日記ふう雑感 ひとりごと
DiaryINDEX|past|will
風邪をひいたのか、頭痛がして、やたらと咳き込みます。 ただし、楽しい話をしている最中と、集中して何かをしている間は痛みも感じませんし、咳も出ません・・・と思う。 現金なもので・・・。
ゆっくり時間をとって静かに休む」は著しく症状を悪化させるような気がする。
と・こ・ろ・で・ げんきんてこの漢字(現金)を使うのですね。恥ずかしながら知らなかった、、、。 意味:目先の利害によって態度を変えること、またそんな人。
確かに、私にとって楽しい話と興味深い何かは目先の利だゎ。
面白いと言えば、ロボットの話。 聴き手としてのロボットができたら、年寄りの多くはそれを欲しがるだろうという話だ。 聴いてもらうだけですむのならば、 神様仏様ナムアミダブツ、アーメンで、いいと思うのだが、 目の前に聴く姿勢の何かがいる、というのが大事なのだろう。
聴いて微笑んで相手に満足を与えるのは、聴く側に気持ちがある場合、 結構難しいことだ。
つまり現金な私のようなものには結構大変。 現金なロボットっていそうもないので、、、だから聴き手専門のロボットかぁ。
| 2007年06月19日(火) |
レイニーシーズンの話 |
再び例のインドの研究員との話。(彼は今週には帰国するのでこれが最後である。)
「日本は今レイニシズンだと言うことだが、インドでは本当に雨の降る時期をそう呼ぶのだ。東京は毎日天気が良くてアツイ。雨が降らなくてもレイニシズンなのか?」インドは大雨で大変なのだそうだ。
だが、 「田舎では農家が多いので雨は大事だ、そんで、(その間の話はすっ飛ばし)インドも一家族当りの子どもの数が少なくなってきている。将来年寄りの割合が増えるだろう」という話になった。 ちなみに彼の両親はまだ65歳と70歳だそうだ。私の両親はふたりとも80歳になると言ったら、かなり驚いた風で、
「どうやって暮らしているのだ?!老人ばかり集めたアパートに住んでいるのか?」と聞かれたので、おそらく老人ホームのような施設の事を言っているのだろうと推測し、いやいや、普通の家に住んでいる。私の生まれ育った家にふたりで居る、と言ったら、、、
「ええっ!!じゃ誰が食事を作っているのだ?」と驚かれたので、もちろん母だ、と答えたら、また、「えええっ!」と更に驚かれた。私は得意になって、母は健康でぴんぴんしている、わたしより元気なくらいだと言ったら、
「私の国では考えられない、あなたのお母さんは背が低いだろう。」ときた。 「あ、?ええ、わたしより小さいです。」 「やっぱりね。背の小さい人は猫背にならないからよく動けるのだ。私の母は女性の割には背が高い。私と同じくらいある(170センチほどとみた)。昔タフな労働をしていたので今は猫背で元気に動き回れない、、、、。」のだそうだ。
へぇ、それは背の高いお母さんですね、で一件落着した。
今日彼との話から得た結論と感慨:背の高い人は年を取ると猫背になる。日本人の平均寿命が世界の他の国と比べてずば抜けて長い、(特に女性は)を実感するのはこういう時かぁ。
NHKで仮想世界を取り上げた番組をやっていた。mixiのように言葉のみの世界ではなく画面に3Dの仮想世界が繰り広げられる。ゲームの世界と言ったほうがいいのだろう。好きなように架空の自分を作り上げ、好きな世界で好きなように時間を過ごすコミュニティなのだそうだ。仲間を作ると言うリアリティは保たれている。
メンバーの40代の男性2人が取り上げられていたが、1人は現実の世界ではサラリーマン、仮想世界では超美人の女性で周りの男性を翻弄しながら生活している。この人はまさに娯楽として楽しんでいるようだ。もう一人は現実には独身のしがない派遣社員、仮想世界では強靭なスポーツ選手として脚光を浴びている。自分は実際は負け組みだというその派遣社員は、仮想世界では成功者になれるといって画面に向かっていた。楽しんでいる風ではあったが、何か言うに言われぬ後姿である。
このふたりとは少し違うがもう1人の男性が登場。現実世界ではITコンサルタントだったがそれを辞めて、仮想世界でお金を稼いでいるのだと言う。このコミュニティの特色は仮想世界の貨幣が現実世界のそれに還元できるところだそうだ。実際の(仮想の?)銀行は実際にアメリカにあって、例えば仮想の世界で不動産屋を営み、儲けがあると実際のお金に換金できる。この男性は良い時は一月500万円の稼ぎがあると言う。妻と三人の子どもの生活をこれで支えているのだそうだ。
仮想の世界はほとんどが現実と変わらない。人に羽が生えて空を飛んだり、一瞬で顔が作り変えられたりと、そういうことを除けば。例えば道があって、土地があって、家があって、などなど現実的である。この番組に取り上げられていたのは分別のある大人で、自覚を持って遊びとして、或いはビジネスとして仮想世界を利用しているが、現実の社会に熟知していない若者たちがのめりこみ始めたらどういうことになるのだろう。
そのうち現実が忘れ去れる時代が来るのかもしれない。人は実際に言葉を交わす事はおろか、他人の実際の顔を見ることもなく、ましてや、実際の声を聞くこともなく、それでも個人は“生きている”世界。昔は現実と言うものがあったと、未来の知識人たちは言うかもしれない。彼らの目下の研究課題は、「現実とは何ぞや」である。「現実のコミュニティの不可思議さ」とか「“これ”は何を指す言葉か」とか(今とあまり変わらないか、表向きは)。外とか内とか、肉体とか精神とかそういう区別が今とは全く違うものになるのだろうか。
なんだか阿部公房の世界に入り込んだ気分になってきた。
| 2007年06月10日(日) |
ピアジェの『構造主義』 |
言語をつかさどる遺伝子は外部から言葉を習得するだけの能力なのか、個々の言語の元となる図式を伝える役割をも帯びているのか・・・ どうなんでしょうねぇ・・
構造主義といえば数学仮想集団ブルバキ(1934年)と『野生の思考』(1960年)のレヴィ・ストロースだが、ピアジェの『構造主義』(1968年)にこのブルバキもストロースも出てくる。ピアジェは1920年代に発表した「思考発達段階説」を皮切りに子どもの発達研究に業績を残した心理学者と言われるが、実は“自分は心理学者である以上に認識論学者である”とインタビューの中で述べている。彼に言わせれば“認識論とはいかにして知識が可能であるかを知る学問である。”『構造主義』ではフーコー、アルチュセール、チョムスキー等にも言及し、類まれなる科学的才能を各分野に発揮したと言われるが・・まったく、然り。
ちなみに、教育学の分野では18-19世紀にかけてのルソー、ペスタロッチ、フレーベルなどが近代の、ジョン・デューイが現代の祖と言われるが、デューイの『学校と社会』の初版は1899年である。ラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』1910年、アインシュタインの「一般相対性理論」1915年、ゲーデルの「不完全性定理」1931年等、それらに続く上に挙げた構造主義、それ以降、これらを「現代」で一括りにするには、あまりに中身が多すぎ、頭よりまずおなかがいっぱいになりそうである。
先日の赤門そばの話、やはり、ギャグで(か?)、学食にあるそうで、そっちの方のことだったようです。インドの研究員N氏と私の会話。
N氏「いやそば屋のことじゃなく、学生たちの使っているほれ、あの、広場の下の大きな食堂にあるのだ、そういうメニューが。。。アカモンヌドルだ。」
私「へぇ、、それじゃやっぱり私にとっては初耳だ。そんで、それはヌドルが赤いのですか、スープが赤いの?」
N氏「スープがチョー!レッドなのだ。赤いスープに面を入れているのが見えた。あまり赤いので、浮いている粒々を取れるだけとって食べたけど、おなかを壊した。それからというもの、私は毎日ワテイショクを食べている。」
私「ああ、ワね。それって多分ジャパニーズの意味ね。日本風にセットになってるヤツでしょう。」
N氏「そう、そう。これ、色々なものが揃っていてひとつ頼めばお腹がいっぱいになる。結構好きになった。」
私「だけど、あなたインド人なのに辛いものに弱いのですか?」
N氏「レッドには弱い。グリーンには強いが。グリーンペッパーなら一本丸ごとかじれるよ。」
私「ぎょえー、っ。」
N氏「メキシコや、南米のチリペッパーはもっとすごいよ。ところで私の故郷はダージリンティで有名な産地なのだ。ダージリンティはアッサムティより高級品である。」
私「はぁ。」
N氏「そうだ、あなた剣玉って知ってますか?これは長崎が発祥の地であるよ。子どもの発達に良いのだそうだ。息子にお土産で買って帰りたいのだが、どこに行けば買えるのだろうか?」
私の英語聞き取り能力と日本語訳能力を併せて披露すると得体の知れないものになりそうなので、このくらいにしておきます。インドの研究員の方の名誉のため付け加えますが、もちろん彼は実際にこんな話し方をしているわけではありません(おそらく)。あくまで私の作り言葉です。コミュニケーションとは概して楽しいものであります。
と言うことで、某T大にいらした際には学食でお昼なぞいかがでしょう。アカモンヌドルという(?)メニューを探してみるのも面白いかもしれません。面白いかもしれないと書いただけで、お勧めはしませんが。
つくづく自分は堅物だと思う。 論理だの、制度だの、構造だの、、、。
絹のような表現ができる人はうらやましい。 が、細々と・・これで仕方がないと思う。
ふーむ、色々と・・・どうしたものか・・。 堅物は固い城壁の中でふにゃふにゃとものを思う・・ ーーー
なーんちゃって。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以上、Mixiの今日の書き込み。
どれもこれも絶対ではなく、私は試行錯誤してるに過ぎないのですが、 どうもひとつの表れで評価されることしばしばあり、 城壁製作に走ってしまうのでした。
今日、仕事の帰り際に、来日中のインドの研究員が話しかけてきた。 「この前アカモンヌドルを食べた。レッドペッパーをたくさんかけて食べたらおなかをこわした」 と言う。 学食にギャグで赤門うどんなる、からーいうどんでもあるのだろうかと思ったので、 「そんなうどんがあるのか。初耳だ。それにしても、そりゃ、大変だったですね」などと相槌を打って、 「ほんじゃ、シーユー、また来週!」と帰ってきたのだが、 どうも気になる。 あれこれと考えた結果、そうだ彼は『赤門そば』という蕎麦屋のことを言っていたのだ、きっと、と一人で納得した。 赤門のそばに、こちらは商売繁盛をかけたほんまもんのギャグ・・かどうかは知らないが、 赤門そばというそば屋があるのだ。
私も何度か入った事があるが、極ふつーうのそば屋だったはずだ。
私の英語力のなさが誤解を招いているかもしれない。
来週、もう一度聞いてみよう。 「赤門のそばだから『赤門そば』なんです、おもしろいでしょ」 と英語で説明して面白いかどうか・・・。
|