散歩主義

2006年05月16日(火) 書くことの根本/梶井基次郎のこと

庄野潤三さんの随筆集「自分の羽根」を読み続けている。
気になったところを少し。

庄野さんは作品を書き始める前、まず内田百�痢�井伏鱒二、チャールズ・ラムを愛読していた。やがてイギリスのエッセイ文学に傾倒し、自ら作品を書きながら伊東静雄という師に出会う。

そして漱石を読み進み、さらに梶井基次郎の魅力を再発見する。なにをいまさら、というそしりを自ら受け入れると述べながら、庄野さんは梶井の魅力を語るのだった。

梶井基次郎は結核により若くして亡くなっているけれど、作家として認められたのはその死の直前であった。それまでの文壇の黙殺を指摘する三好達治の文章をあげて、庄野さんは同じように残念がるのだった。

庄野さんは梶井基次郎の悲劇的な生涯を嘆きながら、次のようにそのエッセイを結んでいる。

…
目立たない場所で、落ち着いてものを見、長い時間をかけて考えること‐これはけっして容易なことではない。しかし、時代がどんなに変わったように見えても、文学の根本は常にここにしかない。

…「自分の羽根」(講談社文芸文庫)に収められた「梶井基次郎」より…

この文章は昭和33年に書かれたものだ。
本日の京都新聞に文学研究の最先端として保坂和志さんの「小説の自由」と柴田元幸さんの「アメリカンナルシス」が取り上げられていた。
その抄録を読みながら、同じことが語られている、根本は微動だにしていないと感じたのだった。

特に保坂さんは小説とは考えることだという。そして書くことも読むことも孤独ではない、と言いきる。
見かけの孤独さではなく読み書きする個人の内部のことを語っておられるのだろう。ぼくはそう理解している。

梶井基次郎はどのように感じていたのだろう。
彼の絶筆(死の三ヶ月前、初めて稿料を手にした「のんきな患者」を三好達治は絶筆としている)は痛いほどのユーモアに包まれている。




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