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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」

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2005年07月19日(火) 僕らはもう戻れない

コンサルタントは考えることのスペシャリストだ。
ひたすら考えつづける職業。
考えて考えて考え抜くことが宿命づけられている。

あんまり考えすぎると、脳は悲鳴をあげる。
オーバーヒートする。

コンサルタントだからといって、超人的に頭が切れる、という事はない。
同じ人間なんだから、一般人とそれほど違いはない。
生物学的に脳がとんでもなく優れている、なんてことはあり得ない。

後天的に、数学力や論理力を徹底的に鍛えているからこそ成立する職業だ。
求められている能力が数学力や論理力なので、文科系の職業でありながら、必然的に理科系のほうが向いている。

僕は超のつく完全無欠の文科系である。
数学力や論理力が決定的に欠落している。
一般的に見てもそれほど優れてはいない。
それに加えて記憶力もたいしたことがない。

僕の脳は、決して高性能ではない。
ただ、耐久性は高い。
アタマの回転はたいしたことがないけれど、ひたすら愚直に考えつづける事は得意だ。
直観力みたいなものも、優れている、とは思う。
だけど、本来必要とされる数学力や論理力は弱い。

僕が生きていられるのは、コンピュータやネットワークのおかげだと思う。
僕は、運良くこの時代に生まれた。
コンピュータを通して、外部記憶や他人の脳を共有し、活用する事に対する親和性は高い。
自分の脳の拡張として、外部記憶、他者の脳を共有する。
僕自身の脳は、ロクでもない代物なのだけれど、膨大な外部記憶や、優れた他者の脳を自分のなかに取り込み、一体化してしまう能力は、誰にも負けない。
僕の脳は、コンピュータやネットワークと一体だ。

気がつくと、僕は自己と他者の境界線が曖昧になっていた。
どこからが自分の本当の記憶で、どこからが他者の記憶なのか?
いわゆる精神疾患と同じ状況が日常化している。
現代は、「個」が「個」でありつづける事が難しい時代でもある。

コンピュ−タやネットを通じた外部記憶や他者の脳の活用には、いくつかの側面がある。
もともとは、人類が言語を獲得したときから、始まった。
言語を通じて口伝、という原始的なカタチで、他者との意識の共有は始まっている。
次に、洞窟の壁画にあるような絵文字を書くようになり、意識は、時間を超えることができるようになった。
そして、文字の獲得。
文字により、記憶の共有、保存性は飛躍的に高まった。
グーテンベルクの活版印刷の発明は、記憶の共有、保存性を飛躍的に高めた。
時代は移り、電子計算機、コンピュータの発明により、情報処理の力も得た。

現代は、その延長線上ではあるのだけれど、ネットワークの進化により、飛躍的な進化を遂げている。
ほんの数年間の間に人類の脳は、かつて経験したことのない拡張性を得た。
検索エンジンによる瞬時の外部記憶へのアクセス。
メールやメッセンジャーによる他者の脳の自分への取り込み。
コンピュータやネットワークの日常化は、人類の脳のありかたを飛躍的に向上させた。
僕のように、記憶力も数学力も論理力もない人間がコンピュータやネットワークのアシストにより、数年前からみると超人とも言える能力を獲得することとなった。

素の僕は、好奇心が異常に強いだけだけの、ただの人である。
僕の所属するファームで、スタンドアローンの状態で、学力試験でも受けてみれば、たぶん僕は最下位だろう。
スタンドアローンの僕は、ただの一般人だ。

テクノロジーの恩恵で、コンサルタント稼業を続けていられる。
僕の存在はいわゆるハブである。
外部記憶や他者の脳が僕にアクセスする。
僕自身も自分の脳をオープンソースとして開放する。
僕も外部記憶や他者の脳に積極的にアクセスする。
スタティックな外部記憶にも他者の脳にもリアルタイムでアクセスし、自分のなかに取り込む。

僕は、記憶力すらマトモではないので、PDAやOutlookを通じて、スケジュールやToDoを管理している。
今、何をすべきか、ですらテクノロジーの支援を受けなければ、マトモに管理できない。
M1000を使用するようになり、Outlookの情報にどこからでもアクセスが可能になった。
僕は自分が今やるべき事を、自分の脳で管理していない。
OutlookでスケジュールやToDo、優先順位を管理している。
いつまでに何をすべきか。
サーバー上で管理し、ウェブクライアントやM1000と同期を取る事により、自分の脳で必要とされる機能を代替している。
記憶は検索エンジンやデータベースである外部記憶装置。
他者の脳はメールやメッセンジャー、携帯電話。
そこには新たなるコミュニケーション能力が必要とされる。
自分の脳を超えたところにある能力を自分のものとして獲得する。
僕自身の脳は1万年前の人類のから何らの進化もしていない。
ただ、テクノロジーの進化、恩恵によって、僕自身がかつての人類にはあり得なかった能力を獲得することとなった。

加えて、センサーネットワーク、衛星。
僕の脳はセンサーネットワークや衛星ともリンクをはじめた。
僕の脳は、外部記憶や他者との連携を超え、地球そのものの意識とも連動を始めている。
生命体としての僕は何らの進化を遂げていないのだけれど、外部との連携を通じて、飛躍的な進化を遂げた。

一般的な人類は、外部記憶、他者との意識の連携に戸惑っている段階だろう、と思う。
僕はたまたま、その力をほんの少しの時間差で手に入れる事ができた。
僕自身の脳の力は、それほど優れてはいない。
外部記憶、他者の脳、地球に張り巡らされたセンサーネットワークといった外部環境を自分のなかに取り込むことによって、僕は超人的な力を得た。

僕は数学的な論理力といった基礎的な能力が欠落している。
だけど、自分に欠落している部分は外部の力を活用していけば何とかやっていける。
僕には、自分自身の身体で全てを処理しよう、という意識は無い。

ほんの数年前ならば、僕は病院に叩き込まれていただろう。
僕は、スタンドアローンでは存在しえない。
僕は時間や場所を超越した存在だ。
ネットのどこかに接続され、ハブとして存在しつづけている。
僕の身体は「個」だけれど、脳は既に「個」ではない。
だから僕は他者からは理解しづらい存在だ。

外見的には、素であり、個である僕は、スタンドアローンではない。
外部記憶を他者の脳を既に共有化している。
僕自身がどこまで、自分で有りつづけているのか、外部記憶、他者の脳と僕の境界線はどこにあるのか?
ハブである僕に対しては、自分からアクセスしていくだけではなく、外部からも多くの情報がアクセスされていく。
そして、そこには僕の身体は存在しない。
会社のなかで、僕の知名度、僕の思想は多くの人々に理解されている。
恐ろしいことに彼らは生身の僕を知らない。
僕が何を考え、何をやっているか、は多くの人は知っている。
だけど、彼らの多くは、僕の顔を知らないし、僕を見たことすらない。
社員の多くは僕の生身の姿を知らない。
情報存在としての僕は肥大化していく。
僕は小さなチームで仕事をするので、僕と相対して仕事をしたり、会話をする機会はそれほど多くない。
だけど、僕の脳が何を考え、僕が何をしようとしているかは理解されている。
僕はハブなので、膨大な情報が僕の脳を通過していく。
僕の処理能力を超えたら、他者の脳にリソースをわけてもらう。
脳のオンデマンド、というかリソースアロケーションというか。

凡庸な脳しか持っていない僕にとって、外部記憶、他者の脳との連携、センサーネットワークによる拡張は必然である。
僕は、もはや人間ではないのだろうか?と思う事がある。
コンピュータやネットワークを通じた外部記憶や他者の脳との連携は既に日常だ。
僕は堕落していくのだろうか?
それとも驚異的な進化を続けたいのだろうか?
身体はどこに置き忘れてきたのだろうか?

僕は小さな端末を持って移動している。
その端末は、僕の脳の延長線であり、僕と外部を繋ぐ生命線だ。
僕は身体を失い、脳だけが異常に進化している。
ただしくは、脳は今までと何らかわらないのだけれど、外部記憶や他者の脳との一体化により、大きく拡張された。

僕は僕が僕で有りつづけるために、デジタルな脳とアナログな身体を切り離した。
アナログなギターを弾き、旧世代のバイクに乗る。
そこは、僕に残された数少ないスタンドアローン環境だ。
肉体を維持しつづけることの経済的価値は低下している。

僕はデジタル化される事に対する反抗として、ギターを弾き、バイクに乗る。
身体を忘れないために。
きっと僕の身体は経済的にみれば相対的価値は、ほとんどない。
ただの浪費だ。
でも、身体が経済的価値を失おうとも、僕は無駄なエネルギーを注ぎ込む。
それは、無駄な抵抗かもしれない。
僕がコンピュータやネットによって拡張される事に対するささやかな反抗。
身体の価値が低下していくなかで、無駄な抵抗を試みる。
これから数年のうちに、人類は新たな局面にさしかかる。
かつて経験をしたことの無い領域だ。
たぶん、多くの人は、それを受け入れ、順応していくだろう。
でも、その先にあるのは、身体の価値の喪失である。
「個」の消失である。
あと何年、僕らは「個」として存在しつづけていられるのだろう。
一足先に、「個」を失いかけた僕は、アナログ世界に逃げ込んだ。
急速に外部記憶やネットを通じた他者との記憶の共有、時間や距離を越えて自己の境界線が曖昧化していくことに対し、身体性をとりもどそうともがいている。

個人の脳が凡庸であっても、外部記憶や他者の脳を取り込むことにより、人は人を超える。
一方で「個」は喪失されていく。
「個」を維持しつづけることは難しい。
「個性」なんてものは、既に存在しない。
「個性」を押し付けられた子供たちは一様に同質化している。
個性を持たなきゃいけない、という脅迫観念は逆に同質化をもたらした。
個人の価値観ではなく、他者から押し付けられた価値観。
個性化というただの同質化。
同質化していくことはたやすい。
僕の目からすれば、個性的なワカモノは同質化しているようにしか見えない。
消費された存在だ。
本人たちは個性化のつもりでも、ただの同質化された存在でしかない。
同質化されたなかで、微妙な、ほんの少しの差異を個性と呼ぶ。
差異はどんどんと小さくなっていく。
ファッションやカルチャーだけではない、経済や政治も同質化していく。
世界は加速度的に同質化へと向かう。
海外の大都市に行ってみろ、日本と何ら変わらない。
外国人と会話しても何の違和感も持たない。
同じ音楽を聴き、同じ映画を見て、同じアニメを見て、同じ教育を受けて育っている。
異なるのは気候などの環境条件だけだ。

同質化は変化に弱い。
何らかの変化がおきたとき、同質化した集団は簡単に崩壊する。

僕は壊れた脳を持つ。
脳はこわれつつも、コンピュータやネットワークとの親和性により、外部記憶や他者との脳の連携に力を発揮する。
デジタルデバイドは大きな問題だ。
デジタルに適応できない人たちは、確実に人類の進化から取り残される。
だけど、一方で、デジタル環境に異常な親和性を持ちつつも、敢えて距離を置こうとする僕がいる。
僕にとって、身体性の喪失が最も恐い。
僕を良く知る(知ったつもりでいる人)の多くは、僕の顔すらしらない。
初対面で挨拶をすると、相手は僕のことを良くわかっているつもりでいる。
だけど、僕の顔を見るのははじめてなのだ。
身体は置き去りにされ、僕の精神だけがネットを駆け巡り、僕のイメージを作り上げている。
これでも僕は生身の身体を持った人間である。
脳はオープンソース化されているとはいえ、わずかながらの生身の身体を維持している。
人間ドックでオールA評価の身体。
だけど、僕の身体には既にそれほどの価値は認められていない。
コンサルタントとしての仕事は脳が全てだ。
ネットワークを超えて生きる僕の身体の価値は低い。
僕の生身の脳すら、外部記憶と他者の脳との共有化で成立している。

拡張された僕の身体は、どこまでがオリジナルなのだろう?
僕の脳は、情報を処理、編集することに特化している。
記憶力は外部記憶に頼っているし、他者の脳ですらも自分の脳に取り込む。
センサーネットワークにより、地球環境すらも自分の延長線上になりつつある。

「個」というスタンドアローンである存在は、もはや意味をなさないのかもしれない。
自分にとって都合の良い情報のパッチワークが僕自身なのかもしれない。
僕は、僕であることを証明する手立てを持たない。
僕の意識は、すでに消失してしてまっているのかもしれない。

僕が「個」を維持し続けることは困難だ。
全体主義とは言わないけれど、僕は、自分だけの意思では生きていない。
借り物の記憶。
どこまでが自分のオリジナルの記憶で、どこからが借り物の記憶だかの境界線は定かではない。
曖昧だ。

人類の歴史上では、一瞬でしかないたかだか数年間で、僕らは生物学的には何らの進化をすることはなく、コンピュータやネットワークにより大きく変貌を遂げた。
加速を続ける僕たちはどこへ向かうのだろう?
単なるテクノロジーの進化ではない。
僕たちの身体は、人類としての質的変換に晒されている。
そこには、新たなテクノロジーは必要ない。
現在のテクノロジーの延長線上にある。

だけど、テクノロジーは僕らを外部から進化させ続ける。
僕らはどこまで、外部環境の進化に順応できるのだろう。
きっとどこかで破綻を来たすのだろう。

脳で処理すべきこと、外部記憶で処理すべきことの切り分けを全ての人ができるとは思えない。
僕は、自分の脳で処理すべき事、コンピュータで処理すべき事、他者の脳で処理すべき事のバランスを何とか保ってきた。
それは、どこまで維持できるかはわからない。
脆くて危うい。
外部記憶装置の活用はそれほど難しくはない。
多くの人々が順応するだろう。

だが、他者の脳の活用は一筋縄ではいかない。
ネットを通じているとはいえ、その先には感情をもった生身の人間がいる。
そして、それは一対一ではなく、1対n、もしくはn対nのコミュニケーションである。
数百人、数千人とのランダムな脳のぶつかり合いに、個人の脳は耐え切れるのか?
それは、脳の処理能力から言って、困難を伴うだろう。
でも、僕らはそれを避けることができない。
情報が一方的に発信される時代は過ぎ去り、リアルタイムにインタラクティブにやり取りされる。

僕らはもう戻れない。




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