散歩主義

2006年05月09日(火) 異境にて

昨日、たまたまめくってしまった吉行淳之介自選作品集�検�
今日も開いてしまった。
ヘンリー・ミラーの掌編小説を二つ読む。(「初恋」「マダム・クロード」)
訳は吉行氏。
みずみずしい文章だった。長編にあるような生々しさはない。
さらりとしていてちょっと苦い。

この作品集の解説は勝又浩氏が「第三の風景」というタイトルで書いているのだけれど、その最後に作品中の文章をひきながらこんな一文を書いている。

『いろいろの海の傍らのいろいろの土地で、平気で生きて、穏やかに遊ぶ人物』になりたい。

勝又氏はこの自選集�犬砲脇�っていない「暗室」や「錆びた海」などを題材として吉行論を展開しているのだが、
これこそ吉行氏が作品上で願ったことだと結ぶのだった。

この一行が頭から離れなくなった。
「平気で生きて」という部分が特に気になった。
故郷というものからは完全に切り離され、どこにいっても「よそ者」という感覚はぼくが小さい頃からずっと感じてきたことなのだ。
「いろいろの海の傍らのいろいろの土地」にいったら「そこなりのいろいろの苦労」や「そこへ溶けこむことを強制する力」からは避けられない事だったから。
しかし「平気で生きて」しかも「穏やかに遊ぶ」とは。

吉行さんは読者をそこへ誘っているようにも思える。
その静謐な境地をこそぼくも意識して考えてみようかと思う。
「平気」の裏には延々と続く意識の流れがあるように思えるのだが。

さて、それとは別にずっと購読している池澤夏樹さんのメルマガの最新号の話題が「世界を異境と思う」という事だった。
これはどういう事かと書き出すと、果てしなくなるので簡単に池澤さんが引用している部分を孫引きする。



『ディダスカリコン』の第3巻第19章をそっくり平凡社の『中世思
想原典集成』から引く??

 最後に異国の地が提起される。
 それもまた人間を修練するものである。
 全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。
 というのは、他方である人が言うように、
「いかなる甘美さで生まれ故郷がなべての人を引きつけるのか、そし
て自らを忘れ去ることを許さないのかを私は知らない」。
 修練を積み重ねた精神が少しずつ、これら可視的なものや過ぎ去る
ものをまず取り換えることを学ぶこと、次いでそれらを捨て去ること
ができるようになることは徳性の大いなる始源である。
 祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。
 けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人であ
る。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。
 第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分
散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。
 私はといえば、幼少の頃より流謫の生を過ごしてきた。
 そして、どれほどの悲痛をともなって、精神がときとしてみすぼら
しい陋屋の狭苦しい投錨地を後にするものか、どれほどの自由をとも
なって、精神が後ほど大理石の炉辺や装飾を施した天井を蔑むものか
を私は知っている。(引用ここまで)

 先のサイードおよびアウエルバッハの引用では「祖国が甘美である
……」以前がないし、「第一の人は……」から後がないから「全世界
が流謫の地であると思う」ことの意義がわかりにくかった。
 要するにフーゴーは現世を捨てて大いなる真理に向かえと言ってい
るのだ。
 世界は修練のためには煩悩だと言っているのだ。
 だから全世界が流謫の地と見えるようになる。
 彼は別の書ではもっとはっきり「全世界は、天国が祖国であるべき
であった者たちにとっては流謫の地である」と言っている。
(池澤夏樹「異国の客」からの引用ここまで)

つまり「自由」とはそういうことなのだ、とぼくは理解した。
(フランスのカソリック修道士にとって、と注釈はつけておくべきだが)

今日から多和田葉子さんの「ゴットハルト鉄道」を読み始めた。
彼女もまた、異境にいつづける人です。
日本でもありドイツでもある。あるいはそのどちらでもない、というような。

まったく関係ないけれど、サイトのトップページはノイバラに変わりました。開花した薔薇、二種類めです。


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