日記ふう雑感 ひとりごと
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今日で6月が終わりである。
日記のページをもう一つ作った。
| 2003年06月28日(土) |
またまた阪神戦実況中継 |
夫の携帯電話は阪神戦実況中継の保存箱である。 今日の阪神戦は昼間の試合だ。 今回鳴った携帯は前回とは違い、メールらしい。 送信方法が違うと思ったら、発信相手も前と違う人だった。
「巨人の自力V消滅を祝って、さあ、みなさん大きな声でハイ、○×△◇!!」
なんだか知らないが、最後の4文字は口が裂けても言えないと言いながら、 メールを公表してくれた。(いいのか?)
「すいませーん、今、浜の球場に来ていまーす!」
から始まって試合中何回かメールが入った。 そして緊張の9回辺りからぴたりと止まった。 おーい、大事なのは結果だろう? たぶんアウェイ球場での勝利に酔いしれて、 六甲おろしを歌う周りの雰囲気に飲み込まれているのだろう。
それにしても夫の会社には変な人・・いや、阪神ファンが多い・・のか? 彼らの分かち合いの精神は見事なものだ。 これは職場の傾向なのか、阪神ファンの特徴なのか。
土曜日の午後、出勤している人もいるらしい・・のに。 お仕事をされている方、本当に頭の下がる思いである。 いつもお世話になっています。 この場を借りてお礼を・・・ いや、この場は私の場であった。借りる必要はなかった。 本当に、仕事をしている人も実況中継してくれている人もありがたいことである。 大人の世界もまんざらではない。
いやー、かりんとうを食べながらサイモン&ガーファンクルを或いはエリック・クラプトンを聞きスポーツ雑誌を見る、最高です!・・・スポーツ雑誌は今手元にないので、テレビ番組表のスポーツページで我慢をしておく。桑田佳佑の歌うビートルズでもいいかな。ジャズバージョン宇多田ヒカルでもいいし、なつかしのキャロル・キングもいいな。だが、かりんとうとスポーツ雑誌は欠かせない。
人間前に進んでいるのか、後にさがっているのかわからないが、 とにかく今日も”唯一の今日”が終わった。 いつまでが今日でいつからが明日かもよくわからない。 ま、元気で明るくこれの繰り返しだ!
今日6月25日は、サザンオールスターズの「勝手にシンドバット」発売25週年記念日だそうである。 25年にもなるのか。 私は桑田佳祐の詩が好きである。音も好きである。
何とかという評論家が今朝テレビで面白いことを言っていた。 「桑田佳祐は時代に相対的である。時代と一緒に動いているのでそれを感じさせない。 だが、常に動いている。その時の先を行くでも後からついて行くでもない。」 まさにそれだ。さすがに評論を職としている人だけある。
桑田は確か私と同世代であったと思う。学年で一つ上くらいだ。(原由子が同じ学年かな?) 学生当時青学に面白いバンドがいると、うわさになっていたのを思い出す。 ヒット曲をいくつも作りながら、 更に進化して行きたいという思いを出し惜しみしないところがいい。
私達の学生時代はいわゆる右肩上がりの時代の最終章であった。 “時の移りが進歩である”が真理であった世代に育てられた。 私達は成長すればするほど、そうではない事に気づかされ、 今までの理論は成り立たず、当然これからの真理などありえないことを学ばなければならなかった。
桑田の詩にはそういう思いが見え隠れするのだ。 過去と未来へのジレンマ。つまり意味かあるのは今なのである。 それも常に過去も未来も否定しない“今”。 時へのジレンマがわかりやすい旋律と懐かしい詩になってひとつの曲に作り上げられていく。 そこに桑田音楽の魅力がある。ジレンマがある限り桑田の音楽は元気である。 ・・・と少なくとも私は思う。
・・・・・TOKYO-FMサザンスペシャルを聞きながら・・・・・
スポーツに欠かせないのは“ルール”と“勝負”である。 ルールの下で勝負のために敢えて自分の限界を公にする。これがスポーツの醍醐味といえよう。 ルールを守る知恵と限界をさらけ出す勇気は見る者を元気にする。 試合に負けそうなときに如何に自分をコントロールするか、苦境に立たされたときにどのような解決方法をとるか。 勝っても負けてもこれを乗り切ろうとする人の姿を見るのが好きである。 勝っても負けてもこれを乗り切った後の人の姿を見るのが好きである。
あまり理屈は語りたくないが、スポーツ好きの原点はこの辺にあるだろう。 怒って、悔やんで、嬉しがる。そういうことなのだ。
勝ちと負けがある。 人の毎日も同じである。 人の毎日も、怒って、悔やんで、嬉しがる、それの繰り返しだ。
だから私はスポーツが好きである。
おととい、言い訳のように“理想の母親像”を書いた後、 ある社会学の女性の先生を思い出した。
いきなり、余談になるが その先生が生徒やお仲間と話し込んだ時にでる口ぐせに、 「わからない」という言葉がある。というより、あるのだそうだ。 残念な事に私はその場に居合わせた事はないが、 「わからない」から始まって、話がどんどん煮詰まっていくという。
一度この方の講演を聴いたことがある。 著書などを読むと押しの強い自己主張の人というイメージがあるのだが、 講演の後の、質疑の時間では、質問者の話をじっくりよく聞くし、 丁寧にお互いに納得いくまで答えようとしていたのが印象的だった。 「わからない」という言葉こそ出されなかったが、 一句一語まで汲み取ろうとするその姿勢には隙がない。 「わからない」はわかろうとする真剣な関わりの一歩であるとその時実感した。
もっと余談だが、 「わかった!」と言えば話は明るく収穫を得て終わるが、 「わかった、わかった」と言えば、逆に「話はここまでね」という否定的な気持ちの現れとなる。 「わかった」「わからない」はちょっと複雑なコミュニケーション道具の一つだ。
で、ここで今日の話の冒頭にもどる。 その時のこの先生の講演は、大きく社会制度についてのものであったと記憶しているが、 教育について触れた箇所で、親の関わり方を質問され、こう答えられたのを思い出したのだ。 「親は子供が二十歳になったら、もうきっぱり手を引いてもいいじゃないでしょうか。 20年間楽しませてもらってありがとう、って。」 そう、そう、20年間楽しませてもらって、などと言えたら理想だそうなと思った。
今のところ私の母親実像は、 「一日を何とかこなし、夜はゆっくりと一人でその日にあったスポーツの結果をテレビで見る」から先に進んでいない。
楽しませてくれてありがとうなど言う言葉が向う先は、中田ヒデとか小野、イチローや野茂・・・。 若きサッカー日本代表大久保、坪井や高原。陸上短距離界の星末次、長距離の福士・徳永、水泳の北島も。 それに卓球の愛ちゃん、柔道の田村、テニスの杉山も忘れてはいけない。 野球ではヤクルトの小さな石川とか高井とか、ダイエーの和田、阪神の久保田、巨人の真田も入れておこう ・・・・ ああ、たくさんにいすぎて、すまん、娘達よ、なかなか順番が回っていかない。 理想の姿は遠い。
たまっていた伝票やら、手紙やら、パンフレットやらを整理していたら、娘曰く
「母:朝やたら張り切るが、お昼過ぎにはすでにぐったりする生き物」。
身近なものにインパクトある定義を与え、疑似辞書を作るという、課題が学校から出ているという。 (某大、某教授のものに比べれば素直な課題である。) で、朝から張り切る姿を見て、既に午後にはぐったりしているという私の本質を見抜いている、 というか見抜かれている。
最近華奢な私は何か家事を実行しても3時間持てば長いほうである。 数年前は、掃除洗濯はもちろん、箪笥をひとりで動かす、本棚をひとりで組み立てる、などは朝飯前、いや昼飯前で、 且つ、キャベツ・大根・ジャガイモ、牛乳やサラダ油・醤油や砂糖などの入った買い物袋を持って30分は歩く、 本やジュース・お酒などの詰まった段ボール箱を近所の宅急便取扱所まで運ぶなど夕飯前であった。
今や昼飯から夕飯までの時間はずっと休憩タイムである。 娘の見越したとおり今日もよく休憩した。 あしたもじっくり休憩するだろう。 密度の濃い家事労働は私にとってはまさに朝飯前である。
金曜日は家族それぞれがそれぞれの場所で夕飯をとる事が多い。 長女は既に別の生活をいているし、 下の娘も女子大生という事で、なにやらお誘い多いらしい。 いい事だ。友達は多ければ多いほうがいい。ボーイフレンドは更なりである。 昨日今日突然子供たちが大人になったわけではないのだが、 なにやら感慨深い。それぞれがそれぞれの生活を大事にしている。
子育てとは子供を社会的な存在にする作業だと私は思っている。 つまり生れ落ちた瞬間から親がすることは、如何にこの子を手元から離していくかなのだ。 よく、子供なしでは生きていけないとか、子供の世話をする事が唯一の楽しみとか、 自分の思いどおりに子育てをするのが理想などという母親がいるが、 これこそ本末転倒である。 子供を生んだと同時にその子を突き放していかなくてはならない。 いや、子供を生むということはイコール分離なのである。 親業とはパラドキシカルな作業なのだ。 大事に慈しみ世話をやけばやくほど子供は順調に親を忘れ去っていく。 親はそれこそ理想としなくてはならない。
夫が難なく毎日を送り、子供たちがそれぞれの大事な関わりを優先し、 自分ひとりで夕飯時を過ごす。 今日は私にとっては理想的な金曜の夜だ。 ひとり思索に耽り、できたら夜中のコンフェでカップの試合を見たい。
本郷の老和菓子屋でかりんとうを買った。 本郷界隈も和菓子屋もかりんとうも好きである。 小さな店だが、昔ながらのお菓子が幾種類もあって、とても気に入っている。 何よりもいつ行っても自然で商売っ気のないおばあちゃんの笑顔がいい。 小さな屋根に大きく書かれた文字によれば、創業慶応2年だそうだ。 慶応って、西暦何年? 1800年代の半ばごろだろうか。
とにかくかりんとうを買った。 なぜかわからないが和菓子ではお団子や饅頭、大福などと並んで かりんとうが好きである。
あちこちの和菓子屋のかりんとうを制覇しようと考えている。 その意味でも早々にデジカメが必要だ。
そういえばサッカーのコンフェデカップ初戦を見逃した。 勝ったようだ。 次はフランス戦だが、テレビ放送は夜中なので見られない、おそらく。
がんばれ若者と老舗のおばあちゃん。
今日はなんだが力が抜けた日記になった。 力が抜けると素の自分が出る。 つまり、かりんとう(+おばあちゃん)とデジカメとサッカーの試合。 平和な我が日々。
最近、失敗が多い。 最近というよりもう随分前からである(生れた直後からかもしれない)が、 どうも寝不足のような気がする。 以前は睡眠時間が足りないと動く事もできなかったが、 このところ時間的にはたっぷりとはいえない睡眠にも関わらず、 朝は比較的すぐ起きられる、身体は動くし、お腹はすく。 コレがクセモノである。 爺さん婆さんの域に達したという意味ではない。 話は脱線するが、クセモノは漢字にすると曲者となる。 根性が曲がったというところから来ているのだろうか。
睡眠が少ない割りによく動けるので、チョンボが多い。 ついでにもう一つ脱線するが、チョンボとはなにから来た言葉だろう。 辞書によると「ちょん」には「頭が悪い」という意味があるらしい。
話を本筋に戻すと、まず、モノにつまずく。 コレは不注意もあるが足の運びが真っ正直なせいでもある。 電気の配線の多い場所では命取りになりそうだ。 実は私が仕事をしている部屋は電気のケーブルだらけである。他人ごとではない。 今日も電話が繋がらない、と言われてよく見たらソケットが抜けていた。 私かもしれんです、担当のHさん。申し訳ありません。 あなたが謝っていましたが今思うに、あれは98%私でしょう。
それからよくモノを落す。 コレも不注意もあろうが手の先まで十分に力が行き届いていないせいでもある。 大事な書類や割れ物の多いところでは、荷物を持つ手伝いなどしないほうがよさそうだ。 実は私の仕事は沢山の種類の書類を扱う。他人事ではない。 今日も書類を抱えていて、途中でぱらぱらと落としてしまった。 コンピュータがコレだけ普及した昨今、書類が多すぎるのもいかがなものか。 と、人のせいにする。
それからよくモノを忘れる。コレは不注意というよりは生まれつき頭が悪いせいであろう。 まさにちょんである。コレばかりは他人事ではない。 大切な用件はメモをしておいた方がよさそうだ。 実は私は仕事で電話をよく使う。 今日も電話で、ある事を問いただしていたら、以前同じ事を同じ人に質問していたのにきがついた。 何気なく誤魔化したが、あちらは気がつきつつ丁寧に答えてくれていたに違いない。 人間、優しさに支えられて生きているのだなぁ。
別に遠まわしに今日の失敗の言い訳をしているわけではないが、 睡眠は大事である。
睡眠が十分でも、よくつまづき、よく落とし、よく物忘れするとなるとフォローの仕様がない。 私も今日はたまたま睡眠が不十分でよかった。
休みで家にいると、一日中CDやテープで色々な音楽を聞いている。 音楽再生装置はすべて夫の管理下にあるが、コレだけは文句が出ない。 私も音楽は嫌いではないからだ。 最近よく聞くのは、サイモン&ガーファンクル、エリックルラプトン、ローリングストーンズ。 それぞよく知られた息の長いミュージシャンだが、 やはり同世代という事が聞きやすい理由だろう。 特にサイモン&ガーファンクル、エリッククラプトンの曲は ハイとローの具合がうまく合っていて私達の年代には丁度いい。 元気すぎずおとなしすぎず、である。
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休日の夜といえば、魔のプロ野球中継だ。 昨日雨で中止になったためか、今日の緊張度は高い。 テレビではBSと民放で同じ試合を放送していた。 好きなようにじっくり見ることができるにもかかわらず、 今日も夫はインターネットの阪神情報ページを見ている。 緊張してテレビの映像を見られないという。 まだまだ不安が多いらしい。 インターネットで勝った情報を得てすぐテレビをつけた。 案の定「阪神徹底研究」なるコーナーをやっていた。 こんなに阪神を褒めたたえてどうするというのだ。
ここ数日デジカメorカメラ付き携帯購入希望を家族に吹聴している。 色々な機能がひとつにまとまっている、PCとも互換性があると言う理由で 新しいバージョンの携帯電話に気持ちが傾きつつあった。 出歩くたびに雑誌を見たりパンフレットをもらって来たりしていたのだが、 昨日娘に言われたひとことでカメラ付き携帯は過去のものとなる。
「おかあさん、今の携帯だってメール一日に何件かするだけでしょ。」
そ、そうだが・・・
「無駄無駄。そうでなくても。無駄なモンが一杯付いてるんだから。」
た、たしかに。 パンフレットによればアニメキャラの女の子の声が聞けるだとか、 ダイナミックなゲームが楽しめ、サイトがアニメのように動き出す、とか。 どれがアニメキャラで、どれがゲームかさえわからない私には こういう機能は意味がないというか、もったいないというか、 要するにお金をかけるだけ無駄か・・・
という事で、気持ちは再びデジカメに向う事となる。 ソニーから最小のデジカメが今月の末に発売になるという。 こちらも同型前バージョンとの違いはメモリーステッィクである。 USBで繋ぐよりも保存のきく分楽な気がするのだが、 もう少し検討する事にしよう。 今度は気持ちが固まる前に娘の意見を聞いてみた。
「普通に撮るならその画素数でいいんじゃない。」
うん、今回は私もそう思う。 値段と必要性と私の腕前を考慮すればこの辺だろう。 家族共有で使えるし。
私の目下の目標は今の携帯電話をもっと使いこなす、である。
電車の中で頭を殴られた。
後ろで、学生風のお兄さんがつり革につかまって居眠りをしていたのだ。 ゆらゆらと揺れていたらしい。 何かの拍子に、つり革につかまっていた握り拳が丁度私の頭を直撃した。 かなりの衝撃だった。 振り返って「えーっつ!」と叫んだ時に最初に目に入ってきたのは、 気の毒そうに見ている周りの人達の顔である。 お兄さんは目を伏せて蚊の泣くような声で言った。 「す、すみませーん」。
ま、いいか。 私でよかったよ、おにいさん。 人前で寝てしまうほど沢山勉強して(かどうかはわからないが)、 明日の日本を担ってくだされ!
という事で、新しい日本建設のお手伝いをした気分で電車を降りた。 我ながら自分の単純さには惚れ惚れする。
| 2003年06月10日(火) |
デジカメorカメラ付き携帯 |
夜中の0時を回ったが6月10日の日記を書いている。 娘も学校の課題があるとかで、 そっちの方でパソコンをたたいている。 私はさっき転寝(これでうたたねとよむらしい)したのでいたって元気だ。
このパソコンを買って早2年がたつ。 今度はデジカメが欲しくなってきた。 新しく出た某社の携帯電話のカメラはうそのようにきれいな画像が撮れるらしい。 そして、どうやらそれはうそではないらしい。
デジカメでも携帯でもどちらでもいいが、 手軽な(金額が)カメラがひとつあるといいなぁと思い始めている。
私は習慣で、いや怖いもの見たさで、いや趣味で、(実はストレス解消で)、 月に何度かジャズの危機に接し、いやジャズを聞きに行って、 崇高な音楽を耳にし、貴重な話の輪に入れてもらっている。 ものの表現方法としては、 飛び跳ね演奏のジャズピアノやくだらないおしゃべりはよい手段だと思われる。 これと並んで重要なのが、カメラである。
大学の頃から専攻した分野の関係上、常に論理的に考えろと言われてきたが、 ジャズ→おしゃべり→カメラ はかなり論理的だ。
つまり、ジャズを聞くとおしゃべりがしたくなる。 おしゃべりをすると、カメラが買いたくなる。 なぜなら、おしゃべり相手みんながカメラを持っているからだ。
かなりの字数になったが、何のことはない、 カメラが欲しいなぁという日記であった。
ここ2,3日暑い日が続いていたが、 今日は朝晩涼しかった。 これから梅雨に入るらしいが、仕舞い込んだ長袖類がまた必要になりそうだ。
兄がある本に載せた文章の別刷りを送ってきた。 最近若くして病気で亡くなった(まだ60歳であったという) 兄の恩師についての文章である。 じっくり読ませてもらおうと思っている。
自分が影響を受けたと思える師がいるというのは、貴重なことだ。 様々な影響を受ければ受けるほどその人の個性が色濃く形作られるからだ。
年を重ねると謙虚でいられる時間は少なくなる。 自分が誰かに影響を受けたと思える気持ちは謙虚さでもある。 細々でいい、いくつになっても謙虚さは忘れないでいたいし個性的でありたいと思う。
最近、目の調子が非常に悪い。 眼鏡をかけている時間が日増しに長くなってきた。 以前は鼻の上の違和感のが ものがぼやけて見える不愉快に勝っていたのだが、 この頃は、目が疲れて疲れて仕方がない。 違和感の方がすごすごと姿を消した。
眼鏡のおばさんが板に付いた感がある。 久しぶりにお会いした方が何の反応も示されなかったのだが、 眼鏡に違和感がないのか、 私の顔に眼鏡があることに違和感がないのか、 ああ、そんな年なのだろう式に違和感がないのか。 −−−−どう考えても三番目の理由だ。
何十年もそうでなかった者が日常的に眼鏡をかけると、 頭の回転にも何かが引っ掛かったような気になってくる。 そうだ。近頃ミスや思い違いが多いのは眼鏡のせいだったのだ。
あちこちで迷惑を被っておられる私の関係者の方々、 そういうことですので、ご了承下さい。 もうしばらくの辛抱です。
今日の日記は非常に意味があった。
******************************** いやー、阪神が惜敗である。(インターネットによると) 神宮球場の怪か。 まあ、浦和レッズのファンである私としては これでペナントレースが面白くなって来たと密かに思っているのだが・・
夕食後、夫と二人でテレビのナイター中継を見ていた。 巨人広島戦も終盤である。 河原の哀れ無表情ドアップ画面も上の空で、 夫はインターネットの阪神情報板に一喜一憂している。 これは何も我が家の力関係を物語っているわけではない。 ただ単に阪神戦が放送されないだけの話である。
夫の携帯電話が鳴った。 大阪の同僚の人からだという。 夫が電話に出た。 夫の携帯電話であるから当然である。 それは甲子園球場からの実況生中継であった・・らしい。 今回はお笑いエッセイのファンではなく縦じまファンである。
下はその最後の会話だ。 といのも、それまでに試合の途中で2回ほど電話が入ったらしいのだ。 私は運悪くその2回には居合わせなかった。残念である。
同僚氏「勝ちましたーー!グワァーン、ガガガガー、オワァーン、オワァーン、ワァー、ワァー」
夫 「おおっ!」 ―後半のカタカナ部分はバックの効果音である―
同僚氏「勝ちましたよーっつ!」 (わかってるて。テレビもインターネットも見てるし。)
「・・・お、おい、聞こえヘン、聞こえヘンて・・ワァー、ウェオーッツ!!」
夫 「うん、そうか!」
同僚氏「すいませーん。・・明日もまた来まーすっ。・来ますよ〜・グワァーン、・・ろっこう♪〜〜タイガー」
(それにしてもすごい音だ。)
同僚氏「―ス♪♪・・・ありがとう・♪・ざいまーす!」
(ありがとうって・・)
夫 「・おーい・、もしもーしっ・」
同僚氏「・・・そ、、、、♪♪ガース♪〜、ウォウォーォウォー♪・そい・ワー・そいじゃーまたぁ♪」
――――――プチッツ。。。。。。(切れた・・・)
夫の阪神熱は会社でも有名らしいが、だからと言ってなぜ今日だけ実況なのだ。 ありがた〜い中継を受けた本人によると今日は大事な試合だったらしい。 上記会話の( )内は私のひとりごとである。 携帯電話にも関わらず、なぜこれほど臨場感を持って再現できたかといえば理由はこうだ。
ひとつ、同僚氏の声そのものが大きい。 ひとつ、同僚氏の後ろで叫んでいる同僚氏の同僚達の声が大きい。 ひとつ、甲子園球場全体に六甲おろしが流れている。 ひとつ、その六甲おろしの声そのものが大きい。 ひとつ、夫の携帯電話は年配仕様で、設定文字及び音声が異常に大きい。
地元の盛り上がりようはハンパではないらしい。 関東の地方都市にいては“あの大阪”は遠い。
それにしても夫の同僚は面白い人が多い。 夫が面白い人を選ぶのか、面白い人が夫を選ぶのかわからないが、 私も恩恵にあずかれてあり難い事だ。
今年も衣替えの時期を迎えた。 衣替えと聞くと、無事にひと季節を乗り越えた気分になる。
我が家には今年から女子高校生もいなくなり、忘れかけていたところだが、 やはり厚い上着を一枚脱ぎたくなるようなさわやかな空気を感じると、 「衣替え」とは心地よい言葉を残してくれたものだと我先達の繊細さを改めて思う。
珍しく日記らしい日記になったと思ったら、 今日は6月2日であった。 衣替えとは制服などを季節のものに変える日なのだから、 実質的には休みの日には当てはまらないだろう、 などと自分勝手な思い込みが、1日分の勘違いを生んでいたらしい。
と、珍しく日にちにも気を配ってUPしようと思っていたら、 0時をまわってしまった。 タイトルは6月2日の日記となっているが、 実際書いているのは6月3日である。
結局中身のない日記になってしまった。 とにかく今年も何事もなく衣替えの日を迎えたとだけ、記しておこう。
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