には言いたいこと言ったので良いのかなぁー。でも、ちょっと考察が浅いような気がしないでもない。
 そんな感じで、かなり不安。まぁ、卒論は爽快!だったけれど、後から見たらヒドイもんだったし、誤字脱字だらけだったしな。今見ると、無知って恐い以外の言葉もない。ということで、少しは進歩したから提出した後も心配なのかもしれない。と自分を納得させてみたり。
 あと残すは、年明けの最終試験としての面接。教授達からの集団リンチ。恐い恐い。
 
 しかし、提出のために学校に行く道程は、結構感慨深かった。今日は雲一つない青空で、あーあたしはこの坂を7年も歩いていたんだなぁと。そういや、教授に怒られショボンとしながら帰ったり、授業の発表がうまく行かなくてやっぱり落ち込んで帰ったり。考えているうちに、知らない間に学校ついたり家についたり。そういうのを一つ一つ思い出していたら、ちょっとジーンと来て、提出の時はドキドキしてしまった。
 


2004年12月16日(木)

 ふぇ。どうしてこう、見直す度に毎度毎度新しい誤字脱字が発見されるのだろう。今度こそ大丈夫だ!と思い、印刷しては、あああ、抜けてるよ!この文変だよ!ってのが見つかる。疲れた。そういや、卒論もそうだった。提出後に、人に見せてたくさん誤字脱字を指摘され怒られた。今回はそんなことないぞと、先に人にチェックしてもらったが、スペルミスとかは自分で見つけなければしょうがない。ワードはわけわかんないところに文句つけるし。
 とまぁ、こんなグチグチ言っていながら、もう印刷たのんでしまったから完成であります。あとは、提出用の表紙をつくるのみ。疲れました。これが限界です。
 そんなわけで、今日はずっと気になっていた体のことで病院へ。検査の結果とりあえず以上なし。半年後に一応もう一度行かなければならないけれど、一安心。ちなみに今日行った病院。ネットで調べて初めて行ったのだけれど、お城みたいだった。世の中にはあんな病院もあるんだなぁー。


2004年12月14日(火) 論文

 とりあえず、完成直前。まだ誤字脱字と展開が不安なので、相方T氏に校正をたのむ。ありがたい。あとは、目次をつくって、表紙などなどをつくって。ああ、注釈も間違っていないかチェックしなければ。まだまだやるこをたくさんだな。
 最後の最後に、そういうことだったのか!とわかり、最終章を書き直し。だが、まだまだやればやる程、こういうことだったのか!ということが出てきそうだし、熟しきれていないところもありそうで、もう自分の書いたものを読みたくない。書くことは書いた。今のあたしでは、これが限度だ。そんな気持ち。ボロクソに言われても、受け止めるしかない。


2004年12月13日(月)

 以前のバイト先でお世話になった方が亡くなられたとのこと。昨年末体調を崩し、実家の方へ変えられて闘病生活を送っていたとのこと。そして今月9日に亡くなれた。まだ43歳という若さ。
 闘病中ということもまったく知らなかった。バイト先の社員さんからのメールで知らされ、名前の文字を見たとき、一瞬誰?と思い、知らない人だと思った後、名前を音にしてみたら、すぐにわかった。けれど、あたしが覚えているその方に死という言葉はまったくそぐわなくて、へーというくらいにしか受け取れなかった。
 その方は途中から私達の部署に来られて、バイトであるあたしの新たなボスになった。とても優しい方だった。学生時代に留年したり、インドに行ったことがあるとかで、私に対する理解がとってもある方だった。バイトを辞めてから遊びに行ったときも、声をかけてくださり、インド話などをした。まだ若すぎる。
 その人を思い出すことが供養になるという。だから、私はその方を今思い出している。けれど、思い出せば出す程、その方の死が嘘のように思えてしまう。だって、あんなに元気だったし、若かった。もしかしたら、死を死として受け取る必要はないのかもしれない。だって私の中では、やっぱりその方は生きているのだもの。悲しむことよりも、私の中で生きてもらえば良いのかもしれない。
 けれど、ヒトコトやっぱり言っておこう。M谷さま、ご冥福お祈りいたします。ありがとうございました。
 


2004年12月09日(木) 論理的

 生まれて初めて、話が非常に論理的でわかりやすいと言われた。ちょっと感動した。あたしも少しは成長していたようだ。努力が実った。

 といっても、これは論文の話ではないのであります。このクソ忙しいときに、就職試験受けました。はい。気になっていた会社が募集をかけていたので、応募してみて、先日筆記試験。なんとかマークシートの問題はこなしたものの、作文で撃沈。論文モードの頭なので、なんとかなるだろうと思ってたのが、甘かった。友人曰く、「作文は何個か用意しておいて、それをテーマに結びつけて書くんだよ。普通は。。。」マジですか?
 そんなわけで、よくわかんない作文なんかに頭を使ってないで、論文論文と思っていたら、面接に呼んでいただけました。ありがたい。
 上での褒め言葉は、面接中にいただいたお言葉でした。その上、作文が高得点だとかで、非常に論理的で趣旨がしっかりしてて、構成もすばらしいだとか。まままま、マジですか?思わず、ポカーンとしてしまった。
 ここんところ、論文の手直しで、自分の文章力のなさに悲しくなっていて、その上論点も不明確なんではないかとすっげぇ不安で、コピペを繰り返し、ぼやけているのか、筋が見えているのかわからなくなってた中でのお言葉だったので、非常にありがたかったです。
 今までの人生で、論理的思考に欠けていると言われたことは数知れず、論理的に物事を考える力があるなんて言われたことは、一度足りとてないですよ。その上、教授と会話をしていると、「つまり君が言いたいことはこういうことだね」といつも聞き返されていたし、日本語がおかしいと怒られ、「が」と「は」の使い方さえ直されたこともあったさ。ありがとう。今日出会ったおじさま達。面接で落ちても、一生忘れないよ。
 
 で、最後に、君のこの文章と論理的な考え方の素晴らしさはどこにいっても通じます。もし今回ダメでも、絶対に大丈夫だから自信を持つように。
え・・・。おじさん。そんだけ褒めてて、そりゃないよ。もっと虐めてくれて良かったよ。

 どうやらあたしが今日アピールする点は、その辺ではなくて、テキヤのバイト経験だとか、男尊女卑のサークルでの頑張りとかだったようだ。そういや、仲の良い教授に言われてた。面接ではサークルをアピールしなよって。。。あぁー。どうせ、あたしなんてそんなもんさ。


2004年12月07日(火)

 なんとなく眠れずに。最近、しっかりと朝起きて過ごしてます。
 先日の実家に届いた配達証明郵便。父の弟から。爺ちゃんの遺産をとにかく分けろってことらしい。はぁー。この人は今までどんな人間関係を築いてきたんだろうと。それを考えてたら眠れなくなった。それに対して、父が電話をするも、出ないよ。。。
ってことで、こっから愚痴になるので、嫌な方は読まないでください。ごめんなさい。公の場でこういうこと書くのもどうかと思うのだけれど、どこかの誰かが読んでくれるかも、誰かに聞いて欲しいかもってことで、書かせてくださいな。


 その男は、爺ちゃんが生きてた頃からタカってばっかりだった。自分が結婚してマンションを買い、嫁がローンのために働いてくれてるから、嫁にお礼を言ってくれと爺ちゃんにわけのわからないことを言ってた。父の姉夫婦が破産して、その保証人になってた彼は、弁護士費用も一円たりとて出さず。それも全部爺ちゃん。破産事件が起きて、始めてコトを知った父と爺ちゃん。うちの土地を担保に借り換えなどなど。なのに、彼は一円も自分の金を犠牲にすることなく。曰く、子供に金がかかる。はぁ?なら、私立の中学校行かせなきゃいいじゃん。バレエとか習わせなければいいじゃん。そのでっかいマンション売ればいいじゃん。お前が、ハンコを押したんだろうが。しかし、その嫁曰く「お義兄さんたちが、お義父さん、お義母さんをみてくれてれば、印を押すこともなかったんですよ!」はぁ?責任転嫁ですか?。その頃、婆ちゃんの呆けがかなりきてて、うちでは母が限界で、父の姉夫婦のところに爺ちゃん婆ちゃんは行っていた。だけれど、爺ちゃんは父の姉夫婦のところにお金はちゃんと払っていたし、その金は全部父の姉夫婦の借金返済に消えていた。つか、その期間に爺ちゃんが入院したので、その費用として爺ちゃんの通帳と印鑑を渡したら、借金返済で使われ数十円しか残ってなかったよ。
 第一、爺ちゃん婆ちゃんが世話になってるから、ハンコを押したとか言っているけれど、ずーっと一緒に爺ちゃん婆ちゃんと住んでたウチの父母に何か一言でも言ったことあったか?世話してくれてありがとうみたいなことを。 
 婆ちゃんが入院したとき、爺ちゃんが一人5万円出せと子供達に言った。爺ちゃんは、金がなくて言ったのではなくて、親孝行をさせてやろうとしたわけだ。そのとき、彼は爺ちゃんに「なんで親父金がそんなにないんだ」と言い出した。オイオイオイ。お前が保証人になったせいで、爺ちゃんがいくら金を使ったと思ってるんだよ。挙句の果てに、その男の嫁はうちの区に電話をかけて、区から補助金が出ることを調べ、なんでそういうものが出るのにお金が足りないんだと言い出す始末。はぁー。
 あたしが小さい頃は、あたしに「○○ちゃんより、爺ちゃんと婆ちゃんはオレの方が大事なんだよ。オレは息子だから」みたいなこと言ってたよ。
 時々やって来ては、時間もそこそこに嵐のように帰っていく。なのに、自分の子供をだしにして、「自転車が欲しい。ビデオカメラが欲しい。」あーだこーだ爺ちゃんにねだってた。子供の誕生日のときだけ、寧ろ、たかれるときだけ、爺ちゃん婆ちゃんを呼んで、モノを買わせてた。呆けてきてから一回も自分から呼んだことなかった。それどころか、爺ちゃんを一泊預かっただけで、行方不明にさせて、翌日オムツさせて午前中に帰してきたじゃねーかよ。
 挙句の果てに、その子供は、寝ている爺ちゃんの顔にのったり。ウンコをもらした爺ちゃんに汚いだとかくさいだとか。お年玉をもらって、「たったこれだけかよ」と渡した父の前で言う始末。どんな育て方してんだよ。
 葬式のときも、口は出すけれど、費用の話になると消えてた。爺ちゃんが3日も家にいたのに、一回も来なかった。
 うちの父と母がケンカするのは、だいたいあんたが来た後で、正月はあたしにとってすごく憂鬱なときだった。一度たりとて、サザエさんみたいなお正月はなかった。

 そんな彼は、爺ちゃんが死んでから一度もお墓に来た形跡もない。数ヶ月前から彼が動いているのはわかってた。まだ手続きしてなかった爺ちゃんの証券会社かなんかの口座?が差し押さえられていた。父はほおっておいた。そしたら、遺産を分けろみたいな郵便がきた。兄弟からいきなりそんなものが届いた父の気持ちはどんなだろう。父は彼が何を考えているかはお見通しで、それを全部みてやろうってかんじらしい。本性を出してくるのを見てるらしい。電話をしても出ない彼は何を考えているんだろう。お金がそんなに欲しいなら、言えばいいのに。爺ちゃんが死んだ後、連絡なしに、いきなりそんなものを送り付けて来るその神経はどうなっているんだろう。
 どうして、いつもウチは彼にかき回されなければいけないんだろう。あたしの実家はなくなるのだろうか。モノはいつかなくなる。だから、それはしょうがない。爺ちゃんの思い。婆ちゃんの思い。彼が踏みにじり続けたそれを、私は忘れない。


2004年12月05日(日)


「自分の惨めな感情発露を、闇に生きる人々の生活を照らす新たな太陽であるかのごとく扱う教育者や改革者に、私は微塵の愛着も感じない。自尊心と自制心を完全に失って泥沼の豚のように真理の中をのた打ち回るようになるまで、自分の生徒たちの欲望を刺激しようと試みるいわゆる教師を、私は軽蔑している。「神」「真理」「正義」その他の抽象的物の名で人々を奴隷化する御大層な計画のすべてに対して、私は侮蔑の念しか持っていない。」

 あたしがここ何年か毎日憎み、愛している人の言葉です。論文は佳境に入ってます。時折、自分の目的を忘れそうになっては、この言葉を思い出して、涙が出そうになります。この言葉をどこかに入れたいと思いつつも、入れられず、入れられないってことはつまり、あたしは書きたいことを書いてないってジレンマにいました。そして、やっと入れることができた。この喜びは一入です。
 教授からのメール。時間が惜しいというのは好ましい状態です。授業を休講にします云々。そして最後に、
「重ねて、期待していますので、頑張って下さい。」
こんな言葉を掛けてもらえるとは思ってなかった。すごい辛い状況のはずなのに、なんだかでっかい愛に包まれている気分だ。


2004年12月03日(金)

 お久しぶりでございます。まだ地獄から脱してません。あああ。結局提出日まで、こんな状況が続くんだろうか。。。削っては書き、削っては書き。パソコンとにらめっこ。
 しかし、人間ってのは太陽に当たったりしないと、本当に精神的にダメになっちまうみたいで、すごい欝になったりして。授業がリハビリなんて状態になっていたり。外に出ると、ああ、あたしは何悩んでるのだ?と。けれど、最近じゃ、外に出たところで、あーでもないこーでもないって状態で脳みそはフル回転してんだか、まったくの思考停止なのかもわからない。
 昔の論文とかを読み直したりして、潔いなぁと思ってみたり。けれど、そこまで今のあたしは断言できないよと。で、その頃みたく、ズバっと言い切ってしまえと思うと、いやぁ、やっぱりそれは無理だわさと。
 まぁ、あーだこーだやってます。台所の流しが汚いのと、今月のガス代が気になるくらいです。煮詰まると、シャワーや風呂ってことをするので、一日に4回くらい風呂場に行ってます。うげえ。
 
 そんなこんなしているうちに、現実問題。実家からの電話で、なんと親戚から配達証明郵便がやってきた!とか。おお、恐ろしい。まだ空けてないらしいが、だいたい内容は想像がつく。もちろん、悪い方。バカを相手にすると、バカになるって先輩に言われたが、バカは相手にしないと、攻撃をしかけてくるからしょうがない。そうそう、いつでも寛容になってはおられんですよ。はい。
 ということで、久しぶりの日記なのに、相変わらずワケのわからん話ですみません。とりあえず、あと数週間ガンバリます。

 あ、日記を全然書いてないのに、いつもよりHPのカウンターの回転早いんですよ。よくわからんですが、ありがとうございます。


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