度々旅
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2003年03月31日(月)

 1週間くらい前から、首がいたいなぁと思っていたのが、先週末から首から肩にかけてとんでもない痛みが。。。特に、朝起きると首がまったく回らない。少しずつ動かしたり、温めたりしているとラクになり、夜になるとだいぶ痛みがとれていたのだけれど、寝ると戻ってしまう。
 なぜか、右側だけ治ったのだけれど、左側の痛さは増す一方で、今日はとうとう温めてもちっともラクにならないし、寝返りをうとうとすると、激痛が走るので、ほとんど寝れなくなった。
 しょうがないので、医者に行った。とんだ出費。なんだか、今年は体とうまく付き合えていないなぁ。
 医者で、首を固定するスポンジのコルセット?をつけられた。まさか、これを付けられるとは。。。
 天気がよいのに、布団を干すどころか、たたむことも出来ず、本当は夜桜にでも行こうとおもっていたのに諦め、桜散るなーと叫び、読み終えようとおもっていたテキストも、読み終えられず、もう、踏んだりけったりだ。そんな自分にイラつきながら、ここ1週間程、あまり寝れていなかったので、昼寝。このコルセットのようなものをつけて寝たら、体が寝返りを打とうとしないので、ひさしぶりに数時間連続睡眠をとれた。ううう。早く治っておくれよ。
 
 


2003年03月28日(金)

 以前のバイト先そばまで友人と行ったので、ついでに寄ってみた。以前と変わらぬおじさまたちは、温かく迎えてくださり大感謝。しかし、マスコミなのに、こんなに自由に出入りできて良いのか?バイトしていた時も、通行証を一度たりとて使わなかった。あの頃と同じように、騒がしい社内をうろちょろして遊んでいたのだが、あの頃はこれでお金をもらえていたのだなぁと思ったら、なんだか申し訳ない気分になってきた。
 それにしても、ここで得た知識や出会いは、私の宝物だ。こんな根無し草で先行き不透明の私にとっては、ここでの人脈はとても貴重なものだ。私がやりたいと思っていることを本気で実現しようと思ったら、そのための人を紹介することはできるという言葉をいただいた。ありがたい。チャンスを得る手段があると思っただけで、私がどんなに勇気付けられたか。あとは、自分次第だ。


2003年03月27日(木) ゴミ置き場

 この季節のゴミ置き場は宝物がたくさんだ。去年は本棚を拾ったけれど、もうそれはいっぱいで、今年も拾いたいのだけれど、拾ったとしても置く場所がない。見つけてしまったらどうしようと思いながらも、キョロキョロ探して歩いている。
 今年も、すでに二つほど収穫が。机を買ってから、イスも買おうと思いつつハンズで昔買ったパイプイスで頑張りつづけた。そうしたら、回転するイスが落ちているでないの。これはいい。背もたれのところが、少しだけ壊れているけれど、そんなのは全然気にならない。
 そして、その数日後夜ふらふら買い物に行こうとしたら、衣装ケース3個に、ラジカセに、ゴミ箱に、靴だなが落ちていた。衣装ケース一つとラジカセを持ち帰るも、ラジカセはコードがないので、再び捨てに行く。衣装ケースを3つもらうか迷ったものの、とりあえず買い物へ行った。そして、帰ってくるとすでにそれらはなく、そこにゴミを出した人が回収のために書いたであろう、アパート名などが書いてあるメモが貼られたゴミ箱だけが残っていた。こうなると、引っ越すときや大きいものを捨てるときは、役所に連絡する前に、一度ゴミ捨て場へ置いた方がよいな。そして、誰も持っていってくれなかったら、役所にたのもう。
 さて、一番の目的本棚なのだけれど、本棚を拾ってしまったら物置き場になっているソファーを捨てるか売るかしようと思うのだけれど、果たしてリサイクルショップが引き取ってくるのかわからない。ダメだったらゴミ捨て場に置こう。けれど、誰かが持っていってくれないとなると、面倒なわけで。どうしようかしらと、拾う前から悩み中。


2003年03月26日(水)

 完全に春だわね。暖かい。気持ちが良い。窓を開けていてもちっとも寒くない。あ、でも指先だけは冷たい。干して取り込んだ布団や洗濯物から、太陽のにおいがする。気のせいかもしれないけれど、その匂いは狭い部屋中に広がって、とても幸せな気持ちになった。
 やっぱり、時間の使い方がへたくそだと実感。そういや、今週は何も用事がないはずだった。というか、授業以外に毎週用事はないはずなのに、なんだか出歩くはめになる。いいんだか。悪いんだか。そして、家にいる時間は、気づけば春の心地よさにぼーっとしている。ダメだにゃぁ。
 旅に一緒に行っている相棒は、今タイにいる。就職前の最後のあがきといったところ。チャットで話を聞くと、たった1週間の予定なのに、ミャンマー、ラオスにも行ったのかい。あたしといる時は、あまり行動的でないのに、一人だと行動派なのね。旅に行くことを決断してから、3日後にチケットをとり、その3日後に旅立ったし。むぅ。
 それにしても、旅先でも仕事のメールをチェックしなければならないとは、面倒くさそうだ。毎日ネットカフェに来ているようだ。携帯電話も国際電話をかけられるようになったし、僻地に行かないかぎり、現実世界から逃れられないようになってきているようだ。日常を引きずったまま出る旅なんて嫌だなぁ。旅先からの手紙や葉書ってのも、減っているのかもしれないな。
 


2003年03月25日(火) おめでとう

 卒業式ということで、友人が後輩に会うために学校にやってきた。学校に近い私は呼び出され、雨の中、学校へ。その後、二人で呑んだのだが、相変わらずそいつは、めちゃくちゃな人生で、ゲンキづけられた。
 帰り道、気持ちが良かったので隣の駅から歩いて帰ってきた。夜で、雨ということもあり、あまり歩いたことのない道は、ちょっと怖い。昔ならば、朝まで飲んだり、誰かの家に行って騒いだりした。けれど、歳のせいかもうそんな元気はない。
 最近、懐かしい人と会うたびに、もう朝までは駄目だねという会話をしている。飲んで、クラブやライブに行って、カラオケ行って、朝ごはんを食べて、電車で帰ってくるなんてことをやれていたなんて、体力あったなぁ。今では無理だ。徹夜で遊ぶってことがもう駄目だ。そういや、大晦日はイベントなどに行って一晩中遊ぶのが習慣だったけれど、朝に初詣に行く時には、疲れ果てていて、寒いなかあたしは何しているんだろう。紅白でも見て、近くの神社行って、寝てれば良かったと毎年後悔していた。けれど、後悔することがわかっていても、毎年遊んでいた。それが、もう後悔するのだからやめようという気持ちの方が強くなり、大晦日に遊ぶのはやめた。
 歳をとるって、後悔することを先読みして、勢いをとめることができるようになるってことなのかもしれん。きっと今ごろは後輩たちは、朝まで飲む勢いで楽しんでいるだろう。そういう時を十分に楽しんで彼らはこれから社会へ出たり、大学に残ったりだ。朝まで頑張って飲んでおくれ。おめでとう。


2003年03月24日(月)

 とても暖かく気持ちの良かった一日だ。夕方すぎて窓をあけていても、それほど寒さを感じなかった。昼間友人にたのまれた住民票をとりに役所へ。自転車も借りたので、いつもは行かない辺りをついでにふらふら。春だのぉ〜と思いながら、川沿いのベンチでぼーっと。
 一度帰ってきてから、せっかく自転車があるのだからと、また近所をふらふら。ビデオ屋の前をとおると、入会金無料!いつも、無料の日を忘れて入会をしていなかった。やっとこれで友人に迷惑をかけずにビデオを借りれるわ。割引券をもらったので、調子にのってCDまで借りてしまった。
 もう梅の花は散り始めている。だんだん桜の開花が近づいてきて、今年は花見をしてやるぞと意気込み中。


2003年03月23日(日) 感情の垂れ流し

 過去を思い出させられたここ最近。2週間程まえに、高校の友人からきた電話。浪人時代の友人の写真展。大学時代の友人がとまりにきた。旅先でで会った夫妻からの手紙。そして浪人の時の友人との食事。
 どの人も、今の私をつくってくれた人たち。私の中に、確実に編みこまれている人たち。私という人間を編んでくれた人たち。
 きっと、私は意識的にではないにせよ、それぞれの人たちに違う顔を見せていたことだろう。彼ら彼女らが知っている私は、同一人物だけれど少しずつ違うに違いない。それぞれの人と共有した時間を思い出しながら、少し今の自分との距離を感じる。その距離が、良いものか悪いものか私にはわからない。もしかしたら、とんでもなくひどい方向に行っているような気もする。まるで、過去の自分を他人を見るような目で見ている私。決して過去の自分を否定するわけではないけれど、そして、過去の自分と私が何が違うのかと言われれば困るけれど、何かとても距離を感じているのは事実だ。
 私は感受性が強いと言われていた。そんな私は、気づいたら自分の感情を出来るだけ殺すようになっていたように思う。感情的になるのは、感情をストレートに出すのは、裸になるようで恥ずかしいと思うようになっていた。嬉しい、ありがとう、という気持ちを表すのは別としての話だが。悲しいとか、悔しいとか、怒りといったものは、出来る限り押し殺していた。そのうちに、私は自分自身のそういう感情と距離をとるようになっていた。そして、そういう感情がどういうものかよくわからなくなっている。
 しかし、そうはいっても、はやり人間なのだから、悲しいなどの感情はどこかで感じているわけで、時々思いがけないところで、涙が出そうになってしまったりする。まるで、普段無視されていた感情が氾濫を起こすようなかんじだ。悲しいのだか、悔しいのだか、なんなのかわからないものが洪水のように湧き上がり、私はその感情をコントロールすることができず、ただただ恥ずかしいと思いながら涙と一緒に垂れ流す。
 「感情の垂れ流し」という言葉を私にくれた人は、もう自分では何なのかわからない感情を、いつでもそのまま飲み込んでくれて、消化してくれて、次の栄養を私に与えてくれた人だ。過去の出会いをたどりながら、以前にもまして、自分の感情を出さなくなっている自分に、本当はそんなものを完全にどこかへ置いてきてしまったのではないかと不安になってみたり、その置いてきた感情がいつかどこかでとんでもない氾濫になるのではないかと怖くなってみたり。けれど、もしかしたら、自分でも気づかない方法で、うまく垂れ流してコントロールできるようになっているのではないかと、少し期待してみたりするのだった。


2003年03月22日(土) 隠れ家

 久しぶりに、生演奏を聞いた。実家の最寄の駅には、ジャズ喫茶がある。この店がジャズ喫茶であると気付いたのも、その店に初めて入ったのも受験生の時だった。初めての時、とてもドキドキしたのを覚えている。そのときから、そこは私の隠れ家のようになった。地元というのは、どこにいても誰かに見つけられてしまうという心地悪さがあるのだが、この店では今のところ知っている人とは出くわさないのだ。そこは、地元にある私だけが知っている異世界というかんじだった。
 一人暮らしを始めてからは、実家に帰った時に時々覗きに行くくらいになった。で、今日実家に帰ってきたので、夜にフラフラと自転車で徘徊がてら、覗いてみると、なんとまぁライブやっているでないの。以前は毎週末ライブをやっていたのだが、一時期あまりやらなくなった。けれど、どうやらまた復活したらしい。演奏中、店先から子供たちの声がした。振り返ってみると、店先で10人くらいの子供が雨宿りをしながら、店のガラスのドアにへばりついて、中を覗いていた。マスターは、ドアを開けっぱなしにして、子供たちに演奏を聞かせてあげることにしたのだが、子供たちは、すぐに自分たちでドアを閉めてしまった。きっと、ドアごしに覗いた店内は、独特の雰囲気で、あの子たちにとっては大人の世界のように見えて興味深々だったのだろう。けれど、いざそのドアが開いてしまったら、尻込みしてしまったに違いない。
 そう。私も、この店がジャズ喫茶であると気付いてから、店の中に入るまで数日かかった。たぶん、あの時の緊張のような未知の世界に入るような感覚が今も残っているから、あの店は私にとって、特別な隠れ家のような場所としてあり続けているのだろう。といっても、最近は親にばれてしまった隠れ家なのだけれど。

 さて、これからの1週間はちょっと特別な週なのだ。ちょっと気合を入れて過ごさねば。


2003年03月21日(金)

 家でテレビをつけっぱなしだ。もっぱらNHKなのだけれど。常々民放の報道に御不満を感じているのだけれど。なんで、無駄に音楽をバックに流すかなぁ。ニュースの時間いっぱい、緊張感をたかめるというか、煽るというか。で、それはある種のマインドコントロールみたいな効果も与えているようで、見ている側に考える時間をあまり与えてくれない。それでいて、ニュースの時間が終わるとあっさりと、お笑い番組などを流す。いや、お笑い番組が悪いのではなくて、報道という枠でやっている番組をショーにしすぎだよなと不満なのだ。これに対して、NHKは淡々とやっていて、良いなと。地震などが起きたときも、NHKは淡々と。他では、もうこの世は終わり!みたいな。NHKは見ていて、考える時間を与えてくれて良い。 
 朝のニュースの時間帯も、NHKと他局の違いは大きくて、なんだか民放を見ていると、すごく急がされているようで、NHKだと、ああ、朝だなぁ。気持ちが良いなぁなんてゆったりとした気持ちになる。
 ついでにいえば、20日はテレ東以外の民放は、基本的にずっとイラク攻撃を流していたのに、ゴールデンタイムになった途端に通常番組に戻った。いかに、昼間の通常番組が再放送など実のない番組であるかということを示すと共に、イラク攻撃も視聴率のための報道なのだなと感じさせられる。多くの人の関心が多いうちは、がしがしと同じような内容を流し。けれど、ある程度あきられたら、あっさりと通常番組に戻す?みたいな。
 もちろん、常に新しいことが生じているわけではないから、ずっと流す必要はない。ゴールデンタイムに一斉通常番組へ戻る姿勢は、あとはNHKたのんだ!って声が聞こえるようだった。
 そんなたのまれたNHKも大変だよな。新しいことが起きない時間も、延々とやっていて。武田アナが好きだからいいんだけれどさ。


2003年03月20日(木)

イラク攻撃開始。いろいろ思うところあり。戦争は反対に決まっている。けれど、皆それをふまえて、反対だけれど。。。やっぱり反対。しょうがなく戦争支持と選択をしているに違いない。
 日本がおかれている現状、日本が武力を自由に行使できない状況を考えると、アメリカ様支持はやむをえないと思う。我々の国はイージス艦一つだすのに、大騒ぎする国である。そんな国が今、我々の理解を超えた、我々の倫理的思考では許されないような行為を行う共同体に脅かされている。平和憲法を持っているということは、他国に攻撃されない、他国に脅かされないということとは違う。平和憲法を持っているがゆえに、強気に出られ弱腰外交を迫られるのだ。

 世界同時武器放棄が出来るのならば、武力をまったく使えずに問題を解決できるならば、それに越したことはない。それを誰もが願っている。けれど、それが出来ないのだ。平和原理主義者は、反戦原理主義者は、その思想と共に心中するしか道がないのが現状だ。悲しいことに。
 イラクの一般市民の命が失われることを悲しまない者などいない。イラク国民が、戦争を望んでいるはずがない。けれど、それと同時に、フセインによって統制され、自由のない状況からの開放も望んでいるだろう。もちろん、フセインを本当に心から支持している者もいるし、フセインのために戦おうとしている者もいるには違いない。そういう彼らを、我々は間違っていると言うことは難しい。けれど、そのような者たちが、もし我々を脅かすのならばその時、我々は冷静に、「お前たちの言い分を理解することができる。」といえるだろうか。我々は、どこまでいっても、我々の価値観でしか、善悪を考えることができない。我々が既にコミットしている共同体なり、思想でしか判断はできない。普遍的なものなど何もなく、ただ自分が持っている倫理的考慮を信じていくしかないのである。もちろん、その倫理的考慮は熟慮に熟慮を重ね、現実から離れることなく、理想でもいけない。現実問題に対処する考慮でなければならない。その自分が持つ倫理的考慮によって、なんらかの判断を下さなければならないのである。アメリカは、アメリカの倫理的考慮から何を守り何が正しいかを導き出す。そして、我々日本は自国を守るために、自分たちの倫理的考慮を通用させるために、判断をくだした。
 人間の盾としてイラクに残っている人は、反戦原理主義者として、自分の信念をつらぬいている。私はその姿に敬意を示したい。それと同時に、フセインに利用されることさえ予測できずにイラクを訪れ、途中で帰ってきてしまったものに対しては、失笑するしかない。
 反戦運動によって、戦争が回避されていたとしたら、どうなっていたのだろうと考える。戦争回避は、最初から存在する問題の解決にはなっていない。戦争回避を唱える者たちは、それと同時にフセイン打倒の方策も提出しなければならない。解決の方法を示さずに安易に反戦活動をすることに対し、私は恐れを感じる。
 もし、私たちがアメリカ様の呪縛から解かれることを望むならば、武力を自由に使えるような国になるか、平和憲法と一緒に心中の覚悟するか、はたまた、日本という国に巨大なスクリューをつけて太平洋の真ん中に移動するしかないのである。

 明日の食べ物を心配することなく、このようなことを考える余裕のある生活を遅れている自分の幸せを感じている。


2003年03月19日(水) 手紙

 最近手紙を書くことがほとんどなくなった。それに伴って、手紙がくることも殆どなくなった。数日前、ひさしぶりに出した手紙は、九州の自給自足御夫妻宛てだ。送ってから、1週間毎日ポストを覗くのが楽しみだった。ああ、返事はまだかなまだかなと。そして、やっとお返事が今日届いた。
 部屋に入って、すぐには封筒を開けず、持っていた荷物を片付け、コーヒーを入れ、ゆっくりと落ち着いてから封筒を開いた。なんだか、時間と距離をかけてやってきた手紙をすぐに開いてしまうのは、もったいないというかんじだったのだ。メールというのは、お、来てる、と思ったらすぐ開いてさらりと読んでしまう。手書きではないから、本当にさらりと読んでしまう。
 手紙というものが昔から好きだった。字の癖や、行間。そういうものが、いろいろなことを表してくる。電話よりも、ずっと相手を知ることができるなぁと思っている。
 御夫妻から届いたお手紙、特にダンナさんからの手紙は、ダンナさんそのものだった。シールが貼ってあったであろうツルツルの紙の裏側に書かれた文章。その時点で、さすが。。。と思ったのだけれど、文字の踊り具合や、文体から、ダンナさんの姿が思い出され、今を知れて。
 やっぱり、手紙って良いなぁと思った。


2003年03月18日(火)

 かれこれ1時間以上、外で車のエンジンが空回りする音が響いている。雨の中大変だ。けれど、エンジンがかかるまで、永遠に頑張るつもりなのでしょうか。そろそろ諦めて、救助を求めては?

 特にここ一年、戦争や国というものを考えてきたけれど、考えれば考えるほどわからなくなるわけで。人間の盾の人が死んだと聞けば、やっぱり戦争をとめる策ではなかったんだななんて思ったり、デモしている人たちをみて、この人たちは、どうして反テロってプラカードも一緒に持たないのかなと思ってみたり、ブッシュの演説は言い訳にしか聞こえなかったり、けれど、アメリカ一番、アメリカサイコー、アメリカ大好ってブッシュが言っているんだなと思って聞けば、それはそれで、国が沈没しそうなのに国内で争ってばっかりの日本より、もしかしたらいいんでないの?なんて思ったり。そうかと思えば、日和見主義な日本は、それが自国が生き残る術なのだと、前回の戦争で学んだ結果なのかもしれないから、これでいいのかも?と思ったり。もうどうしようもない。そうそう。どうしようもない。どれもこれも、考え方に基準があって、その基準によっては、全然下すべき判断が変わってくるわけで。なんだか、考えることに疲れてしまったかんじ。そうしたら、戦争ってわけで。
 昔誰かに言われたことは、全部守ることは無理で、やっぱりプライオリティーをはっきりさせないと何も守ることはできないってこと。私は、自分と自分を大切にしてくれる人が何よりも大切だ。けれど、それを守るために、争うということをしなければならないとき、大切なものを諦めて争いを回避するのか、争って大切な人を守るのかわからない。そんな小さなことがわからないのだから、国益のぶつかり合いなんてわかるはずないわけで。原因が明らかになったとしても、対処の方法は明確ではなく。当分は、何も考えずに理想と現実の差は大きいなぁと実感させられる日が続きそうだ。


2003年03月16日(日)

 予想外の出来事がおきて、少し心が不安定になっている。高校卒業間際のドロドロの余波がやってきたというかんじだ。そのドロドロは、私にとってはもうどうでも良いことで、まるでなかったかのようにすごしていた。ああ、もうそういう女同士の面倒くさいことや、友情という言葉を振りかざして、いろいろ介入されるのはごめんだと思っていた。
 けれど、その時私と問題を起こした当事者とその周囲は、どうやらあたしのことをずっと気にしていたようで。あたしさえ良ければ、また仲良くしたいと思っているらしい。ま、そんな過去を穿り返すというか、あのままの延長の感覚がこもっているメールがやってきた。
 メールの当事者は、私を知らないところでかばってくれていた人なのだけれど、ま、彼女の結婚式に私やその彼女たちを呼ぼうとしており、あたしが適当な理由をつけて行かないと返事することを彼女は予測しており。そんなあたしが、昔のことを気にしているか、していないか知らないけれど、あたしと問題起こした人たちは、あたしと仲良くしたがっている。気にしているよと、教えてくれた。
 かつては私も、問題を起こした人たちと、何かのきっかけがあればまた話したい、また一緒に笑いたいと思っていたとは思う。けれど、今もそういう気持ちがあるかは疑問だ。そして、彼女たちがあたしと会いたいならば、本人が連絡してくればよい。それを、他の友人から私を彼女たちが気遣っているよというのを聞かされると、こちらとしては、まるであたしが一人で悲しみにくれたり、怒ったりして、皆から遠ざかったようで、皆を遠ざけているようだ。あたしを腫れ物に触るように扱っているようだ。あたしは、もうあんな面倒なことは、たくさんだと思ったし、私には私が何も言わなくても私を守ってくれた友人がいたし、その友人たちは、自分が私のために何をしたかということを私に対して恩着せがましくまったく言ってこなかった。あたしは、守ってくれたということを、数年後にたまたま聞いたという形だった。けれど、私と絶縁状態にある人たちは、私と問題を起こした当事者の間に入って「友達なんだから」とかいうわけのわからない言葉で、何も理由を言わない私を攻め立てた。私としては、ああ、友達だ友情だとかいう言葉を使えば、なんでも済まされると思っているヤツって恐ろしいなとだけ思った。
 結婚式に招いてくれている友人は、私をとても大切に思ってくれている。そして、私も彼女と同じように彼女を大切に思うことができる。けれど、そこには何か決断がいるような気がする。その式での再会をきっかけに、私と絶縁状態の彼女たちが、何かの形で接することを望んでくれているようだけれど、私は、再びあの人たちと接することによって、自分が壊れてしまうのではないかという不安がある。再会したときに、自分が何を思うのか、どういう反応をしてしまうのか予測ができない。予測が出来ないということは、望んでいないんだろうな。それに、あたしさえ良ければ仲良くしたいの、仲良くってなんだ?という疑問が残る。それって、自己満足に付き合わされるだけのような気もする。
 そんなこんなで、非常に情緒不安定に。あの頃、唯一あたしが逃げ場になった、私がすべてを話した相手にまた逃げ込んだ。その人はあの頃と変わらず私の絶対的な逃げ場になってくれた。それによって、また少し安定してきたのだけれど。
 そして思ったことが、再会問題と式への出席は別問題で、あたしが祝いたいという気持ちがもっとふくらんだら、式に行けば良いという、なんとも簡単なことだ。そう、こういう簡単なことさえもう判断できないくらい、私は不安定で、どうしようもなくなっていたことを実感し、それを数行の言葉で安定させるお兄ちゃん。あなたがいてくれて、あたしは幸せだと思うのでした。


2003年03月15日(土) ひさしぶり

 予備校時代に一緒だった友人から数日前に届いたはがき。「ヒマでヒマで死にそうなら、死んでしまう前にほんの少し時間を下さい」という、文章。裏を見ると、写真展のお知らせ。3年くらい連絡を彼とはとっていなかったような。こういうのって、良いなと思った。彼から葉書が届いたのは、これで2回目だ。前は「NYの飯はまずい」の一文がつづられた葉書が、アメリカから突然届いた。アメリカに旅行で行ったのか、留学なのかもわからなかったけれど、イキなことするなと思った。
 彼が、写真をいつ始めたのか、本職でやろうとしているのか何も知らないけれど、あたしに見てほしいと思ってくれたことが嬉しくて行ってみた。もちろん、その写真展には彼はいなくて、私も見た後に彼に感想をわざわざ伝える気もなくて、ただ記帳の時にだけ、「今の私」を伝えながら自分の名前を描いてきた。
 なんだか、不思議だなと思った。そして、友情だとかいろいろ語るような関係よりも、私には非常に心地よくて、互いの今を本人不在で交差させているかんじが良かった。現実世界で場と時を共有しなくても、はっきりとはわからないものを互いに交換しているようで、あたしと彼それぞれが持っている箱の中には、同じカブトムシがいると感じれた。
 その帰り、初めての白金から逃げるように歩き出した。そして、東京タワーを見つけて、初めてついでに下まで行ってみた。それから、大門まで歩き、そこから電車で新宿へ。食事の後に、末広亭の前をとおり、久しぶりに深夜寄席に行きたくなった。深夜寄席は、昼席や夜席などと違い、名が知られていない芸人が多く出ている。時々当たりがある。客が普段よりも少ない。そして、客席と高座には妙な緊張感が流れている。こちらは、寝ないように頑張ろう、笑おうという気迫が漂っていて、高座からは、寝るなよ、勉強させろよという無言の圧力みたいなものが感じられる。その妙な雰囲気が好きで行っていたようなものなのだけれど、久しぶりに行った深夜寄席は、結構人が多くて驚いた。ちょっと、かつてのような雰囲気とは変わり、気を使わずに笑えるようになっていた。


2003年03月11日(火) メールの返信

お友達からのメールってのは、読んですぐ返事を書かないと億劫になるものだ。なんだか、返事が遅れた言い訳などを考えてしまう。よく見ると、あたしが返事を遅らせるメールってのは質問系のメールが多いことに気づいた。そうか。質問に答えたくないから、あたしはすぐに返事を書いていないのか。けれど、答えたくないって返事をするわけにもいかないわけで。うぬぅ。一番困るのが、前から書いているけれど、いつ暇?って質問で。毎日暇といえば暇で、毎日忙しいといえば忙しいわけで。このメールに答えるのが一番面倒くさい。
 そこで、気づいたのが、うちの教授のメールだ。用事があるとき、「○○の用件でお話があります。伺いますのでご都合が良いときを教えてください。」などとメールを送る。けれど、返事がいっこうにかえってこない。あれ、メール見ているのかな?と不安になったり、何か機嫌を損ねるようなこと書いたかなと思ったりしてこちらはドキドキだ。そして、数週間後に「明日学校に行きます。」などと返事が返ってくるのだ。そうか。この手があったのか。普通ならば、忙しいならば忙しいなどとすぐに返事を送ったり、当分学校には行かないし、時間はさけない、時間が出来たら連絡するなどと返信をしてくれそうなものだが、あたしは、都合が良いときを教えてくれと言っているので、教授は、時間をあたしのためにさけると明らかになった時点で、私に返信をしているのだ。よく考えたら、教授も私も、研究というか勉強というか、それを毎日やらなければならないわけで、暇な時間などないわけで、けれど乗らない日ってのがあるわけで、それがいつくるかわからないわけで。そして、用事があるならば、それは一度に片付けたいわけで。となると、最終的にあたしも教授の方法で、メールの返信をすることとしようと思ってしまった。
 けれど、この方法って相手も同じような環境でないと、失礼になったりするんだろうな。
 


2003年03月10日(月) アボカド

 少しづつ、生活時間が後ろにずれ始めているような。いけないいけない。
 最近、アボカドにはまってしまった。あたしにとってアボカドは、数週間前までオシャレ食材だった。というのも、以前タコスのためにディップをつくろうと買ってきたは良いけれど、どうして良いかわからず、身は硬くてどうにもならないし、種があんなだし。実をスプーンでほじくってみたものの、この硬い物体から、どうやってディップが出来るんだ?と思い、すってみたり、少しゆでてみたりして、なんか食べ物ではなくなってしまった。
 それ以来、アボカドってやつは、オシャレ食材で、あたしなんかが調理できるものではないのだと思っていた。
 この間、それを先輩に話したら、それは熟してなかっただけだよと言われた。なぬぅ。ということで、もう一度買ってきたら、あれまぁ、やわらかいでないの。刺身で食べたら、どこかで聞いたとおり魚の刺身だった。
 ということで、スーパーに行く度にアボカドを買っては試行錯誤で、調理実験。こんなお手軽なものだったのね。ところで、このでっかい種って何かに使えるのでしょうか。なんだか、あまりにもでっかい種で、捨てるのに忍びなく、ベランダの植木鉢にほおり投げているのでありました。


2003年03月09日(日) 昔の住処

 せっかくの晴れでも、風がびゅーびゅーふいていてとっても寒い。家の中にいても、風の音が聞こえ、外を歩けば空き缶がカラカラカラと転がり、帽子が飛びそうになる。とっても寒い。この空き缶が転がる音って、もうそれだけで寒さ倍増というかんじだ。
 夕方、学校の図書館へ本を返却しに行った。もう卒業してしまった友人を連れて行ってついでに新しく出来た建物などを見てきた。二人で、もうなんだかものすごく寂しい気分になった。私たちが生活の場としていたサークル塔の横に、新しいサークル棟が出来ていた。その周りが、まるで公園のように整備されきれいだ。とってもきれいだ。きれいすぎて、涙が出そうになった。昔の風景を思い出し、もうあの頃は絶対に戻ってこないんだな、みんなで追いかけっこをして、学祭の前夜祭には泥酔して歩き回り、夜中に仲間が全裸で行進して、警備員に追いかけられたあの場所はもうないのだ。そして、昔のサークル塔には学生によって描かれた絵があり、それがある種サークル塔のカオス的状況の象徴のようなものだったのだけれど、それがいずれ消されてしまうかもしれないと思ったら、いても立ってもいられなくなっていた。友人がつぶやいた一言「闘った方がいいよ。」現に、一部学生が、新しいサークル棟建設に対して学校側と闘っていた。他大学で出来た新しいサークル用建物を視察しに行き、カードキーがなければ入れず、夜8時には追い出されてしまうということを聞いて、私たちの大学に出来た新しい建物がそうならないように、そのような建物ならば、当局側に管理されるような建物ならば建てるべきではないと闘っていた。私も、もっと彼らに協力すればよかったなと今更思ってしまった。
 学部生時代に私が住処としていたサークル塔は、なんでもありで、中庭で一晩中祭りをしたり、他大学生が自由に出入りしたり、何かやりたいと思ったら他サークルを巻き込んで遊べる状況だった。学校嫌いの私が、休みでも学校に行っていたのはあのサークル塔があったからだ。自由だったのだ。そして、その中でもなんらかのルールはあった。サークル塔の住人はバカなりに最低限の節度を保っていた。だから、昼間っから酒を飲もうが何しようが良い状況だった。けれど、ここ数年学祭の前夜祭も花見も全面禁酒になってしまった。当局とケンカしながらも、サークル塔の住人たちはある意味当局と仲が良かったから、許されていたし、それを許してくれる当局側に迷惑が掛からないようにやっていたというところが多々あった。けれど、その迷惑が掛からないようにという部分が欠如しているサークル塔に入っていない一部サークルが、ルールを無視してしまったために、学校側も絶対的なルールを掲げそれを守れと私たちにせまってくる状況になってしまった。とても悲しい。そして、新しくできたサークル棟には、今までサークル塔に入れなかった人たちがやってくるという。どうなるのだろうか。一体になって、今までどうり仲良く遊べるのだろうか。それとも新しいところに対する管理の厳しさのしわ寄せが、私たちのサークル塔にもやってくるのだろうか。
 新しい建物を素直に喜ぶべきなのだろうけれど、どうにも悲しさとやるせなさでいっぱいだ。


2003年03月04日(火) 祖父を預ける

 1月初めに倒れ、入院していた祖父が病院から退院した。病院からは2月の初めの時点で退院を即され、ねばるだけねばっての退院だ。入院前の祖父は自力で立って歩くことができたが、車椅子を使わなければならなくなってしまった。介護度も上がり、これ以上家での介護は母が壊れてしまうということで、入院期間に祖父を施設へ預けることを話し合った。祖母を預かってもらっていた老人保健施設が非常に親切だったので、そこに預けたく思い相談をしてみると、3月半ばにはなんとか部屋を空けてくれるとのことだった。しかし、病院はそれまで待ってくれないので、今週の土曜日に退院をさせ、自宅で2週間程面倒をみて、それから施設へたのむことにしていた。
 決めた施設がいろいろ調整をしてくれている間に、念のために他の施設へも見学へ行っていたのだが、その中の一つから急に連絡が入り、ベッドが空いたのですぐに受け入れると言われ、病院の方は早く追い出したいわけだから、その施設へ入ることにさせられてしまった。施設側は祖父の介護度が上がったということで、急遽受け入れることにしたのだろう。
 祖父を連れていくと、祖母がいたところに比べると、やや不安が残りはするがしょうがない。
 以前祖母を預けていた施設へは、毎日家族の者が通うようにしていた。今回も、それができるように出来る限り近場で選んだ。施設に預けるというと、一緒に住んでいる家族がいてなぜ預けるのか?などと平気で言われることがある。別に施設に預けたからといって、その家族を見捨てたわけではない。家だろうが、施設だろうが、愛情を持ってその家族に接することができる選択をするのが大切だと思う。
 この家族がどれだけ愛情を持っているかによって、施設側の対応も変わってくる場合がある。祖母を預けていた施設が、祖父のためになんとか調整して早く部屋を空けるようにしてくれたのも、祖母を施設へ預けっぱなしにせず、施設側と密に連絡をとっていたためだ。その施設では、祖母がなくなった後も、祖父の痴呆についていつでも相談にのってくれていた。施設に預けるというのは、介護を放棄するということではなく、介護協力者を得るということなのだ。介護は、一人でも、一つの家族だけでもできない。理解のあるたくさんの協力者が必要だと思う。
 
 


2003年03月03日(月) 箱根

 一泊で、箱根へ温泉旅行。日曜日はとっても晴れていて、電車から富士山もきれいに見えた。けれど、時間が中途半端だったし、何度か来ているので、特別に観光をすることなく、登山鉄道で一つ先の駅まで行ってそこから、宿へと歩いた。
 いくつか候補にしていた宿を通り過ぎ、「こっちの宿でもよかったな」などと言いながら、自分たちの宿を探す。そこで、発見した自分たちの宿。うそ、ここですかぁ???日曜日ということもあって、他の宿は軒先にも活気があふれているし、窓からは明かりがこぼれている。なのに、われわれの宿はロビーに明かりもついていないし、客も従業員の気配もない。あああ。失敗かぁ 別に、温泉メインでなくて、ただの仮宿として泊まるならば、屋根と壁と布団があるってだけで、もう満足なのだけれど、今回は宿で温泉三昧だらだら旅行のつもりだったので、言ってみればこの宿ってのがメインなわけで。無人の受付で、「すみませ〜ん」と言いながら、寂しい気持ちになってきた。部屋に入ると、あらゆる備品は傷ついて、壁はきっと宿の人が貼ったであろう壁紙のしわが目立ち、畳は沈むし。。。うぅぅぅぅ。
 けれど、なんとか気をとりなおし、露天風呂へ。すると、今度は、お向かいの宿から見える造りではありませんか。おいぃ〜。
 しかし、あたしを悲しい気持ちにさせることはこの後も続々と続く。どうやら、宿には数組は一応泊まっているらしかったのだけれど、その部屋の世話はどうやら一人のおばちゃんがやっている模様。このおばちゃんが、大問題。食事を運ぶのも、布団を敷くのも、私たちが見ているテレビを見ながら。布団を敷くのに、30分もかかっている。食事の片付けも、電話をしてから30分以上待たされ、こちらはいつくるのか?いつくるのか?と。
 翌朝も、朝食の指定時間に一向に現れることなく、電話で催促するはめに。おばちゃんが、布団をたたむのにかかる時間を考えて、こりゃたまらんと、自ら布団をたたみ始める私たち。けれど、それがおばちゃんは気にくわなかったようで、そのままにしておいてくださいといわれ、たたみかけの布団の横で食事をとるはめに。
 うぉぉぉ。これでは、素泊まり安宿の方が気持ちがラクチンだったよ。結局朝食後の片付けにも、おばちゃんは一向に現れず、しびれを切らしたあたしたちは、なんだかこの悲しい気分をお別れするために、宿をさっさと出ることに。御会計の時に、サービス料をとられ、御土産をもらい、みやげ物はいらないから、サービス料を返してくれよと思ったのは言うまでもありません。。。ちなみに、この宿で見た従業員はおかみさんと思われる人と、このおばちゃんだけなのだけど、どうやらおかみさんは、おばちゃんにいらついているようで、それが客に伝わるのも、なんだかなぁと思って、ますます悲しくなり、宿を去った私たちでありました。

 その後行った大涌谷は登山道は閉鎖なうえ、とんでもない強風で立っているのもやっとだし、視界も悪いし、ロープウェイもとまるし。もういいよ、箱根なんてこないよ!と捨て台詞を吐いて、黒卵を握り締め帰ってきたあたしたちでありました。登山道が閉鎖しているってことぐらい、宿で教えてくれてもよかったのに。。。


2003年03月01日(土) 小物

 今日、また帽子を買ってしまった。洋服をまったく買っていない中、この冬?3つめだ。帽子ってのは、おしゃれさんの物だと思っていたし、あまり似合わないので好きではなかったけれど、髪の毛を気にせずかぶってしまえばすぐに外に行けるので、とても便利なことに気づいた。そのうえ、あったかい。

 めがねや帽子やスカーフなど、小物にこだわる人ってなぜ?と思っていたけれど、なんとなくわかるようになってきた。こりゃはまる。洋服を買うよりずっと楽しい。お安いものでも、なかなかこっていろいろ選べるのも素敵。そのうえ、それ一つでだいぶ感じが変わるし。去年インドで、たくさんショールやスカーフのようなものを買ってきた。そろそろ春ということで、これらを楽しく使えるので、わくわくだ。


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