日記ふう雑感 ひとりごと
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早くも1年が終わろうとしている。 年をとると、いや、年を重ねると本当に時間の経つのが早い。 もうすこしじっくりゆったりと過ごしたいものだとつくづく思う。
去年の暮れもそう感じたので、 来年(つまり今年)は時間の過ぎるのをしっかり自覚しようと決めたのだ。 自覚していれば少しはゆっくりに感じるに違いない。 浦島太郎も我を忘れていつの間にか爺さんになった。 これを思い出すたびに、 ”今はこれをしているぞ”、”ここにいるぞ”と自覚してきた。 が、時間は去年より早く飛び去った。 ・・・・気がする。
来年はもっと早く通り過ぎるに違いない。 ・・・・様な気がする。 困ったものだ。 と同時に楽しみでもある。
今日は、年末の挨拶をして今年の仕事を終えてきたが、 ある若い知人が、 「今年は何だかとても長かったです。色んなことがあったので。」 と言っていた。
あ〜、若いってそういうことであった。 来年が楽しみなんて言うようになっては、 1年はますます短くなるばかりだ。
とにもかくにも皆様お疲れ様でした。 来年もがんばりませう!
今年も残り少なくなった。 なんだか忙しなく、ゆとりがない。
ゆとりがないと面白い文章が浮かんでこない。 話し言葉には多少のギャグは入っても、 ゆとりのない中でユーモアのある文章を文字で表そうとすると、 なかなか思うようにいかない。 文字が透き通って、書いた者の心持ちを透かし見せてしまうかのようだ。
ところでゆとりという言葉は好意的に使われる事が多い。 昨今問題になっている 「教育にゆとりを」とか 「ゆとりある生活空間の実現」だとか。
辞書でひくと 「窮屈でないこと」だそうだ。 ためしに”窮屈も”調べてみた。 まさか「ゆとりのないこと」などと載ってはいるまいな、などと思いながら。 「思うままにならないこと」「せま苦しいこと」「気詰まりなこと」 「不十分なこと」とあった。
ゆとりもありすぎると、締りがなくなったとか、生意気だとか、 学力が低下したなどと言われる。 (教育のゆとりに関しては、 ゆとりを求めているのは教育する方で、 それが実現した途端に、 低下したといわれる学力を背負わされる教育を受ける方にとっては、 何がゆとりなのかますますわからなくなる。 最近の私は自称”若者の味方”である。)
ゆとりと窮屈の間はむずかしい。 窮屈ながらゆとりを求めて生活している状態が一番いいのかも知れない。
ゆとりのない中、いや、ゆとりのある中と言ったほうがよいのか、 夜、本を読んでいてさすがに眠くなり、 自分でも朦朧とした目をしているなぁと思う事が最近よくある。
娘いわく、 「目玉の上から、重力に逆らわない状態でまぶたが覆いかぶさっている」 のだそうだ。 親の顔をこんな風に客観視して見ているのか。 なかなかゆとりのあるコメントである。
| 2002年12月16日(月) |
教育振興基本計画H20.7 |
KS研究会に参加。 3度目。 私のような素人が出席してよいのだろうか。
初等教育についての制度的変化がゆっくりと進展しつつある、 一方、現実は堅固な岩のような・・・。
また電車が止まった。 今日で3日連続だ。 JR高崎線はよく遅れるしよく止まる。 昨日は停電事故により、今日は人身事故だそうだ。 あまり腹立たしいので多くは書かない。 早くなくてもいい。とにかくきちんと走っていただきたいものだ。
今日、本のページに紹介した本は その著者がちょっとだけ知った方達であるため、 いつもと違った表現になったような気がする。 年齢はかなり違う二人だがいつも元気はつらつだ。 あの元気と行動力が本になった。
実はもう一冊ある。 しかしこちらは市販されていないため、本のページには載せなかった。 その本は「食べ物交友抄」と副題をつけられ、 著者は既にお仕事を引退された男性である。 この方は、旅行も大好きで世界各国をひとりで飛び回る。 ある雑誌(今は不況で廃刊になった)に連載していたという その旅行記を見せていただいた。 探究心いっぱいの、だが温和な人柄がにじみ出た文章だ。
本というのは、書いた人を直接知っているのといないのでは、 読み方がすこし違ってくる。
知らない著者の文章からその人柄を想像してみるのは楽しい。 知っている著者の文章からその意外な人柄を発見するのもまた楽しい。
というわけで、・・・ということもないのだが、 (以前から考えていたことなので) 紹介する方もきちんと顔を出すべく、 トップページに名前を入れた。
雪が降った。 そして積もった。 通勤電車は1時間40分も遅れた。
ここからは大雪の朝の駅の様子である。
電車は大幅に遅れているのに乗客たちはあまり慌てた様子がない。 この雪にこの遅れ、こりゃ私ひとり焦ってもしょうがない、 といったところか。 ホームどころか改札口まで大勢の人でごった返している。 しかし、(私を含めて)人々はきちんと整列し、 来た電車に無理に乗車することもなく、順番を待ち、 むしろ前の人が乗るのを手伝って押し込んだりして。 中には、ドアに挟まって飛び出してしまったコートの裾を 丁寧に折りたたんで、何とか中に入れてあげている人もいる。
家を出る時はむせ返る満員電車を予想して気が重かったのだが、 意に反して、この日は駅も電車内も落ち着いていた。 返っていつもより気持ちにゆとりがあったくらいだ。
こんなに沢山の人達が毎朝小さな箱に詰め込まれて、仕事場に行き、 くたくたになるまで働いて何とか収入を得、 子どもを育て、親の老後を支え、国にお金を払い、 それでも、こんなもんだろうなぁ、 と思いながら毎日を送っているのだ。
いつもと違った駅の風景を見ながら、 そんなことを思い、なぜか落ち着いた気分になった。 群集心理のひとつといえるのかもしれない。 見も知らぬ一人一人に、大きな人の群れの一部を感じ、 それは自分も同じだという共感が心地よさを生み出す。 あまり私はこういうことを感じるタチではないと思っているが、 興味深い感覚であった。
いや、それにしても雪国に育った私にとっては これほど降っても、まだまだ今日の雪は“都会の雪”である。 道路は雪道というより、朝から雪解け道だ。 雨の日と同様、車の跳ねを気にしなければいけない。
また泥水をかけられた。今度は雪混じりだ。 某クリーニングチェーン店の名前が大きく書かれたワゴン車である。 あの車を運転していた人にとってクリーニングってなんだろう、まったく!
電車の中で耳にした会話。 勤め帰り風の若い女性ふたりが車内のポスターを見ながら 私のすぐ横で話し出した。
Aさん 「このポスターのキムタク好きじゃないな」
Bさん 「ひげ似合わない」
(キムタク?髭? み、見たい。でも振り返るのはかっこ悪い・・)
Aさん 「あっちのサカグチケンジの方がよくない?」 (サカグチ?ああ、あれか。私も嫌いではない。)
Bさん 「私の友達がサカグチの本物見たんだって。チョー顔デカイらしいよ」
Aさん 「えーっ、ハ○ガワとどっちがデカイ?」
(ハ○ガワさんて顔がデカイんだろうなぁ)
Bさん 「もちろんケンチャン」
Aさん 「私好きなんだけどな。 ほら、親がプロレスラーだからしょうがないんだよ。」
Bさん 「そうか。でもわたしは顔のデカイのはやだ。」
(プロレスラーの子どもはみんな顔が大きいのか?)
Aさん 「それにしてもシズカうらやまし〜。ダンナがキムタクだよ!」
(おいおい、どっちのファンなんだ)
ところで私は、両親はプロレスラーではないが実際顔がデカイと言われる。 (ついでに言えば背が低い。最悪のバランスである。 さらに、デカイのは顔だけではないだろうともよく言われる。 ”デカイ”が形容する言葉には”顔”の他に”態度”というのがあるらしい。)
だが、私の兄はあまり顔が大きい方ではない。 Aさん流に言うなら、兄の顔を見れば、 両親がプロレスラーでないのは確かである。 ということは、 私にも自分の顔は大きくないと言い張る余地は少しはありそうだ。 ありがたい。
人間はやはりバランスがいい方が接する方は心地よい。 見た目もそうだが中身もそうだ。 (そうか、態度がデカイということは、人間のバランスが悪いということか。)
見た目といえば、ベッカムの顔がもうひとまわり大きかったら、 ワールドカップ開催時における日本人女性達の行動は 違っていたのだろうか。
(文中敬称略及び乱暴な表現の箇所がありますが、ご容赦ください。)
「素人の哲学」と「自己紹介」のページを少しだけ作り変えた。 文字にした言葉は歴史になるというが、 ホームページの歴史は作り変え可能である。
レヴィストロースは、 彼の世界・ヨーロッパが作り上げた直線的歴史観に反抗した。 フーコやメルロポンティの思想もそうだが、 それは自己同一性の否定につながってゆく。
自己は常にどこかにホンモノがあって、 それを見つけて、ゆらゆらと動かないように固定し、 その状態を保っていくことが安定した生き方で、 尚且つそれが最良であるということが 正しいかかどうかは 誰にもわからないのだ。
ホームページのやたらな作り変えを レヴィストロースの構造主義で正当化してみた。 ・・・・・ 無理があった。
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