日記ふう雑感 ひとりごと
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| 2007年05月27日(日) |
コニシキのレストラン |
昨日、下の娘の誕生祝をしに後楽園にあるコニシキのハワイアンレストランに行ってきました。 店内にステージがあって、不定期にハワイアン音楽の演奏やフラダンスのライブが行われ、タイミングによってはコニシキの歌や演奏も聞けると言う結構評判のお店です。 予約をしないとほとんど入る事ができません。 昨日はフラダンスのステージでした。 間近で見ると、色っぽさ、身体の柔らかさ、表情の作り方など、mm−さすがーと言った感じ。 兄のところに遊びに行った際に見たベリーダンスと似たものがあると思うのは、私が日本人だからか?
食べ物も飲み物も美味しく、 空間の割りに客数を増やさないテーブルセッティングでゆったりとした中で時間を過ごしました。 コニシキには会えませんでしたが、武蔵丸と勝野洋の娘さん(女優でフラダンスもやるという・・あの・・何とかいう・・名前は忘れましたが・・。)が来ていました。 武蔵丸はテレビで見るまま、、つまり、、、よく街角で芸能人を見ると、 「テレビで見るより顔小さいっ!痩せてるっ!なんかお高くとまってる、、などなど」と言いますが、 そんなものが全くなく、、、あのまんま・・ 「顔おおきっ!、身体デカッツ!か〜わいいっ!」なのでありました。
で、娘はニジュウンサン回めの誕生日の一日を無事終えたのでした。
はしかが大流行だが、今度は早稲田大学が休校になったそうな。 若い諸君は十分注意が必要、、特に男の子、、らしい。 と言うような話を昼間していたのだが、 なんで中年は話題にならないのだ、と自問自答した。
オバサンは免疫がたっぷりできている。 オバサンは強靭である。 オバサンは今かかってもその後の心配の必要がない。 医療がオバサンにかまっている暇がない。 等々。
オバサンについてのオバサンによるオバサンのための自問自答だから、 かなり信憑性があると思われ。。。
で、なんで中年と言えばオバサンなのか。 オバサンの自問自答だからである。・・????
真面目な話こういうことらしい↓ http://www.nikkeibp.co.jp/archives/421/421235.html
今日、大学の講堂で大江健三郎の講演会があった。 聞きたかったが仕事なので脳裏からはずす事にした、、、。 小説はほとんど読まないが、夏目漱石と島崎藤村、大江だけはなぜか全部読破した。
某氏いわく、 「大江健三郎って喫茶店でエロ話ばっかりしてる・・らしい」 ホントかうそか定かではないが、、確かに、、、、それっぽい。 夏目と島崎にない色が大江の作品にはある。
今日の私の心境: 「王様の耳はロバの耳の話に出てくる床屋。且つ地面に穴さえも掘れない。」
友達に言われた。 「何かにぶち当たった時でもさぁ、あなたって振り返えらんよねー。悩み潰れるって感じが全然ないよね。何がそうさせるん?」 「ん、何がそうさせるか・・。いやなことがあった時・・・本を読む。それも学術書。。。でへっ。。」
今日、大学が同窓、同じ学年だった方と話をすることがあった。 「同じ時期に同じキャンパスにいたのねー。」 うーん、あの頃、私は学術書を読まなかったなぁ、ほとんど。 目を通していたが、読んでいなかった。 で、かなり落ち込んでた。
毎日のように迷惑メールが来る。それも何十通と来る。 最近”私のメルアド”から、”私宛に”いわゆるみだらな内容のメールが何回か入っていた。 他人のアドレスを使ってジャンクメール等迷惑な発信をするのはインターネットに詳しい輩には簡単な事らしい。 非常にいやな感じだ。
”私”という人間を知っている人で、”私のメルアド”から、いかがわしいメールが届いていたら、それは”私”からではないので、よろしく。
”私”を実際知らない人へ届いていたら、それは”私”からではないですが、なんと言うか、申し訳なく・・。
「実際知っている」にこだわる私としては、瑣末な事といえば瑣末なことだが、やはりいやな感じだ。 インターネットは便利、私にとってもなくてはならない存在になりつつあるが、何かこう、「突付けない感じ」がもどかしい。 実際情報を得ている事自体が”事実”であるとすれば、ITの世界とはやはり情報の世界である。
かつてのカントの時間と空間、ユークリッド幾何学の空間からトポロジーの空間へ、人の認識は広がっている。が、、が、、、インターネットの世界の”事実”は私にとってはやはり何やらモヤモヤとしている。 時代の先端にいないせいだろうなぁ。
連休真っ最中に長野に帰省してきました。 行きの新幹線は始発から既に160%の乗車率、毎朝の通勤列車とまったく変わらない混雑でした。 さらに、天気の良い連休の中日に観光名所善光寺に行くという無謀をしてきました。 住んでいる頃から考えても5月の連休というメジャーな日(?)に善光寺など訪れたことなどないのに、なぜか恐いもの見たさの心持が両親とジャストフィット、親子して出かけたのでした。
とにかくすっごいヒトでした。 私が高校に通っていた頃に比べ(通学路でした)近辺の道路は広くなり、建物は明るくなり、空間も少しは観光地らしくなった感あり。 それにしてもヒトが多く、特に若いヒトが多く、東京でこういう中に身をおけば必ずと言っていいほどストレスを覚えるのに、我が故郷、観光地としてはこうあるべきだよなぁ、と何やらうれしさのようなものを覚えたりして。 観客半分身内半分の無責任な感覚でありましょう。 ただし、東京のお店があちこちに進出してきていて、それらが地元の店と脈絡なく並び、町全体が困惑気味、統一感がなく流動的な雰囲気が漂っているのは否めず。 流されるな地元!主張せよ地元!
此処まできたらそばを食べずに帰れまいという父の決意の元、何軒目かでやっと席を取ることができた小さな手打ち蕎麦屋で信州そばを食べ、ぶらぶらと散策して帰ってきました。 久しぶりで両親と善光寺参りをし、のんびりと時間を過ごし、気負わない夕飯を食べ、一言で言ったら、有意義な連休でした。
外部環境が感知されないような状態で生活すると生物は独自の一日周期を持っていることを示す。 光や音を遮断された中で、時計を持たずに自由に寝起きすべしと言われると人の一日は25時間になるという。 人はヒトとしてこういう周期を持っているにもかかわらず、地球の自転に合わせて一日のサイクルを24時間に調整しているのだ。 生まれたての赤んぼはこの”大体の一日周期25時間”さえも持っていないらしい。全く生の生物状態だ(?)。 (生物は生だから生物というのだよなぁ。)
他の生物もそうらしいが、人間もこういう機能を持っているというのは・・なんだかうれしいような、悲しいような。 結局地球様さまということになる。 何かに同調して、何かに擦り寄って、何かに依存して生きているのが人間だが、その大元は地球ということになれば、暴れてももがいても同調傾向は振りほどけないわけだ。
生物の生物たるゆえんがこの概日リズムを持ち地球の自転に同調することであるならば、生まれたての赤んぼは生物とは言えないのか?
最近の研究では赤んぼの能力の高さが証明されつつあるというが、 やはり頭の中と身体のつくりにはズレがあるのか。 人間の子どもには生物的には未熟で生まれる、だから脳が大きい。 脳が大きいから未熟で生まれてくるのかなぁ。
読んだ本 中川八郎・永井克也著『脳と生物時計』
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