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2023年11月17日(金)遥かなるまわり道の向こうで
「好きなつながる文化放送」というキャッチコピー。

私そのものを表現しているようでとても大好きなのだけど、
私の”好き”を繋げてくれたKANさんが亡くなってしまった。

病気のことは知っていたのだけれど
正直なところ、どこか「ま、大丈夫だろう」と思っていた。
不定期ではあるものの元気そうに2本のレギュラーラジオを続けていたし、
Twitterもこまめに更新されていたから。

10月の改変で10年以上続いているWabiSabiナイトの番組名が変更され、
代理DJで続いていたロックボンソワも月1レギュラーに変わり、
ふいに嫌な予感を感じることもあったけどなるべく考えないようにしてた。

旅行のツイートにも楽観的に捉えることができたけど、
今思えばあれは”観光”ではなく奥様との想い出の地への旅だったんだろうなと。

私が訃報を知ったのは職場のトイレ。
午後半休だったので帰宅前に済ませておこうと11時過ぎに用を済ませ、
ふいにのぞいたTwitterのつぶやき。
慌ててヤフーを開くと訃報が飛び込んできた。

トイレの個室でガタガタと手が震え、
席に戻っても一切仕事が頭に入ってこない上に、、
手先が突然冷えてきて、明らかに体がおかしくなった。
金曜日に公表してくれた事務所に感謝している。
(なんなら週末でも良かった)

訃報の知らせから1時間弱で帰ってこられたことは不幸中の幸いだった。

ただ、午後半休してひとり外食でがっつり食べるぞ!と意気込んでいたけど
一気に食欲がなくなり、
総合病院で親知らずの抜歯手術をする予定だったけど
訃報で体調も芳しく無く、そちらも中止して帰ってきた。

このままでは体を壊すと思い、半ば無理やり通りがかったお店で
食事は済ませたけど、もうすっかり食欲がない。

ここ10年はKANさんは私の生活の一部だった。

KANさんとの出会いは更に10年前の2002年頃放送した西島さん目当てで見た
BS-i(BS-TBS)のオムニバスの連続ドラマ「恋する日曜日」の主題歌だった。

ベタな内容と懐メロな主題歌たちにもハマり、
レンタルショップで借りたオムニバスアルバム「Kiss〜Weekend Lovestory〜」に
収録されていた「言えずのI Love you」がきっかけだった。

イントロを聴いた瞬間のキラキラと優しさに包まれた曲調にひと耳惚れし、
それが、愛は勝つではない「KAN」というアーティストとの出会いだった。

今はどうされているのだろうとYahoo検索するとフランス留学で活動休止中。
これといった情報もなく、アルバムは廃盤、近所のTUTAYAにはベスト盤以外なく、
古いレンタルやでなんとか旧作を借り、「めずらしい人生」等、ところどころに聴く程度だった。

オフィシャルのメールマガジンを登録しておいたら帰国時にお知らせが届き、
帰国後のアルバム「遥かなるまわり道の向こうで」を何となく気に入って聴き、
ハマるほどではないけど、気になるアーティストの一人だった。

ときにaikoがKANの大ファンと知り、
どちらかといえば年齢的にaikoにハマって、
その後はKANさんの影響でPafume、きゃりーぱみゅぱみゅにドはまりし
KANさんへの”沼”も「遥かなる回り道の向こう」だったように思う・・・。

20代半ば、当時職場をやめるのをきっかけに上司と飲みに行くようになった。
その上司と音楽話で盛り上がり、図書館で借りたアルバムをコピーしてくれたのが
本格的にKANさんを聴くようになった。
ちょうど祖父が亡くなる頃、弾き語りの「50年後も」を繰り返し聴いたことをよく覚えている。
それはマイケルジャクソンが亡くなった、2009年頃の話。

当時はリーマンショック後、
職業訓練に通うため、大学の川沿いのバスの通りを歩きながら聴いた「ラジコン」。
灰色のぶ厚い雲からのぞく青い空に馴染んだことを今でもよく覚えている。。
(確かそのころ、原付きが故障して一時期バス通いだった)

その上司から頂いた音源をイヤホンで聴くだけで満足だった生活に、
突然、地元にKANさんの弾き語りの公演が。
(ちなみにそれ以来、地元公演はない)

あまり記憶にないのだけど、
直前に知って、mixiかなにかで譲っていただいた気がする。←mixi確認したらそうだった!

会場に入るとすでに本人がピアノを弾いているという不思議な状況…。
内容もあまり記憶にはないのだけど、
冷房嫌いなので何度か空調を変えてもらっていたことはよく覚えている。
あと、愛勝つの一番盛り上げる間奏明けのタイミングで彼の顔元にハエが飛んできて
曲を中断して「パクッ!!」とやったのはさすがだった。

そして、その後、ファンつながりで知り合った方にバンドライブ誘われ
そのライブにして心を奪われ、そこからKANさんは最も身近なアーティストになった。

地元でのSSKライブきっかけで母も連れてライブを行くようにもなった。
そして気がつけば私が好きだったスタレビの要さんとレギュラー番組で共演、
ラジオがネットで聞ける時代にもなり、KANはいつの間にか私の日常のひとつとなった。

その日常が突然無くなってしまい、
ここ数年、自分の中の幸福度が低かったけど、
彼の死で改めて自分が今までどれだけ幸せ者だったかを思い知らされた。
もう彼のおしゃべりを聴くことも、ダジャレを聴くことも、
ライブを見ることも、新曲を聴くことも、できなくなってしまった。

私の楽しい思い出の中にはKANさんがいた。
その楽しかった想い出を思い出すと、もう彼はいないという現実を突きつけられ
喉元のあたりが苦しくて吐きそうになる。

靭で毎年行っていた風のハミング、
もうKANさんがステージにはいないと思うと喉元が苦しくなる。

後悔でしかないことはここ数年、KANさんのライブに行っていなかったこと。
弾き語りばったりはコロナで延期になり、振替では行く予定の会場が飛ばされ、
バンドライブは息子と母も連れて3人で行けるか?と悩んでいたら選考締め切りを忘れ
一般発売時に母の体調不良(帯状疱疹で入院)でチケットを取りそこねてしまった。

いや、それは言い訳で結局は、

「また次、行けばいいや」

と思っていたからだった。

息子が小学校にあがれば一緒に遠征もできるだろうと。
家族であの巨大おっぱいバルーンで盛り上がろう!と思っていた。

母と息子と親子三世代でKANさんを見たかった。
もうそれは叶わぬ夢となってしまった…。

しかし、本当にめずらしい人生な人だったな。
お父様をわりと早く亡くされてるからか、
ラジオで自分が長生きする気がしないみたいなことを仰っていたし、
いつまでやれるのか、とも歌っていたし青写真程度に自分の生先を感じてたのかもしれない。

それにしたって早すぎる。
もっとライブにも行きたかったし、新しい曲も聞きたかった。
要さんとのくだらない会話もずっとずっと聞いていたかった。

きっとKANさんも病気になって初めて後悔したところもあるだろうし、
過去を振り返って決心して死を迎えたのだろうと思う。
歌詞から感じるKANさんはそういう強さを信念を持つ人だから。

でも、冥福を祈る、、、まだ死を受け入れられていない私には祈れない。
”心のきれいな人しか見えない”あの白い羽でどこかの星へ飛んでいってしまったのかな。

KANさんはきゃりーちゃんは歌手じゃなくても好きと仰ってたけど、
私もKANさんには、ただ、生きていてくれるだけでいいから、
この世に存在していて欲しかったな。

ずっと苦労されていた作詞、音楽制作、治療も、お疲れ様でした。
今までありがとうございました、とただ、お礼が言いたい。
一度ぐらいメールでもツイートでも伝えれば気持ちを伝えておけばよかったな。

あっちの世界でも今頃シャンパン飲んでるかな。

で、何となくの”日々の不調”を過労や加齢のせいと言い訳にして、
有給が残ってないことを理由に延ばし延ばしにしている健診の再検査もしようと思う。


※追記

訃報翌日の要さんと馬場さんのラジオも良かったけど、
要さんの追悼文にもとても救われた。
https://s-d-r.jp/news/20231120/

※wabisabiはyoutubeにアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=LnAMGEx_lks

KANさんのことは教訓にして、会いたい人にはとっとと会いに行く。
次のスタレビのライブはチケットを取った!

ふと思い出して探したこちらも貼っておきます。
(ちなみに私はKANさんではなく要さんに投票した笑)

おじさんミュージシャン総選挙
https://ameblo.jp/ojm2012/image-11280628171-12033889600.html


※11/17記述、加筆修正を繰り返し12/10にアップしました